左傳紀事本末春秋の災異(他の事に因って別に見えるものは重ねて載せず)(春秋災異(凡因他事别見/者不復更載))

春秋に記された災異のうち、他の篇で扱われていないものを集めた篇。隱公元年(前722年)から哀公十二年(前483年)まで。日食・大水・大雪・雹・旱・蟲害・火災などについて、災いとなったかどうか、書法が礼にかなうかどうかを一つずつ判ずる。臧文仲が旱に巫尫を焼くことを止めて城郭と食用の節を説き、申豐が雹を氷の蔵え方から論じ、士文伯と伯瑕が日食の当たり外れと六物を論ずる。史論は二百四十二年の災異百二十二件を数え上げ、春秋が災いを備さに記しながらその応を言わなかった深意を説く。

年表(28件)

隱公元年(前722年)

  • 八月、蜚(羽虫)があった。災いとならなかったので経にも書かない。

隱公九年(前714年)

  • 春王三月癸酉、大雨が降り続いて雷が鳴った。始まりを記したのである。庚辰、大雪が降った。これも同じく記した。時ならぬことを記したのである。およそ雨が三日以上続くのを霖といい、平地に一尺積もるのを大雪という。

桓公元年(前711年)

  • 秋、大水があった。およそ平原に水が出るのを大水という。

桓公十四年(前698年)

  • 秋八月壬申、御廩が焼けた。乙亥、嘗の祭を行った。害がなかったことを記したのである。

桓公十七年(前695年)

  • 冬十月朔、日食があった。日を書かないのは日官の過失である。天子には日官があり、諸侯には日御がある。日官は卿の位に居って日を定める。礼にかなう。日御は日を失わず、朝廷で百官に授ける。

莊公七年(前687年)

  • 夏、恒星が見えなかった。夜が明るかったのである。星が雨のように隕ちた。雨とともに降ったのである。
  • 秋、麦も苗もなかった。嘉穀を害さなかったのである。

莊公十八年(前676年)

  • 秋、蜮(水中の毒虫)があった。災いとなったのである。

莊公二十五年(前669年)

  • 夏六月辛未朔、日食があった。鼓を打ち犠牲を社に用いた。常でない。ただ正月の朔、慝気がまだ起こらぬころに日食があれば、そこで社に幣を用い朝で鼓を打つのである。
  • 秋、大水があった。鼓を打ち犠牲を社と門に用いた。これも常でない。およそ天災には幣はあっても犠牲はなく、日月の眚でなければ鼓を打たぬ。

莊公二十九年(前665年)

  • 秋、蜚があった。災いとなったのである。およそ物が災いとならなければ経に書かない。

僖公三年(前657年)

  • 春、雨が降らず、夏六月に雨が降った。十月から雨が降らず五月に至ったが、旱と言わないのは災いとならなかったからである。

僖公十五年(前645年)

  • 夏五月、日食があった。朔も日も書かないのは、日官の過失である。
  • 秋、夷伯の廟に雷が落ちた。これを罪したのである。このとき展氏に隠れた慝があった。

僖公十六年(前644年)

  • 春、宋に石が五つ隕ちた。隕星である。六羽の鷁が後退りして飛び、宋の都を過ぎた。風のためである。

僖公二十一年(前639年)

  • 夏、大旱となった。公は巫尫を焼こうとした。臧文仲は言った。「旱への備えではありません。城郭を修め、食を貶し用を省き、稼穡に務め、分け合うことを勧める。これがその務めです。巫尫が何をしましょう。天が殺そうとするなら初めから生まなければよい。もし旱を起こせるのなら、焼けばいっそう甚だしくなりましょう」。公は従った。この年は飢えたが害はなかった。

僖公二十九年(前631年)

  • 秋、大きな雹が降った。災いとなったのである。

文公三年(前624年)

  • 秋、宋に螽が雨のように降った。落ちて死んだのである。

文公十五年(前612年)

  • 六月辛丑朔、日食があった。鼓を打ち犠牲を社に用いた。礼でない。日食があれば天子は盛膳をやめて社で鼓を打ち、諸侯は社に幣を用いて朝で鼓を打つ。それで神に仕えることを明らかにし、民に君に仕えることを訓え、等しい威のあることを示す。古の道である。

文公十六年(前611年)

