四月九日(続)邦昌、大宋受命の璽を康王へ返還/太后、康王への継承を勧める書
- 邦昌は謝克家を遣わし、伝国の璽「大宋受命之寳」を大元帥府に届けさせた。康王は謙譲して受け取りを固辞したが、慟哭ののち跪いて受け、汪伯彦に璽を守らせた。
- 太后(元祐皇后)は甥の孟忠厚を遣わし、「自分は老いて久しく政務から離れており、真の主は康王をおいて他にない、速やかに入朝して即位せよ」と勧める書を送った。
- 謝克家自身の後の上奏(偽楚録)は、彼が邦昌の擁立当初から密かに「金軍撤退後は人心が離れる、康王と元祐皇后こそ天意である」と説き、邦昌に質素な立ち居振る舞いを勧め、璽の返還を進言していた経緯を詳述する。「秦湛回天録」も同様に、呂好問が邦昌に対し衣服・儀礼を控えさせ、璽の返還と康王擁立を粘り強く説得した過程を伝える。
- 大元帥府の幕僚は即位の地について協議し、済州の父老・軍民が瑞祥(紅光)を理由に済州での即位を願い出た一方、幕僚は「南京は太祖挙兵の地」として南京での即位を主張した。宗室趙仲琮らは「唐の玄宗蒙塵の際、皇太子は服色を改めず称制するにとどめた故事」を挙げて即位そのものに慎重論を唱えたが、耿南仲らは「唐粛宗が霊武で即位し両京を回復した故事」を引いて即位を急ぐべきと反論し、金の陣中から帰還した者が伝えた「太上皇が康王の即位を望んでいる」との言も後押しとなり、南京での即位が定まった。
四月十日 邦昌、退位して旧臣が復職/趙子崧、邦昌の内通の書を摘発
- 邦昌に近侍していた呉幵・莫儔らは処遇の不安から辞任を願い出た。
- 趙子崧は、邦昌が翁彦国に宛てて送った書状を摘発して大元帥府に上申した。既に邦昌の赦文の頒布を差し止め、大元帥府の指示のみに従うよう命じていたことも併せて報告し、康王に速やかな即位を重ねて促した。