三朝北盟會編政宣上帙 宣和三年 1121年

金使赫嚕の滞留と方臘の乱(二月〜八月)

  • 二月十七日、金使の赫嚕が登州に到着した。この頃朝廷は西軍の宿将を京師に集めていたが、方臘の乱が起こり、童貫は西軍を鎮圧に投じたため、朝廷は北辺への出兵計画を一時棚上げし、童貫不在のため赫嚕を留め置いた。赫嚕は苛立って徒歩で上京しようとするなど不満を示した。
  • 五月十三日、赫嚕は入京したが、朝廷内では「大遼がすでに金と宋の交渉を察知しており、以前の計画通りには進められない」との意見が出て、赫嚕を帰そうとする動きと引き留める動きが交錯した。三か月余り滞在させた後、王黼の議により国書を持たせて帰す方針となり、正式な使者は派遣しないことになった。『北征紀実』によれば、方臘討伐で童貫が不在の間、朝廷は前約を悔い、いったん結約を停止しようとしていたという。
  • 八月二十日、赫嚕・大迪烏に返書を持たせて帰国させた。返書は、漢地に関する取り決めは従前の議の通りとし、金軍が西京へ進軍する時期の連絡を待って夾攻するとの内容であった。

遼の中都陥落と天祚帝の逃亡(十一月〜)

  • 十一月、金は遼の中京を攻略し、天祚帝は夾山へ逃れた。金は宋との通交継続を疑い、固倫貝勒・尼瑪哈・烏舎らに遼を渡らせ、降将の伊都を先鋒として急襲し、一夜で三百里を進んで遼の中都を陥落させた。天祚帝は事前に逃れて燕山に至り、さらに趙王・梁王ら数百騎とともに鴛鴦泊、雲中府、天徳軍を経て陰山北方の夾山(沙漠の奥地)へ逃げ込んだ。金軍は追撃を諦め、雲中府周辺の攻略に転じた。