孫偉「靖康野史」(小臣孤憤野録) 京師陥落から張邦昌擁立までの回想
- 七澤の孫偉は、靖康元年閏十一月に金軍が京師を包囲し洗城を声言したため、欽宗が屈して青城の金営へ出向いたこと、その後留守使の張叔夜が靖康二年二月七日に在京文武官一命以上を秘書省に集め連署の牒を作らせ、故太宰張邦昌の擁立を金の元帥へ願い出た経緯を記す。
- 集められた官吏の名は名簿にまとめられ、異議を唱える者は軍中に送って斬るとの命が発せられた。留守の王時雍が名簿を回覧させ、御史中丞秦檜は軍前で異議を述べたため衆は動揺したが、大将范瓊が偽命を奉じて時雍に加担したため騒ぎは収まった。金は牒を偽って詔冊とし、張邦昌を皇帝に即位させ国号を大楚、金の年号(天会五年)を奉じさせたという。
- 孫偉は宣和年間の朝儀の盛んな様子を回顧しつつ、大臣の貪欲・礼義の衰退・風俗の乱れが既に久しく、文武百官が達奚珣のように大義を捨てて時雍・范瓊の脅迫に屈したことを嘆いた。
- 建炎二年、鼎州に寓居していた朝人・鍾翺の話として、名簿回覧の場で一人の諫官が「二百年の趙氏の天下を他姓に渡してよいものか」と厲声で異を唱え、汴京出身の士大夫が慟哭して同調し、奉直大夫寇庠・朝請郎高世彬と名乗ったことを伝える。
- 紹興二年、宜州で浙東の徐銭という人物から聞いた話として、堂吏張僅がその日集められた署名者の名簿を密かに写し取って篋に秘匿し、自らは受けた官爵の告身をすべて焼いて布衣に戻り、後に南都の新帝に上呈しようとしたが果たせず病没したという。また龍眠の李覚から、寇庠が剛毅な山東人であったとの証言も得て、孫偉はこれらの証言を照らし合わせて記録に残し、後世の史家の採択に備えるとした。
「野録總敘」京師陥落に至る経緯の総括
- 政和年間、辺境の臣が遼人の李良嗣・李善慶を朝廷に導いたこと、宣和初年に金が遼主の領土問題を告げてきたため童貫を河北河東宣撫使、蔡攸を副として北辺の経略に当たらせたことに始まり、宣和四年に遼の蕭后が金に臣従、金が遼を滅ぼして金国を称し幽州に入ったこと、童貫が功を私しようとしたため詔が改められ、宋が自ら幽州に入り燕山府を建てたことを略述する。
- その二年後、金が忻州・代州・太原府を陥として盟津を渡り京師に迫り、翌年三月七日に偽楚(張邦昌)を擁立させ、四月一日に太上皇と欽宗が北へ連行され、五月一日に高宗が南都で即位、九月に揚州へ幸したという経緯を記す。
- 著者は江上に留まる間、丁特起の「孤臣泣血録」、諫官袁彦範の「痛定録」「嘗胆録」、李綱の「傳信録」、太学の「擇術齋記」などを集めたが、記述に錯乱や誇張があり事実を尽くしていないとし、姦臣が主君を欺き朝政を誤らせた実態が埋もれ後世に誤解されることを恐れて、諸家の記録を月日順に編み直し「小臣孤憤野録」と題して残すと述べる。
鄧肅「靖康行」(詩) 金軍侵入から京師陥落の悲憤
- 鴻臚寺主簿の鄧肅が作った長詩「靖康行」を載せる。金軍が長安・黄河を越えて迫り、城を包囲し猛攻を加え、火を放って攻め込んだ惨状、宰相らが逃げ惑い皇帝が已むなく郊外で講和せざるを得なかった様子、民が香膏を焚いて哀哭する情景を詠み、太王が狄を避けた故事になぞらえつつも、いずれ天意が回復し万民が慶ぶ日を望む内容。
洛陽・西京陥落を悼む題壁詩
- 金が西京(洛陽)を占領した際、壁に無名氏の詩が題され、時代の激変により古都が兵営と化し民が寂れ、往時の繁栄と現在の荒廃を対比して嘆く内容が伝わる。
高世則の書、趙子砥「燕雲録」所引の洛陽題壁詩
- 靖康初め、洛陽陥落の際に別の詩人が壁に詩を題し、太祖以来の道統が絶え、九州が金に奪われた無念さと、当地の荒廃・白骨の惨状を詠んだと伝える。
遺史 孫賣魚の予兆譚
- 楚州の魚売り「孫賣魚」は、魚を売る際に魚の目に穴を開けては「お前の愚かさゆえだ」と言う奇行の持ち主で、後に妻子を捨てて道士となり人の禍福を予言していたという。
- 宣和年間、召されて京師に赴く途中、太上皇の譲位を知り亳州の太清宮に留まった。ある日突然、防虞用の水桶の氷を叩き割りながら「氷が厚くて打ち破れない」と大声で叫び、号泣して立ち去った。後にその日時が京城陥落の時刻と符合していたことが分かり、亳州の人々は「氷厚打不開」の一言が金軍の勢いの厚さを寓した予言であったと驚き伝えた。