三朝北盟會編靖康中帙 靖康二年 1127年

二十八日 張邦昌、南薫門で二帝を遥拝/京城の惨状/旧臣返還の再要求

  • 邦昌は縞素の喪服姿で南薫門に香案を設け、百官・士庶とともに二帝を遥拝し慟哭した。太学生も皆拝哭した。
  • 金軍は撤退を始めた。大元帥府は汪伯彦・黄潜善らの役職を改めて配置した。
  • 金は鄭太后の家属を城内へ送り返した。「靖康遺録」は、二十七日に上皇と尼堪が会見し、上皇が未婚の帝姫の残留を願い、鄭皇后も朝政に関与しない家属の残留を願い出て許された経緯を伝える。
  • 「宣和録」は、囲城半年に及んだ京師の窮乏を記す。金軍は南京以北の広範囲を焼き払い、京城でも米一斗二千文・羊肉一斤七千文など物価が高騰し、脚気や失明の病が蔓延して餓死者が絶えなかった。
  • 邦昌は二帥に孫傅・張叔夜・秦檜の三人を返還するよう書を送ったが、金は「これは前日の議論を蒸し返す魂胆か」と激怒し拒絶した。
  • 金は邦昌に対し、歳幣(銀絹五十万疋・銭百万貫)のうち銭百万貫を免除し銀絹二十万疋を減額する旨を伝え、邦昌は謝意を返した。

二十九日 邦昌、軍前で二帥を見送る/何㮚・孫傅、北へ連行される

  • 邦昌は赭袍を着け紅蓋を張って南薫門を出て、金の二元帥を見送り昼過ぎに戻った。
  • 金は僕射何㮚・枢密孫傅・僉書張叔夜を釈放せず北へ連行した。何㮚(字文縝)は政和五年の状元で、靖康の初め和戦の議論で主戦を唱え、城陥後も金の脅しに屈せず和議に応じなかった経緯が詳述される。尼堪が「城を洗う(皆殺しにする)」と脅した際、何㮚は「愛民施徳こそ元帥の万世の恩である」と諭し、尼堪を翻意させたという逸話も伝わる。
  • 孫傅(字伯野)は靖康の京城守禦使として奮戦し、廃立に際しては趙氏存続を繰り返し上奏、南薫門で拝泣して訴えたが容れられず、供状(異姓推戴への同意)を強要されても最後まで拒み、北へ連行された。享年五十一で金国で没したと伝えられる。「靖康小雅」は、孫傅が終始欽宗の御璽を身に帯び、太子を守ろうとした忠節を、他の多くの大臣(唐恪・曹輔・王時雍・呂好問・呉幵・莫儔・徐秉哲ら)の変節と対比して顕彰する。