三朝北盟會編建興下帙(炎興下帙) 建炎元年 1127年
十六日乙巳 敗軍・失策の官員処分、河中府陥落
- 京東転運判官閭丘陞は、動乱の中で専断・自便を図ったとして濮州団練副使に降格の上、封州安置とされた。
- 顕謨閣直学士・東平府知府の盧益は、藩鎮としての勤王義務を怠り酣飲に耽っていたとして落職・宮観に処された。
- 金軍が河中府を陥とし、知河中府事の郝仲連が殺害された。
十七日丙午 唐重の上書
- 天章閣待制・知同州の唐重は、即位赦書を拝読した感激を述べた上で、当面の些事より「祖宗創業の基を紹ぐ」「父兄播遷の難を思う」との詔意にこそ真の国家的急務があると説く長文の上書を奉った。
- 内容は、京師と両河を国家の根本・股肱とする認識、金の脅威が未だ去らぬ現状分析、関中への遷都・宗室藩屏の強化・西夏との友好・青唐故地の回復という四つの当面の利、法令の弊・朝綱の弛緩・軍政の腐敗・財政窮乏・民心離反という五つの患いとその対策を論じ、自らもかつて諫官として金への備えを説き左遷された経験を述べ、行在への召還を願うものであった。
二十一日庚戌 王襄・趙野の弾劾、襄陽陥落、翁彦国らの処分
- 資政殿学士の王襄・趙野は、勤王を怠り迂路を取って進軍を遅らせ、特に趙野は行軍中に民財を掠奪して各地を荒廃させたとして弾劾され、太中大夫・秘書少監に落とされ分司安置となった。
- 京師陥落後、京西の李孝忠(都城陥落時に脱出した兵士で、義兄弟らと徒党を組んだ人物)が襄陽府を陥とし、安撫使黄叔敖は城を捨てて逃走した。黄叔敖は落職・降格の上、監当差遣に処された。
- 東南で苛政を敷いていた翁彦国とその腹心呉昉が弾劾され、当初は呉昉のみが罪を問われたが、中書舎人朱勝非の異議により翁彦国も正式に処罰された。
- 殉節した孫傅・張叔夜には観文殿大学士が遥授され、金軍に抗して斬られた李若水には観文殿学士が追贈され、子への恩澤と銀絹が下賜された。
- 講和一辺倒であったとして耿南仲も観文殿学士から落とされ、杭州洞霄宮提挙に処された。
二十五日甲寅 邵溥の左遷、邵興の抗金
- 邵溥は、出使の任にありながら赴任を渋ったとして近班を解かれ小郡に左遷された。
- 解州の民・邵興(字晋卿)は、靖康年間の金軍侵攻を機に挙兵し「邵大伯」と呼ばれ、解州神稷山に拠って金軍と度々交戦し、弟を人質に取られても屈せず金軍を大破した。
二十八日丁巳 諸路への撫諭使派遣
- 高宗は、二聖奪還のためにはまず民心の安定が肝要として、諸路(川陝・成都・京兆・京西・襄鄧・荊南・江寧・揚州など)に撫諭使を派遣し、城郭・宮舎の修築や倹約を命じる詔を下した。
六月一日己未朔 張邦昌の待遇強化、李綱の行在到着
- 張邦昌に対し、元祐年間の文彦博の故事に倣い一月に二度都堂に赴かせる特例の詔が下された。
- 新任の尚書右僕射兼中書侍郎李綱が南京行在に到着した。御史中丞顔岐が「張邦昌は金の歓心を得た人物として重んじるべきで、金に嫌われる李綱は宰相に不適格」と論じたことに対し、李綱は「趙氏の臣として金に憎まれるのは当然であり、国を売った者が宰相にふさわしいとは道理に反する」と反論し辞意を示したが、高宗は取り合わず、李綱を都堂での執務に就かせた。
二日庚申 李綱、十事の劄子を上奏
- 李綱は国是・巡幸・赦令・僭逆・偽命・戦・守・本政・久任・修徳の十項目にわたる劄子を上奏した。
- 主な内容は、車駕がいずれ京師に還御し宗廟に謁すべきこと、関中・襄陽・建康を軍事拠点として整備すべきこと、張邦昌の即位赦書に基づく濫恩を正し祖宗の法に復すべきこと、張邦昌を僭逆として正式に処断すべきこと、金に屈した偽命の官を粛宗による安史の乱後の先例に倣い等級に応じて処罰すべきこと、軍紀を一新し賞罰を明確にすべきこと、河・淮での防備を固めるべきこと、政令を中書に一元化すべきこと、大臣を頻繁に更迭せず久任すべきこと、徳を修めて天人の心を得るべきことであった。高宗はこれを留めて検討し、国是・巡幸・赦令・戦守の五箇条をまず裁可した。