三朝北盟會編靖康中帙 靖康元年 1126年

勤王兵の集結と綱紀粛正

  • 正月二十五日辛卯、鄜延の張俊・韓時中、涇原・環慶の馬千らが京師に至り、情勢はやや安定した。金字牌(緊急徴兵の令牌)を隠匿して伝えなかった内侍官三人が斬られた。

馬拡の下獄

  • 二十七日癸巳、真定府路安撫使劉韐は馬拡を投獄した。茅斎自叙によれば、馬拡は童貫の命で真定・中山の忠勇軍を統率していたが、金軍の実勢(歩騎二万に満たず長期滞陣は困難)を踏まえ、京城固守と勤王軍の呼応による挟撃策を献じていた。しかし劉韐の子劉子羽との不和から讒言を受け、突如兵に囲まれ「反」の疑いをかけられて投獄された。子羽は馬拡が金人と通じ城を献じようとしたと誣告する上奏を作成した。

金銀の再徴発

  • 大金への犒軍金帛が不足しているため、権りに金銀を再徴発する聖旨が下された。金一両=銭二十貫、銀一両=銭一貫五百文で買い上げ、隠匿者は密告により重罰、告発者には二分の一を褒賞として与えるとした。李奉議は多く献納した者への官職授与を提案し、允許された。

用兵をめぐる評定

  • 李綱は李邦彦・呉敏・种師道・姚平仲・折彦質と共に福寧殿で用兵の可否を議した。李綱は「金軍の実数は六万に満たず精鋭は三万程度、我が勤王軍二十余万はすでに数倍する。孤軍を深く入れた敵は虎豹が自ら檻穽に飛び込むようなもの」と述べ、河津を扼して糧道を断ち、半渡を撃つ策(周亜夫の故事)を献策、上も深く納得した。

姚平仲の劫寨策

  • 二十八日甲午、种師道は姚平仲に敵陣に迫らせたが、敵は動かなかった。南帰録によれば、种師道は四鎮の割譲に反対する立場で、沈琯と共に金軍の実勢を分析し、劫寨(夜襲)によって糧秣を断てば数日で自壊すると判断した。沈琯も執政に対し、講和一辺倒の姿勢を批判し、兵の速攻を促す上書を行った。

早期の和戦決断を求める上書

  • 監察御史余応求は、宰相と将帥が私怨で対立せず、和戦の方針を早く定めるよう上書。裴度の淮西平定の故事などを引き、金帛が不足する以上和議も成らず、諸将が集結した以上戦機を逃すべきでないと説いた。

陳東の上書「六賊誅殺」を乞う

  • 三十日丙申、太学生陳東は上書し、蔡京・王黼・童貫・梁師成・李邦彦・朱勔ら「六賊」の誅殺を求めた。太上皇が泗州へ南下する際、これら奸臣が随行し、太上皇の起居を操って隔離している状況を糾弾し、「敵国の患いより腹心の患いこそ深刻」と説いた。特に梁師成については、上皇への取り入り方や科挙不正への関与など具体的な悪事を列挙し、誅殺を強く求めた。

梁師成の失脚と自殺

  • 梁師成は節度副使に貶され、安置を命じられた。中興遺史によれば、陳東の上書は未施行のうちに姚平仲の敗戦と宦官殴打事件が重なり、梁師成は循州安置と決まったが実行前に自殺した。梁師成は幼少より宦官として文墨に通じ、書芸局の職から次第に権勢を伸ばし、艮嶽の造営や宣徳門の改築など大事業に関与、宰執以下多くが「その門生」とまで称された。太上皇の南幸に際しては宮中に残り内外を操ろうとしたが、最終的に賜死同然の末路を遂げた。

張叔夜の邀撃献策

  • 張叔夜(京東安撫使)は、金の先鋒が京師に迫った状況を受け、和議に応じるにしても金軍に侮りの心を生じさせぬよう、騎兵での邀撃と河北辺鎮の退路遮断を献策する第二状を上奏した。