三朝北盟會編靖康中帙 靖康元年 1126年

金軍撤兵と大赦

  • 二月十二日戊申、金軍が撤退し、朝廷は天下に大赦を行った。詔では、包囲一ヶ月に及ぶ京畿の民の苦難、諸方勤王の労苦を認め、寛大な恩沢を布告した。あわせて、内侍の権限抑制、恩倖の排除、奸人の不任用など祖宗の旧制に立ち返る施政方針を示した。

金軍護送を巡る議論

  • 十三日己酉、李綱は澶淵の役の故事(退く遼軍を重兵で護送した先例)に倣い、金軍の撤退を大軍で護送すべきと進言。宰執は時期尚早としたが、上は李綱の意見を容れ、十余万の兵を分けて金軍を送りつつ、機を見て撃つよう命じた。沈琯は金軍の実勢分析(騎兵五万に満たず、精鋭は一万余)を重ねて李綱に伝え、邀撃の好機であることを説いた。

宰執の再編

  • 十四日庚戌、秘書省校書郎陳公輔の論列により、太宰李邦彦・中書侍郎王孝廸・尚書左丞蔡懋が罷免され、呉敏が少宰、李綱が知枢密院事、徐処仁が中書侍郎、唐恪が同知枢密院、李稅が尚書右丞にそれぞれ任じられた。陳公輔は、憲宗が裴度を、武宗が李徳裕を用いて乱を平定した故事を引き、旧弊の大臣を用い続けることの危険を説いた。
  • 徐処仁・唐恪が外郡から召還された。徐処仁は元豊八年進士、唐恪はかつて応奉司の弊害を論じて王黼に忤い左遷されていたが、金軍包囲の報を受けて勤王の兵を送るなどしていた。

禁軍教習と帰朝人の送還

  • 十五日辛亥、久しく訓練を怠っていた禁軍について、招兵の精選と教習の徹底を命じる詔が下った。
  • 和議に基づき、在京・在外の帰朝人(旧燕雲出身の金への帰順者)を金へ送還する指揮が発せられた。

李綱の枢密院辞退の上表

  • 李綱は知枢密院事を辞退する劄子を上奏し、これまでの経緯(宣和の上疏、内禅への貢献、南幸阻止、京城守禦、姚平仲の敗戦による一時罷免と復職)を振り返りつつ、樞密院の長として軍を統べることへの謙譲を述べたが、上は允許せず留任させた。李綱は謝表を奉り、拝命した。

河東の情勢悪化

  • 澤州は大金国相尼堪(ニェンハン)の軍が高平県に至ったと報告した。伝信録によれば、折可求・劉光世の援軍はすでに金軍に敗れ、太原は包囲されたまま陥ちず、平陽府の義勝軍の叛乱で隆徳府も陥落、金軍は高平まで進出していた。朝廷は太行の険を扼すべく郝懐に兵二万を河陽に配したが、執政の密奏により御前金字牌で諸将の兵が誤って呼び戻され、その隙に金軍が深祁恩冀を荒らす事態となった。李綱が上前で強く抗議し再派遣させたが、将士の士気はすでに損なわれていた。