童貫の帰京と代州陥落
- 十六日、童貫は京師に帰着した。
- 十七日、尼堪(ニェンハン)が代州の某県を包囲。都巡検使李翼は義に厚く、金軍が李嗣本を遣わして降伏を勧めても矢を射返して拒み、城内の義勝軍統領崔忠の内応で城が陥ちるまで奮戦を続けた。捕らえられて金の丞相・烏舎(ウーシャ)郎君の招きにも屈せず、南に向かって「官家」を呼びながら処刑された。李翼はのちに武徳郎を贈られた。
- 続書撰の行状によれば、李翼はかねて金の再侵を予見し、精兵で雲中を先制攻撃する策を進言していたが、太師張孝純に「両国講和中に釁端を開くな」と一蹴されていた。金の南下後、崔忠の内応により城は落ち、李翼・折可与ら多くの官吏が殺害された。李翼は死に臨み、子の宗周に忠義を貫いて死ぬ旨と、家族への配慮を言い遺した。
太原周辺の攻防
- 十八日、尼堪(ニェンハン)軍が太原に至り、知朔寧府孫翊が援軍に赴くも戦死。孫翊は寡兵ながら奮戦したが力尽きて金軍に敗れた。
- 尼堪は太原北の陳村に屯し、府州守臣折可求も交城で敗れた。論者は、孫翊・折可求がともに近道の雲中を衝かず遠回りして太原救援に向かったため疲弊し、各個撃破されたと評した。太原包囲の失敗は、後の国家的災禍の起点になったとされる。
- 夏国は金と結び、天徳・雲内・河東八館などの地を占領した。斡里雅布(オリヤブ)は保州・安粛軍を攻めたが陥とせなかった。
朝廷の対応
- 十九日、朝廷は諸色の人に利害を建言するよう詔した。
- 二十日、皇太子を開封牧に任じる御筆が下った。
- 沈琯は南帰の途上、斡里雅布に和議を促す書を送った(次項参照)。
- 二十一日、罪己の詔と直言を求める詔が下され、内政の弊害(讒諂・恩倖・党籍・重税・徭役など)を認め改革を約した。同日、花石綱など苛政の廃止(応奉局・嵗貢・議司賣鈔・西城所などの廃止)を命じる御筆も出された。
- 斡里雅布(オリヤブ)は中山府を攻めたが詹度がこれを防ぎ、陥とせなかった。
沈琯の和議提案(南帰録)
- 沈琯は二太子(斡里雅布)に対し、皇太子が講和を求めていることを述べ、天地の徳・生を好む心を説き、戦えば必ず双方に死傷が出ると和議の利を訴える書を送った。この書は安肅軍の門外で軍官らに伝えられ、多くが賛同した。
二十二日の人事と決定
- 宇文虚中を保和殿大学士・河北河東宣諭使に任命。
- 王永従が私財百万を献じ軍を助けたことに対し、官位を進める褒賞を行った。
- 姚古を畿輔郡兵馬制置使兼都統制、王蕃を副使に任命し、陝西の兵を徴発させた。
南幸の議と内禅
- 金人が盟を破り両路から侵入する中、朝廷は李鄴を借給事中として講和使に立て、天下に勤王の師を募り、皇太子を開封牧とし、東南への遷都・財貨輸送も準備された。
- 二十三日、金の檄書(不遜な内容を含む)が宣和殿で上奏されると、太上皇(徽宗)は涙を流し絶句、その夜発作を起こして倒れた。回復後「我已無半邊也」と自ら記し、皇太子への譲位を決意。呉敏に禅位の詔を書かせ、皇太子(欽宗)を召して帝位を継がせた。太上皇は自ら「教主道君」として龍徳宮に退いた。
- 呉敏は事の重大さから徹底した権限委譲を望み、この夜のうちに内禅が成った。