三朝北盟會編政宣上帙 宣和四年 1122年

耶律淳の死と天祚帝の詔(六月二十四日)

  • 馬拡の帰還と天祚帝の消息を聞いた燕王耶律淳は憂懼のあまり病篤くなり、六月二十四日に嗣子のないまま死去した。蕭幹はその妃・蕭氏を皇太后として国事を代行させ、年号を興徳と改めた。
  • 天祚帝は耶律淳の死を聞き、詔を発してその簒奪を厳しく糾弾した。耶律淳が私意により帝号を僭称し、小人を重用して綱紀を乱し、燕人を塗炭の苦しみに陥れたことを非難し、その官爵・封号をすべて剥奪し、妃の蕭氏も庶人に落として姓を虺氏に改めさせた。ただし妃を皇太叔として立てることは黙認する含みも残した。

李処温の内応露見と処刑

  • 耶律淳の病床で、李処温父子は奚・契丹の重臣を締め出して宋軍を頼ろうとしたが果たせなかった。後に投降した傅遵の密告により、李処温父子が易州の富豪・趙履仁らを通じて童貫と通じ、蕭后を奉じて宋に国土を献じようとしていたことが発覚した。
  • 蕭后は李処温らを尋問して罪状を突きつけ、処温には自尽を命じ、子の李奭は凌遅(生きたまま処刑)に処された。家財の没収では現銭七万貫余、金銀珠玉が数え切れないほど見つかり、宰相在任のわずか数か月で四方から賄賂が横行していた実態が露呈した。後に宋は燕山府を平定した際、処温を広陽郡王に追封し、子の保靜軍節度使の位も追贈して顕彰した。
  • 『北征紀実』の評では、処温は元来遼の宰相・李儼の子で、天祚帝に危機を諫めたが容れられず、耶律淳擁立に功があって宰相となったが、蕭后にも取り入りつつ密かに宋と通じ、事が露見して蕭幹に殺されたと総括する。遼の民は宋が必ずしも旧領の保全を認めず、徹底的な滅亡を望んでいることを悟り、これが後に遼人が金に肩入れして宋の中原を脅かす遠因になったとも評される。

王黼による再度の開戦決定(七月)

  • 七月二十六日、耶律淳の死と燕人の投降の動きを知った太宰王黼は蔡京に対抗して功績を求め、再度の出師を強く主張した。朝廷は諸道二十万の兵を集め、九月に三関で会同することを決め、童貫・蔡攸に「異論を唱える者は斬る」との厳命を下した。

劉延慶の都統制就任と緒戦(八月)

  • 八月一日、劉延慶が种師道に代わり都統制となり、劉光世が辛興宗に代わり副統制となった。劉延慶は古城に、何灌は広信に駐屯し、燕軍の牛欄監軍・蕭幹らが燕王の病没を受け燕京に集結して手薄になった隙に乗じ、鄭建雄らの部隊が渡河して掠奪を行った。劉光世の部隊も牛欄監軍の契丹兵と交戦して勝利し、童貫はこの功で劉光世を威武軍承宣使に昇進させた。この頃、燕地の漢人の間で南への帰順を望む動きが広がり始めた。

宇文虚中の上奏(燕山回収の得失を論ず)

  • 宇文虚中は、契丹がわずか半年で宋に哀訴するまでに衰退した現状を踏まえつつ、燕山回収を急ぐことの危険性を八か条にわたり詳細に論じた。攻城戦の長期化、女真軍との遭遇の危険、女真が援軍を出さぬ場合の対応、西夏の介入の可能性、占領後の防備・財政負担、遼の残存勢力や新たな首長擁立の懸念などを挙げ、拙速な武力行使より時間をかけた安定策を取るべきだと説いた。

金使烏舎・高慶裔の入京と交渉(九月)

  • 九月三日、金の使者・烏舎・高慶裔らが入京し、趙良嗣を舘伴使として迎えられた。彼らは旧例に照らして待遇の格上げ(都亭駅への宿泊、上殿奏事など)を強く要求し、朝廷はやむなくこれに応じるなど、遼への待遇を上回る厚遇となった。高慶裔は渤海人で狡猾かつ学識があり、恭順を装いつつ様々な要求を重ねた。
  • 九月十一日、烏舎・高慶裔は崇政殿で上に謁見し、金皇帝の言として、遼討伐の勝利と旧漢地の帰属について協議したい旨を伝えた。上は感謝の意を伝え、天祚帝の捕縛を急ぐよう促した。
  • 九月十三日、王黼邸での協議で烏舎は「燕地には四軍大王(蕭幹)が実権を握り蕭后を奉じて跋扈している、金がこれを討つべきだ」と述べ、宋側は「金が女真一人(蕭幹)すら制せぬのは矛盾している」と皮肉る場面もあった(史料:汪藻『謀夏録』)。

易州・涿州の相次ぐ投降(九月十五日〜二十三日)

  • 九月十五日、易州知事の高鳯は、天祚帝の逃亡と燕王の死、蕭后の摂政による漢人粛清の懸念を機に、僧の明賛を密使として宣撫司に送り、内応を約した。童貫はこれを歓迎し、劉延慶に確認させたうえで、二十日の進軍を約した。
  • 九月二十日、劉光世は約定通り易州救援に進軍したが、白溝で牛欄軍の反撃に遭い前進を阻まれた。この間、高鳯は宋軍来援を見越して契丹人を粛清したが、宋軍の敗報が伝わると浮足立ち、辛くも持ちこたえた。
  • 九月二十三日、遼の常勝軍を率いる涿州留守の郭薬師が、州刺史・蕭余慶の部下である団練使趙鶴寿の精兵八千・鉄騎五百とともに涿州一州四県を挙げて投降した。郭薬師の上表は、天祚帝の逃亡と蕭后摂政の混乱、契丹による漢人弾圧に耐えかね、宋への帰順を選んだ経緯を述べるものであった。
  • 郭薬師はもと怨軍(東南路討伐軍)の乱を鎮圧した功で常勝軍の統領に抜擢された人物で、若く威武に優れ人望があった。蕭后の再度の漢人粛清の動きを察知し、張令徽・劉舜臣・甄五臣らと謀り、蕭幹を宴に招いて説得を試みたが拒まれ、蕭幹は兵が少なく身の危険を察して逃走した。郭薬師はその機に部下を鼓舞し、監軍の蕭余慶を捕らえて宋への帰順を決断した。