九月三日丙寅 太原陥落
- 尼堪の軍が太原を陥落させた。河東安撫使張孝純は捕らえられ、馬歩軍副總管王禀は戦死(自尽)、運判王毖・提挙單孝忠は殺害され、通判王逸は太宗の御影を抱いて焼身自殺した。
宣和録が伝える籠城戦の経緯
- 太原は靖康元年十二月頃より包囲され、尼堪は一時偽って「朝廷はすでに太原割譲に同意した」と開城を促したが、張孝純・王禀はこれを拒み抗戦を続けた。金軍は数万を残して包囲を継続しつつ主力を雲中へ引き上げた。
- 城内では兵糧が尽き、弓弩や皮甲を煮て食べるほどの窮乏に陥り、衣服の襟に隠した急使が幾度も脱出を試みたが多くは捕らえられた。姚古・种師中・劉韐・解潜・折可求・張思正ら諸路の救援軍が相次いで派遣されたが、いずれも金軍に撃破され、あるいは臆病風に吹かれて逗留し、ついに太原は九月三日に陥落した。
封氏編年が伝える張孝純の奮戦と悲痛な急使
- 張孝純は軍民を鼓舞し、援軍の到来まで持久すべきと説き、数十万の籠城軍民をまとめ上げた。しかし包囲八ヶ月余りに及び、城内の死者は八九割に達し、兵糧は尽き鎧甲を食料とするに至った。
- 張孝純は縄で城外へ下ろした急使を通じて繰り返し朝廷へ急を告げ、「病がまさに危篤で医者を待つがごとし」「あと数日で城が持たない」と切迫した窮状を訴えたが、援軍は間に合わなかった。
攻城兵器と王禀の防戦策
- 尼堪軍は砲・洞子(攻城車)・鵝車・雲梯・火梯など数千の攻城兵器を用い、堀を埋め城壁を破ろうとしたが、王禀は糠布袋で砲撃を防ぎ、埋められた堀に穴を穿って火を放つなど巧みに応戦し、長期にわたり攻略を阻んだ。
- 城内では牛馬・弓弩の筋や皮を食べ尽くし、萍・草・糠なども食料とし、最後には餓死者の肉すら食するに至る惨状であったと伝えられる。
張孝純、捕虜となり尼堪と問答
- 落城後、張孝純は尼堪に捕らえられた。尼堪は宋の背信を非難し降伏を促したが、張孝純は「徳を広めず武力のみに頼る者は必ず滅びる」と反論、あくまで朝廷への忠節を貫くとして屈しなかった。
- 尼堪は張孝純とその子浹を痛めつけ、統制髙子祐ら三十余名の部将を処刑して見せしめとしたが、父子とも顔色を変えず抵抗し続けたため、最終的に雲中へ護送するに留めた。
王禀の最期
- 諸書(傳記録・林泉野記・遺史・金人節要・靖康小雅)は、王禀が落城の際、太宗の御影を背負って城外の川へ身を投げて死んだこと、あるいは奮戦の末に自尽したことを伝える。尼堪はその遺骸を辱めたが、宋側では后に忠烈の士として称えられた。
- 靖康小雅は、童貫が先に太原を放棄して逃げ帰った経緯や、太原包囲から陥落までの経過を詩文とともに詳述し、王禀の忠義を讃える。
太原陥落後の惨状
- 靖康遺録・靖康小録は、陥落後の金軍による老幼を問わぬ殺戮、城郭の破壊により太原が廃墟と化したこと、二百五十余日に及ぶ包囲戦での凄惨な籠城の実態(餓死者が八九割に及んだこと)を伝える。
張灝の欺瞞と敗走
- 封氏編年は、張灝が「太原はすでに開城した」との虚偽の布告を出して兵民を欺き、その隙に自ら軍を率いて逃亡した顛末を記し、その不忠・不孝を厳しく非難する。