欽宗即位と大赦
- 十二月二十三日庚申、皇太子(欽宗)は即位し天下に大赦を行った。門下省を通じ、二百年の祚運を継ぐ重責と辺境未靖の情勢を踏まえた寛大な赦を布告する詔が下された。文武官の転官・恩賞、流刑・編管者の叙用、逃亡兵の自首免罪、租税の減免など多岐にわたる恩典が示された。
- 呉敏を門下侍郎に任命する制書が下り、その学識と忠誠が称えられた。
- 种師道を検校少保・静難軍節度使・河北河東路制置使兼都統制、何灌を武泰軍節度使・副都統に任じる制書が下された。
- 手詔により河北河東の州軍に対し、金との旧交を回復すべく、辺吏の失策による衝突を収拾し軽挙を慎むよう命じた。
慶源府・信德府の陥落
- 十二月二十五日壬戌、斡里雅布(オリヤブ)は慶源府を陥とした。沈琯南帰録によれば、沈琯は金の国王・東京留守(渤海人)らと問答し、河北の防備状況や講和の可能性を論じた。国王は「趙皇は逃げるのか」と問い、沈琯は宋の徳澤の厚さと英雄輩出の可能性を説いて反論した。
- 二十六日癸亥、朝廷は威武軍節度使梁方平に騎兵七千で濬州を守らせ、歩軍都指揮使何灌に兵二万で黄河を守らせる詔を出した。
- 二十七日甲子、斡里雅布は信德府を陥とした。守臣楊信功は城を固く守らなかったため陥落。金軍は自軍統治地では激しく略奪したが、契丹・漢児の統治地では穏便に済ませた。郭薬師は不殺を装い民心を得ようとしたが、実際は欺瞞であった。
南下続く金軍と朝廷の対応
- 二十九日丙寅、斡里雅布の陣中に「趙皇は内禅し龍徳宮に退き、太子が即位した」との報が入った。当初、備えを警戒して進軍を躊躇したが、郭薬師が「汴京の富庶と守備の手薄」を説き、進撃を勧めたため、斡里雅布は長駆して汴京を目指すことを決めた。
- 臣僚が拱州・頴昌府・開徳府・鄭州に四総管を置くことを建議し、允許された。京城無事の際は各道に総管を分置し、緊急時には迅速な指揮と兵站を可能にする体制を整えるものであった。