三朝北盟會編 炎興下帙 高宗 紹興十四年 1144年

正月

  • 金が使者を派遣してきた。浙東副総管李顕忠が節鉞を落とされ宮祠に処された。李顕忠は帰朝後、黄龍府に残る妻子を密かに連れ戻そうと使者を送り、金千両を約して成功させたが、後に楊存中も同様に前妻を連れ戻していたことや、この件が金の耳に入ることを恐れた高宗により、李顕忠が処分されたいきさつが記される。楊存中は責任を問われず、李顕忠のみが罰され、以後七年間閑居することとなった。

四月

  • 解潜が団練副使に落とされ南安軍に安置された。臣僚が解潜・辛永宗が平江府で講和を論議したことを問題視したためで、辛永宗も荊湖南路馬歩軍副総管・邵州駐劄に左遷された。州県に対し、帰朝者の金国への送還を命じた。

九月

  • 宋之才が賀正旦国信使として金へ派遣された。趙鼎が吉陽軍に安置された。秦檜が臣僚に趙鼎の罪を言上させたことによる。
  • 朱勝非が薨じた。行状を引いた略伝が詳述される。靖康初年、金軍が京城を包囲した際、朱勝非は金の陣営との折衝役を務め、堂々たる態度を崩さなかった。妻の従妹が張邦昌に嫁いでいた縁で邦昌に交誼を求められたが、これを拒み、邦昌の姦計を早くから見抜いていたという。応天府(南京)副総管として、寡兵ながら城を死守し、金軍を撃退し続けた籠城戦の詳細(夜襲・伏兵・間諜の活用など)が語られる。金が張邦昌を擁立した際も、いち早くその使者を捕らえて元帥府(高宗の大元帥府)へ送り、高宗の即位を強く進言した。仁義を国家統治の要とする上奏、襄陽・揚州の要衝としての重要性を説いた進言、淮北防衛の方策など、多くの重要な献策が採用されたとされる。岳飛による襄陽・随州・郢州など七州の回復を主導した功績も詳述される。
  • 朱勝非自身の記した「秀水間居録」から、靖康元年に応天府(宋城)を守った際の霊異譚(夢占い、亀の甲羅の文字、赤蛇の霊験など)が引かれる。
  • 「遺史」を引き、朱勝非が張邦昌に随行して金軍と折衝した際の経緯や経歴が改めて記される。字は蔵一、蔡州(または開封)の人。崇寧四年の進士。幼くして父を失い、母が改嫁を強いられた際に断固拒んだ逸話も伝わる。
  • 「中興姓氏録」の記す略伝では、朱勝非が建炎年間に翰林学士・尚書左丞などを歴任したが、黄潜善・汪伯彦に阿附し、苗劉の変では両者の言いなりになったとの批判的な評も記される。晩年は秦檜に忌避され、邦昌の与党と誣告されて不遇のうちに湖州で六十三歳で没した。

十二月

  • 李光が瓊州に安置された。藤州で講和を風刺する詩文を密かに秦檜に告げ口されたことによる。
  • 金が王倫に出仕を強要し、倫は金国内で死んだ。紹興九年に迎護梓宮使として金へ赴いた王倫は、以後金に抑留され、河北転運使への任命を頑なに拒み続けた末、自ら首を吊って死んだとされる。
  • 「中興姓氏録」を引いた略伝によれば、王倫、字は正道、開封の人。真宗の宰相王旦の後裔。市井に交わる才知に富んだ人物で、金軍の京師包囲時に自ら名乗り出て民心を鎮めた功で吏部侍郎に抜擢された。建炎年間に金国への使者となり、以後たびたび往来して和議交渉に関わったが、金に抑留された後は金の官職を頑として受けず、使者を厚く遇して謝意を示した上で自縊して死んだ。享年六十一。世はその忠節を称えたという。