三朝北盟會編政宣上帙 政和八年 1118年

安堯臣の上書(五月二十七日)

  • 広安軍の一介の書生・安堯臣が、燕雲攻略の中止を求める長文の上書を奉った。要旨は次の通り。
  • 君主は諫言を容れてこそ聖であるとし、近年宦官が権柄を握って言路を塞ぎ、開戦派を諫める者が次々と貶められている実情を憂えた。
  • 「中国の憂いは内にあり、外にはない」と説き、辺境の安寧より内政の充実を優先すべきだと論じ、秦始皇・漢武帝・隋煬帝ら外征に走った歴代帝王が国を疲弊させた例、逆に漢の文帝・光武帝のように和親・撫民に努めた例を対比して示した。
  • 太祖・真宗が燕雲二州を強いて攻めず、澶淵の盟で和を結んだ祖宗の故事を挙げ、今その旧好を破って開戦すれば辺境に隙を開くと警告した。
  • さらに童貫を名指しし、卑賎の出でありながら兵権を握り、偽りの戦功を奏上し、私党を植え、官爵を売買し、軍資を私したことなど、宦官専横の弊害を具体的に列挙して弾劾した。
  • 最後に、宦官が国政を乱した歴史上の例(劉蕡の言)を引き、陛下が速やかに弊を改めなければ社稷が危うくなると訴え、極刑を恐れず直言した旨を述べて結んだ。

史料(蔡絛『北征紀實』が伝える童貫の平燕策)

  • この年、童貫は「雲中こそ根本、燕薊は枝葉に過ぎない。まず兵を分けて燕薊を撹乱し、その後に重兵で雲中を取るべきだ」との平燕策を上奏したが、内容は要領を得ず、当時童貫にはまだ名望がなく、士大夫が追従してこれを飾り立てたに過ぎなかったと評されている。

対女真使節団の派遣と交渉(八月〜閏九月)

  • 八月四日、馬政は高薬師らとともに礼物を携えて出航し、女真国主に対し建隆・雍熙以来の売馬の旧交回復を名目に接触し、機を見て遼への夾攻を打診するよう命じられた。
  • 九月二十九日、朝廷は安堯臣の上書を尚書省に下し、衆議に諮った。
  • 閏九月九日、馬政・高薬師は北岸に上陸したが、女真の巡邏兵に捕らえられ、財物を奪われ殺されかけたが、高薬師の弁明により辛くも免れ、縛られたまま連行された。
  • 閏九月二十七日、馬政らは連行された末、女真国主の居所(アルチュク・拉林河)に至った。女真側の重臣らの尋問に対し馬政は、太宗建隆二年以来の売馬の旧交を回復し、契丹が天怒人怨の状況にあるため、宋は女真とともに遼を討ち民を救いたいと申し出た。国主アグダは重臣らと数日協議の末、登州の小校王美・劉亮ら六人を伴わせ馬政とともに宋へ帰した。

改元と安堯臣への処遇(十一月)

  • 十一月一日、年号を重和元年と改めた。
  • 十一月十三日、安堯臣の上書は「見るべきものがある」として承務郎に任じられた。御批では、逺方の一書生が歴代の興亡を陳べたことをもって政策批判の首謀と非難する声もあったが、上は言路を塞がぬため罪を問わず、むしろ崇寧四年に一度取り消された安惇(安堯臣の伯父)の遺表恩澤を復活させ、正奉大夫の位を安惇に、承務郎の位を安堯臣に与えた。安惇は哲宗朝の枢密使であったが、その子の失言により族人に告発され、安惇自身も官位を十階級落とされていた。