三朝北盟會編 炎興下帙 高宗 紹興十五年 1145年

邵隆の死

  • 商州知事邵隆が急死した。和議によって商州が金の領土となったことを不満とし、密かに兵で越境の略奪を行っていたため、金が秦檜に抗議し、辰州・叙州へと左遷されていた。急な病死とされるが、秦檜が人を遣わし毒殺させたとの噂もあり、人々は巷で嘆き市を閉じたという。

三月

  • 敷文閣待制の周金、および馬観国が金国に送還された。

五月

  • 金が使者を派遣し、皇帝の誕生日を祝賀した。

十月

  • 厳抑が賀生辰国信使として金へ派遣され、曹涭が副使となった。
  • 観文殿学士・祈請国信使であった宇文虚中が金国で死んだ。その行状(伝記)が詳しく引かれる。
  • 宇文虚中、字は叔通。大観三年の進士。政和年間に起居舎人などを歴任し、辺境防備の政策について直言を憚らなかったため、権臣に忌まれた。宣和年間、契丹(遼)攻略や女真との連携策に反対する上奏をたびたび行い、「隣家の富人が強盗を招き入れて寒民の家を奪えば、いずれ自分も強盗に狙われる」との比喩を用いて、遼と結んで女真を招き入れることの危険を説いたが、王黼の怒りを買って左遷された。
  • その後も、燕雲地方回復の財政的負担の大きさを説く上奏、金軍来襲時には諸路の援軍招集や罪己詔の起草に関わるなど、徽宗・欽宗期の危機対応に尽力した経緯が詳述される。特に、徽宗に上奏して十数項目の弊政(宮女の削減、応奉司・西城所・六尚局の廃止など)を実行させ、涙ながらに感謝されたという「罪己詔」の逸話が語られる。
  • 靖康の変に際しては、金軍の陣営へ幾度も赴いて交渉に当たり、康王(後の高宗)を敵陣から無事帰還させる働きをした経緯、姚平仲の劫寨(夜襲)の失敗後、自ら危険を冒して金営へ赴き弁明にあたった様子、三鎮(太原・河間・中山)の割譲を巡る交渉での涙ながらの説得(「先祖の廟や陵墓を隣国に割き渡すことなど忍びない」との訴え)などが詳細に記される。
  • 簽書枢密院事に任じられた際の制詞(任命の辞令文)も引かれ、その功績が称えられる。
  • 金軍の二太子(斡離不)が撤退した後も、宇文虚中は金の実力者尼堪(粘罕)の脅威を独り深く憂い、防備の強化を献策したが容れられず、追撃の失敗の責任を負わされて左遷された経緯、その後も青州で辺防の重要性を説き続けたが、忌避されて罷免された経緯が記される。
  • 最後に、兄(南陽公)が高宗に虚中の功績を弁護した逸話、江寧で車駕巡幸に備えた民兵制度の整備を上奏したが取り上げられなかった逸話をもって結ばれる(虚中自身は後年金に抑留され、非業の死を遂げることになる)。