呉若、御史中丞許翰への書(承前の弾劾を再論)
- 太學正呉若は御史中丞許翰に書を送り、君子は徳をもって人を愛し姑息をもって人を愛さないとし、かつて許翰が代言を偽らず罪を得た気節を頼みに直言する旨を述べた。
- 呉敏が伏闕事件の際に軍民の怒りを北魏の高歓の乱に擬えて君主を脅した点、李邦彦の政績を過大に評価して擁護した点、王黼のみを非難し蔡京に触れない点などを再度列挙し、呉敏が蔡攸の党と結びついているためだと論じた。
- 王黼・蔡京・童貫それぞれの罪の軽重を論じ、蔡京こそ真の元凶であるとし、また葉夢得・陸藻ら呉敏の縁故者が不当に重用されている実例を挙げて許翰に翻意を促した。
- 許翰自身も呉敏と親しい間柄であることに触れ、私心なくば台諫の職にとどまり呉敏の非を言上すべきと迫った。
呉若の人物紹介
- 呉若は相州の人で、張邦昌の姪を妻としながらも邦昌に花石の事を諌めるよう説くなど剛直であった。太學正として上書したのち、朝廷は李邦彦・呉敏の意に逆らうことを嫌って呉若を左遷し、士林はこれを惜しんだ。
尼堪、和議成立を知り太原へ帰還
- 尼堪の軍が澤州を過ぎたところで奉使路允廸らに遭い、講和が成って三鎮割譲が決まったことを知らされ、太原へ引き返した。尼堪は太原城外に元帥府を築いて駐留し、周辺県を制圧して長期占領の構えを見せた。
御史中丞許翰、決戦の五利を論じる上書
- 許翰は、金軍撤退後に朝廷が安堵しているのを憂い、割譲した三鎮から敵が急襲すれば防ぎようがなくなると警告した。
- 勝敗いずれでも国益になること、敵の驕り・疲労に乗じられること、寡兵でも厳しい軍法で奮起させられること、种師道・姚古らの将才は侮れないこと、将士の士気が高いことの五点を挙げ、決戦を断行すべきと説いた。
許翰、再度の上書(大計を決すべし)
- 許翰は、和戦の方針が定まらぬままでは軍の士気も定まらないとし、漢高祖・劉備が幾度も敗れながら大計を失わなかった例を引いた。
- 三鎮を失えば河東・河北を保てず、ひいては東晋の江南遷都のような危機に至ると警告し、司馬光『史記』虞卿伝を引いて和議の危うさを説いた。
- 開運の変(後晋が契丹に弱腰を見せて再侵攻を招いた例)と景徳の澶淵の役(宋が強勢を示して和を結び安定した例)を対比し、現状を開運の轍を踏むものと断じ、三省・枢密院に長策を議定させるよう求める詔が下った。
金字牌の意匠変更
- 内侍省は、金人が金字牌を偽造する恐れがあるとして、御前劄子等に用いる牌を朱紅から黄漆朱字に改める旨を上奏し、裁可された。
梁方平の誅殺
- 黄河防衛にあたっていた梁方平・何灌がいずれも敵前で敗走し河を守れなかった罪を弾劾する上言があり、すでに戦傷死した何灌に対し、梁方平は軍法により処断された。
- 当初、梁方平は西壁守備中に軍令違反を疑われ百姓に捕らえられたが、李綱の建議により最終的に市中で斬に処された。
二十九日乙丑 李邦彦、服喪を願い出る
- 李邦彦が服喪のため職を退くことを願い出て、許可された。
三月一日丁卯朔 論功行賞の詔
- 皇帝は、艱難のうちに金軍を退けたのは士大夫の勤王の功によるとし、功に応じて速やかに高位高禄を与えるよう命じる詔を下した。
二日戊辰 上書した進士らへの褒賞
- 徳安府進士張柄・太學生雷觀の上書を嘉し、両名に進士出身を与え迪功郎に補し秘書正字に任じる詔が下された。
靖康錄が伝える即位以来の施政
- 即位以来、皇帝は日々多くの上書に目を通し善言を採用し、質素倹約に努め、百五の弊政を改めたことで、軍費調達も民に負担をかけずに済んだとされる。
- 王黼・梁師成・李邦彦・譚積ら「六賊」はすでに配流・誅殺され、この頃までに蔡京父子・童貫・朱勔にもそれぞれ正しい罪が科された。
- 梁方平・何灌の処断により逃亡将帥への戒めとし、唐恪・許翰・姚古・种師道・种師中らが要職に召され、徐処仁も期待を集めたが、宰相の空位は続いた。
- 記主は、伏闕を主導した陳東が処罰を免れなかった一方、上書した雷觀・張柄は栄達し、忠言を尽くした呉若が逆に斥けられたことを、世の予測しがたさとして述べる。
三日己巳 張邦昌、太宰を退き観文殿大学士に
- 太宰張邦昌は観文殿大学士・太一宮使に任じられ、政務の第一線を退いた。制詞では、その識見と長年の功績を称える一方、進退の潔さを勧め、名誉ある閑職に処する趣旨が述べられた。