三朝北盟會編靖康中帙 靖康元年 1126年

十五日戊寅 李若水、尼堪(金の元帥)と会見

  • 靖康大金山西軍前和議日録は、李若水・王履が榆次縣で金の元帥(國相)と行った交渉の詳細を記す。宋側は三鎮の割譲の代わりに毎年の租税納入で和議を結びたいと申し入れたが、元帥は「すでに城下の盟で三鎮割譲を約したのに反故にするのか」と強く拒絶し、割譲以外の条件では兵を退かないとの姿勢を崩さなかった。
  • 数日にわたる交渉でも金側の態度は変わらず、最終的に元帥は国書のみを渡して両使を帰らせた。李若水らは十一月に帰京し、皇帝に復命した。

十九日壬午 李綱、宣撫使を罷免

  • 李綱は懐州に駐屯していたが、太原陥落と諸将の相次ぐ敗戦により軍中に離反者が続出、最終的に大敗して撤退したため、皇帝の怒りを買い、観文殿學士・知揚州に左遷された。
  • 傳信録(李綱自身の記録)は、朝廷が和議に傾き宣撫司の進軍を制限したこと、徐處仁・呉敏の罷免や許翰の失脚など人事の混乱、自らの体調不良や軍費・兵員の実情を弁明する内容を記す。
  • これに対し、中書舎人らは李綱を「軽率で無謀、独断専行により再三の敗戦を招いた」と厳しく批判し、韓琦の好水の敗戦、韓絳の西辺の失策の先例を引いて、功績があっても過失には相応の処罰を与えるべきと主張した。

李綱の「十の罪」を弾劾する上言

  • 臣僚は、李綱の罪状を十項目にまとめて弾劾した。太上皇の内禅を自らの功績と偽ったこと、姚平仲の夜襲を独断で強行させ和議の機を逸したこと、民からの金銀徴収の撤回を自らの功績のように演出したこと、伏闕事件を扇動して人心を煽動したこと、恩賞の乱発による私党形成、蔡京・蔡攸との隠然たる結託、樞密の要職にありながら独断で金国の使者に密書を送ったこと、种師中の敗死後も朝命に抗い続けたこと、軍法による強引な督戦で解潜らの敗北を招いたこと、太原陥落の責任を回避しようとしたことなどである。

李綱、杭州洞霄宮の提挙に

  • 李綱は改めて杭州洞霄宮提挙に任じられたが、臣僚はなお納得せず、李綱が太原解囲に失敗しながらその罪を隠し、蔡京・蔡攸との結託や、伏闕事件を利用して自らの声望を高めた経緯などを重ねて列挙し、罪状を天下に明らかにして正式な処罰を下すべきだと訴え続けた。