三朝北盟會編 炎興下帙 高宗 紹興十二年 八月十日庚午 1142年

徽宗の梓宮と皇太后の帰還

  • 徽宗皇帝と顕粛皇后・懿節皇后の梓宮、および皇太后(韋氏、邢皇后は途上で崩御)が金国から楚州の境に到着した。
  • 皇太后が金を発つ際、生死の別れとなる喬貴妃との今生の別れの場面が語られる。喬貴妃は「姉上はこれで生きて帰り皇太后となられますが、妹は二度と帰れずここで死ぬのでしょう」と泣きながら酒を勧め、「幸せな暮らしになっても、こちらの辛さを忘れないでください」と言い添えた。皇太后はこれに深く慟哭し、周囲の者もみな涙したという。
  • 高宗は臨平鎮に行幸して皇太后を出迎えた。母子の対面に高宗は涙を流し、軍民も歓声をあげた。皇太后は道中で百官の列を見て「金国でも名の知れた韓世忠はどれか」と尋ねた逸話も付される。
  • 二十三日癸未、車駕は臨平鎮より帰還した。金は梓宮・皇太后の護送に使者十一人を派遣した。徽宗の梓宮も金国より到着した。

蔡鞗「北狩行録」(徽宗抑留の記録)

  • 徽宗の娘婿・蔡鞗が記した「北狩行録」の要旨が引かれる。靖康二年(丁未)二月、徽宗(太上皇)が青城を出て北へ連行された際の困難な道中、燕山での病苦、宗室・随行者への衣食の支給などが記される。
  • 徽宗は幹里雅布(金の将)との会見で南北和平と宗廟存続を涙ながらに訴えた。また、金軍が張邦昌の擁立を図った際、なお中京にいた秦檜が御史として異議を唱え、趙氏の存続を訴えたが容れられなかった経緯にも触れる。
  • 徽宗が左副元帥に宛てて起草した書簡(蔡鞗に潤色を依頼したもの)の内容が詳しく引かれる。唐太宗の突厥への処遇や漢の高祖と冒頓単于の白登の故事、耶律徳光が石氏を滅ぼした後に中国の地を保てなかった例を引き、金の指導者に対し、興滅継絶の徳を施し歳幣・和好を保つ道と、徳光のように禍根を残す道のいずれを選ぶかを問う内容であった。
  • 徽宗は学問を好み、とりわけ『漢書』に通じていたが、幽閉先では書物が乏しく、外から借りた書と衣服を交換したほどであったという。当初『春秋』を子として読ませることを避けていたが、蔡鞗の進言(『春秋』は孔子が善悪を正した書であり、君主・臣下として学ぶべきものとの説)を容れて熟読するようになり、以後は乱世興亡の跡や忠臣の言行を採録・編纂するに至った逸話が記される。
  • 徽宗が陵墓の方角を望んでは涙し、忌日には食を断って追慕した逸話、諸皇子への訓戒(六訓・六逆を説いた詔)、随行の宗室・官吏らの困窮を憂えて衣類の支給を金国に求めた逸話、神宗の日録(王安石関連書)を手放してでも他書を得ようとした逸話などが続く。
  • 五国城への移住(庚戌年中元)に際し、随行者の削減を命じられ、徽宗が涙ながらに引き留めたが叶わなかった経緯、その後も宗室の些細な過失には寛容に対処した逸話が記される。
  • 癸丑年六月、沂王㮙と駙馬都尉劉文彦による謀反の誣告事件が起こり、蔡鞗ら側近が身命を賭して抗弁し、三日間の尋問の末に誣告と判明した経緯が詳述される。徽宗はこの事件を天譴として受け止め、以後蔡鞗をますます信頼し、善言を惜しみなく進言するよう命じた。
  • 富弼が神宗に「天を畏れよ」と諫めた故事を引いた李康との問答、金からの進物に接した高宗が「趙氏の中興の主を継ぐ者を見届けられた」と感涙した逸話(この部分は本文の時系列上、後年の記録が挿入されたもの)なども記される。
  • 火災に遭った行宮の修築を農繁期を理由に控えさせた徽宗の配慮、飢えに苦しむ宗室への憐憫、鳥獣を買い取っては放してやった慈悲深い逸話、北狩以来詠んだ千余首の詩歌のうち、誣告事件の際に焼失を免れた数十篇が別集にまとめられたことなどが記され、「北狩行録」は結ばれる。