三朝北盟會編靖康中帙 靖康元年 1126年

十九日 康王、相州へ

  • 康王一行は濬州から相州へ向かった。金の追撃を恐れた津人・巡検の警告を受けつつ、知相州汪伯彦が出迎え、康王を城内に迎え入れた。伯彦は斡里雅布が既に渡河したことを告げ、慎重な国計の協議を求めたが、康王は使命半ばで留まらぬとして翌朝発った。
  • 京師では清野の指示が一旦撤回され、城外住民の避難で混乱が生じた。折彦質軍潰走の誤報が伝わり、清野令が解かれたが、実際には金軍が既に渡河していたとの訴えも上がり、対応が二転三転した。

二十日 康王、磁州へ。宗澤の祠廟騒動

  • 康王は磁州に至り、宗澤の出迎えを受けた。地元で信仰される「応王廟」の神輿を巡る儀礼に半ば強いられる形で参加させられ、康王一行は困惑した。
  • 副使王雲が「清野は敵の糧道を絶つのに有効」と磁州・相州の住民に清野を勧めたことが恨みを買い、また宗澤が「王雲は金と通じている」と疑う上奏を先んじて行っていたため、磁州の民は王雲を密偵とみなし殺意を募らせた。
  • 事態を受け、聶昌を長とする都大提挙守禦使司が新設された。

二十一日 王雲、磁州で殺害される

  • 諸司の庶務を停止し軍務専念とする詔が下された。
  • 康王が応王廟に参拝しようとした際、磁州の民は康王が北へ(金軍側へ)向かうと誤解して馬前に群がり引き留めた。宗澤の説得でようやく参拝がかなったが、その最中に王雲を敵の間者とみなす群衆の怒りが爆発し、王雲は引きずり出されて殺害された。国書や粛王家の書状なども奪われ散逸した。
  • 王雲は科挙に優れ高麗使節も務めた文官であったが、この事件で落命。建炎年間、朝廷はその奉使の労を惜しんで褒贈と子孫への恩沢を命じた。

二十二日 耿南仲・聶昌、割地の詔書を携え出発

  • 耿南仲は尼堪(河東方面)へ、聶昌は斡里雅布(河北方面)へ、それぞれ黄河以北の地を金に割譲する旨の詔書を携えて発った。詔書は「太上皇の内禅以来の経緯と姦臣による誤りを陳謝し、黄河を境として以北の州府を金に帰属させる」との内容。
  • 尼堪・斡里雅布両軍が河東・河北からそれぞれ京師に迫り、青城・劉家寺に布陣。守将の準備不足(北壁偏重で他壁が手薄、大砲を城外に放置し金軍に奪われたことなど)も記される。大理寺少卿聶山は蔡河・汴水を決壊させ金軍の陣地(摩駝堈)を水浸しにする策を献じた。
  • 种師道の死後、南道総管張叔夜らの勤王軍十数万が集められていたが、唐恪・耿南仲らの和議優先方針により進軍が制止され、結局京師包囲時に間に合わなかった。知淮寧府趙子崧の蠟書による危急の訴えも記される。

二十三日 呉革の献策、斗星の異変

  • 呉革は太原陥落後に金軍中で尼堪に直言した経験を踏まえ、和議を頼らず陝西の兵を挙げて京師の援軍とすべきと説き、陝西へ派遣された。
  • この夜、斗星(北斗)が見えなくなる異変が記録される。

二十四日 河北西路の官吏、職務放棄で相州参内

  • 河北西路提点刑獄王起之・提挙常平楊淵・秦百祥らが駐屯地を離れて相州の康王のもとに参じた。康王はその職務放棄を詰問し、緩急の際にこの体たらくでは朝廷に期待できぬと嘆いた。

二十五日 金の遊騎、京師に迫る。統制官辛康宗、暴徒に殺される

  • 金軍の先遣騎兵が京師近郊に現れた。
  • 城上の保甲兵が統制官辛康宗を殺害する騒動が発生。辛康宗は童貫の縁者とみなされ、防戦を厳しく統制したことが誤解を招き、暴徒化した兵民に殺され晒された。朝廷は事態を収拾できず、以後号令が行き届かなくなった。
  • 曹輔・陳過庭・馮澥・孫傳らが守禦使司の要職に任じられ、京城四壁の防衛体制(各壁三万人規模、統制官の配置)が整えられた。守禦の兵力不足を補うため武挙出身者や太学生、市井の勇者を動員する策も講じられた。