三朝北盟會編靖康中帙 靖康元年 1126年

徐處仁、太宰兼門下侍郎に任命(三月三日己巳)

  • 徐處仁が太宰兼門下侍郎に任じられた。制詞は、老成の人材を用いて政局を安定させる意を述べる。

唐恪ら諸臣の人事異動

  • 唐恪(中書侍郎)、何㮚(尚書右丞)、耿南仲(尚書左丞)、許翰(同知樞密院事)、梅執禮(翰林學士)、陳過庭(御史中丞)らが相次いで任じられ、李棁は資政殿學士・提舉南京鴻慶宮に転出した。

宇文虚中、資政殿大學士・知青州に

  • 宇文虚中は旧知の郭薬師との縁で金軍との和議交渉に起用され、当初は成果を誇ったが、独断で国境画定を進めようとして政府を憂慮させ、以後は秦檜・程瑀・路允廸・沈晦ら次官級を交渉に当たらせた。虚中は帰朝後も功を誇る態度が問題視され、まもなく青州に左遷された。

五日辛未 王安中、隨州へ左遷

  • 臣僚が上言し、王安中がかつて燕山方面を統轄した際、郭薬師の叛意を察知できず、梁師成・王黼・蔡攸・童貫に阿附して虚偽の祥瑞報告ばかりを行い、辺境の実情や民の苦しみを奏上しなかった罪を弾劾した。金軍侵攻による被害の一因は王安中の怠慢にあるとされ、朝議大夫祕書少監に落とされ隨州居住を命じられた。

その他の処分

  • 王蕃は瓊州へ安置され、孫覿は太学生の伏闕事件について不用意な発言をしたとして異動となった。

汪藻、宰執に上書し太上皇の還京を求める

  • 汪藻は孔子の孝論を引き、天子の孝は天下の安寧をもってなすべきものであり、太上皇(徽宗)が神器を主上(欽宗)に譲ったのは堯舜の心であったと述べつつ、朝廷が太上皇を都に迎え入れる決断をせぬまま南方に留め置いていることを憂えた。
  • 南方各地で勤王の軍が制止され、造営や物資調達の名目で民が苦しめられている実情、行在での恩賞・人事の乱発などを列挙し、太上皇に近侍する小人たちが父子を離間させる恐れがあると警告した。
  • 現任宰相を迎奉使として派遣し、天子自ら百官を率いて東に向け送り出し、太上皇の帰還を必ず実現すべきと提言した。
  • この頃、和議交渉に失敗した李梲・鄭望之・李鄴は官職を落とされ外任の宮観職に処された。

門下侍郎趙野、太上皇行宮迎奉使に

  • 趙野が太上皇行宮への迎奉使として派遣された。傳信錄は、正月に太上皇が僅かな供のみで都を脱出し南下した経緯、鎮江に留まり自衛のため勤王軍を留めた経緯を記す。
  • 記主(李綱)は、太学生陳東の上書を機に聶山を発運使として派遣し太上皇周辺の童貫・朱勔らを密かに除こうとする計画があったのに対し、唐の粛宗が李林甫の墓を暴こうとした故事を引いて諫め、聶山の派遣を中止させた。代わりに詔をもって童貫・朱勔らを退けるべきと進言し、これが容れられて事態は収拾に向かった。

七日~九日 太廟・道観への謝礼参拝

  • 皇帝は景靈東宮・西宮、陽德觀、凝祥池中太乙宮、佑神觀、相國寺などに参拝し、金軍撤退を祖宗に謝すとともに、戦没将士・被害民の追薦法会を命じた。

校書郎陳公輔、宰相の人選を論じる劄子

  • 陳公輔は、憲宗が裴度、武宗が李徳裕を用いて乱を平定した例を引き、現在の宰執が優柔不断で辺事に無策であることを批判し、伏闕事件で忠義を示した士人を登用すべきと説いた。
  • この上書を受け、李邦彦・王孝廸・蔡懋が罷免され、呉敏が少宰となり、邦彦は鄧州知事に出された。

十五日辛巳 太上皇、宋㬇を賞する誥

  • 太上皇は、動乱の中で自らを護衛した宋㬇の忠勤を賞し、その仲介により父子(太上皇と皇帝)の疑念が解けたことを誥文で称えた。

十六日壬午 陳公輔、重臣派遣による太上皇奉迎を求める劄子

  • 陳公輔は、太上皇周辺に讒言を弄する者がいて父子の間に疑心を生じさせているとの噂を憂い、皇帝の孝心を改めて示すため重臣を派遣して丁寧に奉迎するとともに、日常の些事には介入せぬよう進言した。

河北三帥へ三鎮固守を命じる詔

  • 詔は、和議に基づき三鎮割譲の使者を派遣したにもかかわらず金軍が約を破って隆徳府まで侵攻し民を殺掠した経緯を述べ、种師道・姚古・种師中に三鎮救援を命じ、祖宗の地は一寸たりとも与えぬとの決意を示した。
  • 記主(遺史)は、太原・河間・中山がなお持ちこたえていたため、朝廷が世論に従い割譲方針を撤回して固守を命じたと補足する。