三朝北盟會編 炎興下帙 高宗 紹興二十五年 1155年

正月

  • 車駕(高宗)が臨安府に駐留した。

十月

  • 八日壬午、鄭楠が賀生辰国信使、王珉が賀正旦国信使として金へ派遣された。
  • 二十日甲午、秦檜が病篤くなった。秦檜は病状が重いことを理由に、子の秦熺の致仕と孫の秦塤・秦堪の外任転出を願う劄子を提出したが、高宗は詔を下してこれを許さず、丙吉・夏侯勝の故事を引いて秦檜の陰徳と功績を称え慰留した。重ねての辞退の申し出に対し、最終的に太師のまま建康郡王に進封する詔が下された。
  • 二十一日乙未、高宗が秦檜の邸宅に行幸し見舞った。秦檜は朝服姿で一言も発せず、ただ涙を流すのみであったといい、高宗も涙を流し、自ら紅い布で秦檜の涙を拭ってやったという。退出の際、子の秦熺が「自分の後任の宰相は誰か」と尋ねたところ、高宗は「それはお前が関与すべきことではない」と答え、邸宅の担当官丁禩に金帯一条を賜って還御した。