二十六日 諸勤王軍の入京、詔による民心安撫
- 王瓊・鄭建雄が兵八千を率いて勤王のため入京し、京城巡検に任じられた。孫傳が同知枢密院事、李回が尚書右丞となった。
- 朝廷は「金人が迫るのは将帥の不一致のせいであり、土地を惜しんで民を害するものではない」とする安慰の詔を下し、内官排除の流言などで動揺する軍民を鎮めようとした。
- 殿前指揮使王宗濋は「六甲の術」を用いる郭京を推挙。宰相唐恪は当初これを一蹴したが、唐恪罷免後に何㮚・孫傳らがこの術を信用し、郭京に募兵と資金を与えた。集まったのは無頼の徒ばかりであったが、民衆は熱狂的にこれを歓迎したという。ほかにも還俗僧や薬売り、商人など奇術・兵略を称する者が続々と登用された。
- 論功行賞のための功賞司が設置された。
少宰唐恪の罷免
- 唐恪は冬の金軍来襲を予見し洛陽・長安への遷都を進言していたが、欽宗の怒りを買い罷免された。侍御史胡舜陟は唐恪・聶昌を痛烈に弾劾する上奏文を残しており、その全文が引かれる。唐恪の私利私欲・宦官への阿諛、聶昌の権力濫用と冤罪による報復(范世英一族への迫害など)が具体的に列挙され、両名を「死党」として国政壟断の元凶と断じている。
二十七日 孫覿、胡舜陟の遷都論を擁護
- 中書舎人孫覿は、胡舜陟が唱えた遷都論を「妄言ではなく先見の明」として擁護する上奏を行った。种師道・种師中の死、姚平仲の敗走、郭京の六甲術への傾倒などを列挙し、朝廷の防備の杜撰さを批判。太王が敵を避けて岐に移った故事を引き、遷都による万全の策を求めた。
二十八日 張叔夜、勤王軍を率い入京
- 南道総管張叔夜が一万三千の兵を率いて勤王に赴いた。当初十五万余の兵を集めたが和議のため一旦解散させられ、再召集で急遽集めた兵であった。西道総管王襄は出兵を渋ったが、叔夜は独自に金軍と十八戦を交え京師に至り、玉津園に駐屯した。
二十九日 欽宗、東壁を巡視
- 欽宗みずから城壁を巡視し将士を慰労、恩賞を賜った。
三十日 安堯臣の上書
- 承務郎安堯臣が長文の上書を奉り、宰相吳敏・徐処仁・耿南仲・何㮚らの無能と蔡京残党の温存を批判、馮澥の消極姿勢も指摘した。和戦の方針が二転三転した経緯(当初の割地論、和議破棄後の三鎮死守論、再度の割地論)を非難し、姦党を処断したうえで一時的に三鎮を割いて時間を稼ぎ、国力を養って後日雪辱すべきと説いた。
- この頃、尼堪・斡里雅布の両軍がそれぞれ河東・河北から京城に迫り、青城・劉家寺に布陣。城の防備の不備(北壁偏重、砲を敵に奪われたこと)や、种師道の死後に集められた勤王兵十数万が和議優先の方針で分散させられ、金軍来襲時に間に合わなかった経緯が改めて記される。知淮寧府趙子崧の蠟書による危急奏状も付される。