三朝北盟會編政宣上帙 宣和五年 1123年

凱旋と論功行賞(五月二日〜十四日)

  • 五月二日、童貫・蔡攸が凱旋した。七日、百官が文徳殿で祝賀し、八日には御筆で王黼を太傅・楚国公に、鄭居中を太保に進め、白時中・張邦昌・李邦彦・趙野らにも加増があった。九日、王黼は太傅・楚国公、鄭居中は太保・燕国公、蔡攸は少師、童貫は節鉞を辞して太師領枢密院事に任じられた。十一日、童貫はさらに徐豫国公に封じられた。

金軍の西巡と燕地職官の連行

  • 十四日、アグダは居庸関から雲中府・徳州路を経て西巡し、白水濼で夏を過ごすこととした。天祚帝の北走の情報を受け、韃靼の力を借りて捕縛を図る一方、左企弓らに燕山の職官・富戸を率いさせ、榆関・平灤路経由で本国へ連れ帰らせた。

張覚の平州反乱と左企弓誅殺

  • 遼の平州節度使・張覚(平州義豊の人、進士出身)は、建福元年(1122年)の混乱時に平州の反乱を鎮定した功で知軍州事となり、燕王の死後は遼の滅亡を予見して五万の兵と馬千匹を集め、独自の勢力を築いていた。金は当初その脅威を軽視していたが、燕京の職官・富戸を平州経由で本国へ移送しようとした際、張覚のもとに逃れてきた燕民の訴えを受け、張覚は諸将と協議のうえ挙兵を決意した。
  • 張覚は翰林学士の李石らと謀り、宰相の左企弓・曹勇義・盧仲文・康公弼らを灤河西岸で足止めさせ、趙秘校を通じて十カ条の罪状(天祚帝を見捨てて燕王擁立に加担したこと、天祚帝の使者を殺したこと、燕京を守らず金に降伏したこと、燕人を強制移住させたことなど)を突きつけ、左企弓を縊死させた。張覚は年号を遼の「保大」に戻し、燕人を解放して郷里へ帰し、常勝軍に接収されていた家屋・財産も返還した。燕人は大いに喜び、天祚帝の肖像を祀って朝謁するなど旧遼への忠誠を示した。上(徽宗)はこの帰還した燕民への配慮を王安中・詹度に命じ、士大夫の登用と三年間の田租免除を布告した。

童貫・蔡攸の凱旋報告と評価(五月二十九日〜六月一日)

  • 五月二十九日、童貫・蔡攸は宗廟に戦捷を報告した。『北征紀実』によれば、上は当初あまり喜ばず両将への恩賞は薄めであったが、二人が宣撫司の余剰金として大珠・黄金・犀玉・銭帛などを「土宜」として献上すると上は喜んだという。上は殿上で祝賀を受け、神宗の熙河・崇寧の故事に倣い玉帯を王黼に下賜した。
  • 六月一日、蔡京は祝賀の表を奉り、この功業を歴代の外征(周の玁狁討伐、漢の匈奴経略)を超える壮挙と称えた。

史料(鍾邦直『行程録』による全体批判)

  • 鍾邦直の記録は、この一連の戦役を批判的に総括する。開戦の当初から「敵の混乱に乗じて攻め取る好機」との認識で王黼が強く後押ししたことに触れ、白溝での初戦の敗北(十分の一の損害)、百年の和平を破った開戦の大義名分の乏しさ、劉延慶の慎重すぎる行軍と潰走(雄州から十一日かけてわずか二百里の蘆溝河に至り、数百騎の敵に大混乱して夜逃げし、多数の死傷者と莫大な軍需品を失ったこと)を詳細に描写する。
  • 最終的に金軍が居庸関を越えると契丹の君臣は逃げ去り、燕民は金を出迎えたが、宋は歳幣を契丹時代の倍にしてようやく燕薊景順五州を得たに過ぎず、金は財宝・子女・牛馬を根こそぎ運び去った後の空城を宋に譲り渡した。童貫・蔡攸は十万の兵でこれを「撫定」と称して接収し、半月の駐留の後帰還したと総括する。
  • また、澶淵の盟以来百年余り遼が南下しなかったことで幾百万の民が戦禍を免れた恩恵の大きさを説き、それに比べ、この機に乗じて燕雲回復を図りながら実質的な成果を得られなかった童貫・蔡攸の無能を批判し、特に軍政を老吏の李宗振に丸投げしていた実態、七十過ぎの李積中が金との交流の危険性を繰り返し進言したにもかかわらず一顧だにされなかった経緯を記す。

郭薬師の入朝と徽宗の懐柔(史料:北征紀実)

  • 童貫・蔡攸の凱旋に伴い郭薬師も入朝し、厚遇を受けた。金明池での観覧、貴戚大臣邸への招待などで宋の華美な風俗を目の当たりにした薬師は、感激して上に拝謁し「趙皇はまさに天上の人と聞いていたが、今日拝顔できたことは死んでも本望」と涙を流した。
  • 上は薬師に「天祚帝を捕らえてくれるか」と持ちかけたが、薬師は「天祚は旧主であり、旧主を討つことは陛下に仕える道に反する」として色を変え、涙ながらにこれを固辞した。上は逆にその忠義に心を動かされ、御用の珠袍と金盆を下賜し、薬師はこれを部下に分け与えて人心を得た。
  • 常勝軍はもと「怨軍」と呼ばれ寝返りを繰り返してきた軍であり、宋の朝臣はその実態を十分把握しないまま重用を続けた。薬師はその後、燕山一帯を事実上私物化し、馬の選別と称して部下に良馬を独占させ、玉帯・瑪瑙器などの奢侈品を権貴に贈って取り入るなど、次第に安禄山になぞらえられるほどの専横ぶりを見せた。宣和六年(1124年)、童貫が改めて燕地を巡視した際も、薬師は威圧的に鉄騎の陣容を誇示し、童貫は薬師の離反を危惧しつつも手を出せなかったと記される。
  • この日、郭薬師は検校少保・河北燕山府宣撫副使・同知燕山府に任じられ、趙良嗣・盧益は帰京して兵部尚書・延康殿学士にそれぞれ任じられ、馬拡も武功大夫・和州防禦使に昇進した。

張覚の去就をめぐる密偵(六月二日〜四日)

  • 六月二日、上は詹度に御筆を下し、張覚の動向を密かに探るよう命じた。張覚は平州で「保大」年号を用い、金にも宋にも完全には帰属しない独自の姿勢を見せており、上は「彼を懐柔しなければ後の辺患となる」として、密かに接触を図るよう指示した。ただし表立った結約は避け、様子見の姿勢(「卞荘刺虎」の策)を取るよう戒めた。
  • 詹度は張覚の姻戚である王倚を通じて意向を伝え、張覚は張興祐を遣わして応じた。上は「営・平の帰順は金の入関前からのものだが、その後の交渉で金には与えていない。張覚は一度金に臣従し南京と改称までされた地であり、慎重を要する」としつつ、金が天祚帝の掃討や国内事情で平州に手を出せずにいる好機と見て、内密に張覚を招き寄せる方針を固めた。
  • 六月四日、郭薬師は検校少傅に昇進した。