三朝北盟會編靖康中帙 靖康元年 1126年

知淮寧府趙子崧の勤王呼びかけ

  • 趙子崧は太祖以来二百年の恩義を説き、金軍の暴虐(殺戮・掠奪・婦女拉致など)を非難する牒文を順昌・寿春・蔡・舒・蘄・黄・光州・信陽軍などへ発し、義兵の糾合を呼びかけた。あわせて枢密院からの蠟書指令(勤王の功に応じ官職を破格に授ける旨)も併せて伝達した。
  • 続報では、団結した兵六千余を率いた統領官趙安が消息不明になったこと、周辺県が次々と金軍に破られたことなどが記され、朝廷への至急の指示要請が付される。

康王・耿南仲、相州で挙兵

  • 康王は門下侍郎耿南仲とともに相州で挙兵した。「中興日記」によれば、耿南仲は京師陥落の危機を知り相州の康王のもとへ急行し、皇帝の意を偽って河北諸郡の兵を挙げる名目を作った。地元の富族(南平李氏・羅蘭氏・鶴壁田氏)を礼を尽くして招き、それぞれに義勇兵を出させ、褒賞として空名の官牒を大量に与える取り決めがなされた。

十五日 割地使聶昌、絳州で殺される

  • 大雪の中、欽宗はなお城壁を巡視した。割地使聶昌が絳州で住民に殺害された。
  • 「宣和録」によれば、金は王芮・楊天吉を遣わし黄河を境とする和議を提示、朝廷は耿南仲(河北方面)と聶昌(河東方面)を割地使として派遣した。聶昌は出発に際し、割地交渉が失敗した場合に備え勤王軍催促の別便も手配するよう願い出て、御筆による密勅を得た。
  • 聶昌は尼堪の陣で「南朝の大臣として敵国の臣下に臣礼は取れぬ」と抗弁し客礼での対面を貫いたが、尼堪は「地の割譲が完了するまで撤兵しない」と迫った。聶昌は屈せず、抑留された末に河東へ護送され、絳州に至った際、割地の噂に激怒した住民に殺害された。副使劉岑は難を逃れ陝西へ走った。

張師雄の重賞重罰論

  • 張師雄は宰相何㮚に対し、「非常時には百倍の重賞と厳罰をもって将士を奮い立たせるべき」と説く長大な献策を行った。高師旦の遺族への破格の恩賞、斬獲した首級への莫大な懸賞、質庫(質屋)の財を動員した将士への防寒具支給などを具体的に提案し、府庫を惜しんで国を失う愚を戒めた。何㮚はこれを一笑に付しつつも部分的に採用し、金牌将を討った者への懸賞などが布告された。
  • 姚友仲は「金軍来着直後の疲弊した時期に攻撃すべきであった」と好機を逸したことを悔いる上奏をした。唐恪・何㮚いずれも和戦の方針を貫徹できず、対応が後手に回ったと評される。
  • 守禦の不備により李擢・盧襄・喬師中らが降格・罷免された。護龍河の防備を怠り金軍に埋め立てを許した責が問われた。

十六日 欽宗、南薫門を巡視。田灝・劉韐、南北壁提挙官に

  • 雨の中、欽宗は南薫門を巡視。金軍は陳州門付近で濠を土嚢で埋め立てる作業を進めた。
  • 民の資財提供を募る詔が出された。南壁提挙官李擢が城楼で酒宴に興じ守備を怠っていたことが統制官何慶源の告発で露見し、護龍河が数日で埋め立てられる事態を招いた。欽宗は自ら南壁を視察してこれを憂慮し、張叔夜は出撃策を進言したが容れられず、結局李擢・安扶を罷免し田灝・劉韐を南北壁提挙官に任じた。