四月十一日 太后、垂簾聴政を開始/邦昌の三十三日間の僭位の実態
- 太后(元祐皇后)は東門小殿で垂簾聴政を始め、邦昌は太宰として退き資善堂に移った。編者は、邦昌が僭位の間、正殿に上らず常朝も受けず「聖旨」ではなく「余」と自称し、宮門の鎖にも「邦昌謹封」と署するなど、僭称を避ける態度を取り続けていたことを記す一方、王時雍・王紹・王及之らが「真の主」として阿諛し、天災を喜ぶような不忠の振る舞いをしていたと批判する。邦昌は諸路への赦を停止し、勤王軍はすべて康王の節制下に置かれた。
- 太后は手詔で天下に事態を布告し、「藝祖開基以来二百年、宋室の運命は尽きていない、康王こそ天意にかなう」と述べた。
四月十二日 宗沢・趙子崧、大元帥府に速やかな即位を進言
- 宗沢は大元帥からの書に謝意を示しつつ、「張邦昌は紅傘・赭袍を用いて正殿に居るなど簒奪の兆しが明らかである、速やかに乾坤を正し社稷を興復すべき」と強く進言した。璽や朝廷の印が金に奪われ、偽の文書が出回っている恐れがあることも警告した。
- 趙子崧も同様に、邦昌がすでに恐れをなして冠を改め元祐皇后の尊礼を進めていることを報告し、「機を逃さず速やかに正位すべき」と重ねて勧めた。
四月十三日 范瓊の虚偽の掲示/宗沢、五つの徳目を説いて即位を勧める
- 范瓊は金軍がなお滑州に留まっているとの虚偽の掲示を出し、民の反発を招いた。
- 宗沢は大元帥府に上状し、即位を勧めるとともに、統治の要諦として「剛正を親しみ柔邪を遠ざける」「諫言を納れ諛言を退ける」「恭倹を尚び驕奢を抑える」「憂勤を体し逸楽を忘れる」「公実を進め私偽を退ける」の五事を説いた。
四月十四日 開封府、康王を天下兵馬大元帥とする布告/諸方から勧進の上表
- 開封府は康王を天下兵馬大元帥とする劄子を掲示した。康王は二聖の行方を憂い、みずから兵を率いて追跡しようとしたが諸将に諫められ、宗沢の報告により黄河の橋を焼いて金軍の退路を断つ策に転じたことが記される。
- 監察御史姚舜明・知衢州王信・知江州胡唐世・南外宗正事らが連名で勧進の上状を提出し、「二聖の播遷により宗社は康王に頼るほかない」と訴えた。
- 趙子崧も第一の勧進状を提出し、「王時雍・呉幵・莫儔・徐秉哲・范瓊らはなお従逆に固執している、猶予すれば大事を失う」と即位を急ぐよう説いた。