三朝北盟會編靖康中帙 靖康元年 1126年

康王の帰還と肅王の人質交代

  • 二月五日辛丑、康王・張邦昌が金営から帰還し、張邦昌は太宰に任じられた。金は康王に代わり肅王樞と駙馬都尉曹晟(実名を憚り「実」と改名)を人質として求め、上は「越王は叔父にあたるため遣わせない」として肅王・曹晟を送った。遺史によれば、金は康王を見て畏怖し人質の交代を求めたとされる。

京師の混乱収拾

  • 六日壬寅、苑囿を廃して民に還す詔が下った。
  • 七日癸卯、開封府は騒乱に乗じて略奪した者への処分と、無実の民が濡れ衣を着せられぬよう注意する牓文を出した。あわせて童貫・梁師成・李邦彦ら「六賊」の悪行を認めつつ、末端の小官吏は連坐させない旨の手詔も出された。
  • 尼堪(ニェンハン)は中路に駐軍し、和議の詔が出たことを知って進軍を止めた。
  • 八日甲辰、内侍が扇動的行動をとることを禁じる指揮が再度下された。靖康録によれば、内侍が城上守禦を妨げていたとの噂から、伏闕事件では内侍二百余人が殺害され、財物も掠奪された。以後、内侍は城壁守備から一切外された。

金軍への贈答と謝辞往復

  • 上は斡里雅布(オリヤブ)の軍中で宴を賜った。斡里雅布は辞別の上書で、両国の盟約の回復と減額された賞軍(金一万錠・銀十万錠・表裏十万疋)、および今後の分割納付を求めた。宇文虚中・王球が送路使副として派遣された。

民居の団結解除と歳幣減額

  • 九日乙巳、京城四壁守禦の王寓の上言により、団結された民居の追呼を一時放免することが認められた。
  • 十日丙午、斡里雅布は謝恩の書を送り、まもなく撤兵する旨を伝えた。
  • 三鎮(太原・中山・河間)の割譲を宣諭する詔が路允廸を通じて発せられた。犒軍の銀綱(一綱十万両ずつ、計百綱)が内蔵庫から金軍に届けられた。路允廸・滕茂実は尼堪の河東軍前にも派遣され、三関の地の割譲を告げた。
  • 李邦彦は再び太宰に任じられた(張邦昌が人質で不在のため)。

河北での小競り合いと金軍撤兵

  • 河北路兵馬鈐轄李侃は、和議成立を知らない金の十七騎と交戦し大敗した。金軍は「われらは太子郎君の使いで国事のため往来しているだけだ」と説明したが、李侃は掩殺の詔を信じて攻撃を仕掛けたため損害を出した。
  • 遺史によれば、种師道は金軍が油断していると見て河での邀撃を進言したが、李邦彦らが許さず、师道は憤りのあまり病を発した。
  • 金軍は撤退にあたり、信徳府では略奪を行わない旨の榜を掲げたが、他地域では帰路に沿祁恩冀などを荒らした。

肅王人質行と楊誨の割地反対上書

  • 十一日丁未、金は肅王を人質として同行させた(康王の言動が不遜だったため肅王に代えたとされる)。种師道は「金軍は帰路の備えをしていない、河で待ち伏せれば必ず討てる」と進言したが、李稅らに阻まれ、師道はついに病に倒れた。
  • 太学生楊誨は割地反対の長大な上書を奉った。漢の文帝・唐の太宗が匈奴・突厥に対して土地を割かず歳幣・和親のみで対処した故事を引き、太原・中山などの要害の地を割けば都城の防衛線が崩れ、遷都さえ避けられなくなると警告。唐代の吐蕃・南蛮による侵掠が姑息な対応の結果拡大した先例を挙げ、金軍の帰路を衝いて再挙の芽を断つべきだと強く主張した。