三朝北盟會編 炎興下帙 高宗 紹興十五年 十月 1145年

宇文虚中伝(続き)

  • 前巻に続き、宇文虚中の行状がさらに詳しく語られる。建炎元年、金と三鎮(太原・河間・中山)の割譲を協議した廷議に連座したとして安化軍節度副使・韶州安置に落とされたが、虚中は上書と宰輔への書状で「姚平仲の劫寨は朝廷の意ではなかった」ことを弁明した経緯を記す。
  • 建炎二年、金への使者を募る詔に応じて中大夫に復し、以後たびたび金へ赴いて交渉に当たったが、ついに金に抑留された。富貴による誘惑にも脅迫にも屈しなかったため、金もその義を認めてあえて害さなかったという。金が蜀を狙う動きを密かに宣撫使張浚へ知らせるなど、抑留中も宋への忠誠を尽くした逸話が記される。
  • 紹興元年、長年守節を尽くしていることを称え、家族への恩賜と褒賞の制詞が下された。虚中が家族へ送った手紙には、私事に一切触れず、ひたすら「一節を守り死を待つのみ」との覚悟が綴られていたという。獄中で詠んだ詩句もいくつか引かれる。
  • 紹興乙丑(十五年)、虚中は中原の豪傑と結び、金の高士談らと共謀し、金人が天を祭る儀式に乗じて要人を討とうと画策したが、密使として送った蝋書を秦檜が握りつぶし、事が発覚して一族もろとも処刑された。享年六十七。
  • 虚中の子・顕謨閣待制(諱は伏せられる)が、金からの家族引き渡し要求に対し、蘇武の故事を引いて抗弁した上奏文の内容も記される。父・虚中がかねて「金が家族を求めても、自分は既に金に身を置いた者として断るように」と言い残していたにもかかわらず、秦檜の主導でその家族もすべて金へ引き渡されてしまった顛末が悲痛な筆致で語られる。
  • 「李綱伝信録」からの引用では、宇文虚中の経歴を「一走して内翰(翰林学士)となり、再び走って大資(資政殿大学士)となり、三たび走って枢密(簽書枢密院事)となった」と皮肉る当時の風評が伝えられる。
  • 「朱勝非秀水間居録」からの引用では、宣和年間、宇文虚中が童貫・蔡攸に停戦を進言した劄子の内容や、靖康年間に燕京防衛策を巡り王黼らと対立した経緯が記される。
  • 「宇文議保燕京記」(成安某の記す一次資料)には、虚中が陝西の兵を動員して京城を救援した経緯、罪己詔の起草に際し弊政是正の項目を自ら盛り込んで高宗(当時は淵聖)を感涙させた逸話、康王(後の高宗)を金の陣営から取り戻すために自ら人質となる覚悟で交渉に赴いた経緯が詳細に記される。金の二太子(斡離不)との駆け引きの末、康王と呂頤浩ら七人を連れ戻すことに成功し、三鎮の割譲についても賦税のみを条件とする譲歩を引き出したという。しかし、この功績は李綱の門人らに妬まれ、備禦策も朝廷に採用されず、結果として太原・澤潞が陥落し、二度目の京城陥落(靖康の変)に至った経緯が、末尾で「軽敵・寡謀・妨功・嫉能のなせるわざ」と総括される。

金の烏珠(兀朮)の死

  • 金の烏珠(兀朮)が没した。金人李大諒の「征蒙記」を引き、烏珠が晩年、都元帥逹蘭を誅殺して河南の地を奪還し、皇統四年に南征を試みた際の経緯(淮陰・盱眙方面の偵察、宋の防備の手薄さを見抜いた分析、和議に転じた経緯など)が詳述される。
  • 烏珠は死に臨み、後継者に対して「南宋が誓いを破って北伐してくれば、中原の民心はたやすく靡くだろう。逆に和を守れば、歳幣の負担が江南で重税を招き、いずれ内乱が起きる。十五年もすれば南軍は衰えるので、その隙を見て江南を取るのは容易い」との遺言を残したとされる。
  • 続けて、金に仕えた李成(「征蒙記」の著者李大諒の父)の経歴が記される。もと宋の雄州の弓手であったが、河間守備の功を挙げながら讒言により不遇となり、張俊の討伐を受けて金(斉)に帰順、鎮海軍節度使に任じられた。その除授の制詞(賈復・尉遅敬徳の故事になぞらえて称える文言)も引かれる。烏珠の死後三年のうちに金の内部で権臣の粛清が相次いだことが付記される。