三朝北盟會編 炎興下帙 高宗 紹興十二年 1142年
八月
- 十四日、皇太后が臨平から行在に帰還し、慈寧殿に入った。宰臣・百官が上表して祝賀し、賦頌を奉る者も多く、中書舎人程某(闕字)がその優劣を選定した。太后がかつて金の劉皇后に約束していた頭飾りの贈答について、秦檜が知盱眙軍向子固を通じて手配した経緯も記される。
- 阻撓和議者(和議に反対した者)を弾劾する上奏があり、秦檜は趙鼎・王庶・曽開・李彌遜らがかつて和議に反対したとして、趙鼎の左遷継続と曽開・李彌遜の官職剥奪を図った。王庶は既に道州で没していた。
- 十三日辛丑、劉光世が薨じた。「中興遺史」を引いた略伝によれば、劉光世、字は平叔、劉延慶の次子。騎射に優れ胆勇があり、方臘の乱鎮圧、燕山攻略、金軍来襲時の勤王、苗劉の変での高宗復辟、張遇・李成・酈瓊ら各地の反乱・降兵の討伐や招降など、建炎から紹興にかけての数々の軍功が列挙される。紹興七年に酈瓊が反乱して劉豫に投降した事件では監督責任を問われ、十年の金の敗盟時には三京招撫処置使として太平州・池州を守った。十一年に諸将の兵権が解かれた後は万寿観使として静かに暮らし、紹興十二年正月、五十四歳で薨じた。高宗は自ら弔問し、太師を追贈、諡は武僖。
九月
- 五日甲午、参知政事王次翁が報謝使として金国に派遣された。
- 六日乙未、孟忠厚が枢密使として山陵使を兼ねた。秦檜が張俊を枢密の任から遠ざける狙いがあったとされる。
- 秦檜が太師に加えられた。詔の文言は、秦檜を伊尹・孟子・程嬰・蘇武になぞらえ、和議と梓宮・皇太后の帰還を実現した功を絶賛する内容であった。
- 王俊が洋州知事兼沿辺安撫使・節制蓬州軍馬となった。軍紀に厳格で「王開山」と呼ばれたが、剛直で上に逆らう性格であったため呉玠も警戒しつつ武勇を愛し、娘を息子に嫁がせて厚遇した。この年、任地で没した。
- 張中孚が開府儀同三司、張中彦が靖海軍節度使に加えられた。金が両名の引き渡しを求め、秦檜がこれに応じた見返りとされる。
十月
- 楊愿が賀正旦国信使として金国に派遣された。秦檜は張中孚・張中彦を金へ送還した。
十一月
- 五日癸巳、枢密使張俊が罷免され、鎮洮武寧泰寧軍節度使・醴泉観使・清河郡王に封じられた。張俊は枢密の地位に固執していたが、秦檜は侍御史王邈に「張俊が讖に応じる地に居を構え、子の楊存中・田師古がそれぞれ兵権を握って将来の変事の懸念がある」と上言させた。高宗は謀反の疑いを否定したが、秦檜は孟忠厚を枢密使とし、張俊と不仲だった孟忠厚との関係から張俊は自ら辞任を願い出て罷免された。
- 十四日壬寅、程邁が福州知事を罷免された。金が宇文虚中の家族の引き渡しを求めた際、程邁が一族の願いを聞かず全員を引き渡し、結果として一族が金に誅殺される悲劇となったための処分。
- 王勝が鎮江府駐劄御前諸軍都統制となった。張俊・岳飛が楚州で軍を慰撫した際、王勝が張俊暗殺を企てているとの讒言があり、張俊はこれを恨んだが、王徳はかえって王勝を厚遇。後に韓世忠・医師王継先の口添えもあって都統制に任じられた経緯が記される。
- 十四日壬申、王徳が建康府駐劄御前諸軍都統制となった。王徳は劉光世配下として各地で武勇を発揮し、「王夜叉」と呼ばれた戦歴が詳述される。張育・張和尚ら反乱勢力の討伐、金軍との度重なる交戦、柘皋の戦いでの活躍などが記され、紹興十二年に張俊の推挙で都統制となったが、後に張俊・秦檜に忌避され、紹興十五年に王権に代えられた。紹興十四年、六十八歳で薨じた。
- 王進が池州・太平州駐劄御前諸軍都統制となった。王進はもと張俊配下の提轄で、内侍王継先ら宦官に取り入って地位を保ったため、士卒には不人気であったという。
十二月
- 十六日甲戌、池州駐劄御前統制李顕忠が保信軍節度使・両浙東路馬歩軍副総管に加えられた。