  • 蛇が泉宮から出て国に入った。先君の数と同じであった。秋八月辛未、聲姜が薨じ、泉臺を毀った。

宣公十五年(前594年)

  • 冬、蝝が生じた。飢えたが、それでも幸いであった(大害には至らなかった)。

襄公二十七年(前546年)

  • 十一月乙亥朔、日食があった。辰は申にあった。司暦の過ちである。二度閏を失していた。

襄公二十八年(前545年)

  • 春、氷がなかった。梓慎は言った。「今年は宋と鄭が飢えるのではないか。歳星は星紀にあって玄枵に淫り、それで時の災いがある。陰は陽に堪えられぬ。蛇が龍に乗る。龍は宋と鄭の星である。宋と鄭は必ず飢える。玄枵は虚の中であり、枵は耗の名である。土が虚しく民が耗れる。飢えずして何としよう」。

昭公四年(前538年)

  • 大きな雹が降った。季武子が申豐に「雹は防げるか」と問うた。答えて言った。
  • 「聖人が上に在れば雹はなく、あっても災いとなりません。古は日が北陸にあるとき氷を蔵え、西陸が明け方に見えるころこれを出しました。その蔵えるときは、深山窮谷の固く陰り凍える寒さのところ、ここに取ります。その出すときは、朝の禄位ある者、賓の食、喪の供えに、ここに用います。その蔵えるときは黒い牡と黒黍で司寒を享し、その出すときは桃の弧と棘の矢でその災いを除きます。その出し入れは時にかない、肉を食む禄のある者にはみな氷が与えられます。大夫と命婦の喪の浴には氷を用います。
  • 寒を祭って蔵え、羔を献じて開き、公が始めに用い、火星が出れば遍く配る。命夫・命婦から老いた者・疾ある者に至るまで、氷を受けぬ者はない。山人がこれを取り、県人がこれを伝え、輿人がこれを納れ、隷人がこれを蔵える。そもそも氷は風によって壮んになり、風によって出る。その蔵えることが周く、その用いることが遍ければ、冬に愆れる陽なく、夏に伏する陰なく、春に凄まじい風なく、秋に苦しい雨なく、雷が出ても震わず、災いとなる霜や雹はなく、癘や疾は降らず、民は夭折せぬ。
  • いまは川や池の氷を蔵えて棄てて用いぬ。風は越えずして殺し、雷は発せずして震う。雹の災いをなすこと、誰がよく防げましょう。七月の卒章が、氷を蔵える道です」。

昭公七年(前535年)

  • 夏四月甲辰朔、日食があった。晉侯が士文伯に「誰がこの日食に当たるか」と問うた。答えて「魯と衞がこれを悪みます。衞が大きく魯は小さい」と言った。公が「なぜか」と言うと、「衞の地を去って魯の地に入るところにあります。ここにおいて災いがあり、魯がまことにこれを受ける。その大きな咎は衞君でしょう。魯は上卿でしょう」と答えた。
  • 公が「詩にいう『かの日にして食す、何ぞ臧からざる』とはどういうことか」と問うと、「政の善からぬことをいうのです。国に政なく善を用いなければ、自ら日月の災いに謫を取る。だから政は慎まぬわけにいきません。三つに務めるだけです。一に曰く人を択ぶ、二に曰く民に因る、三に曰く時に従う」と答えた。
  • 八月、衞の襄公が卒し、十一月、季武子が卒した。
  • 晉侯が伯瑕に「私が問うた日食は当たった。常としてよいか」と言った。答えて言った。「なりません。六物は同じでなく、民心は一つでなく、事の序は類せず、官職は則らず、始めを同じくして終わりを異にする。どうして常としてよいでしょう。詩に『あるいは燕燕として居息し、あるいは憔悴して国に事う』とあるのは、その終わりを異にすることです」。
  • 公が「六物とは何か」と言うと、「歳・時・日・月・星・辰、これをいいます」と答えた。公が「多く寡人に語れ。辰といっても同じでない。何を辰というのか」と言うと、「日と月の会、これを辰といいます。だから日に配するのです」と答えた。

昭公十七年(前525年)

  • 夏六月甲戌朔、日食があった。祝史が用いる幣を請うた。昭子は「日食があれば天子は盛膳をやめて社で鼓を打ち、諸侯は社に幣を用いて朝で鼓を打つ。礼である」と言った。
  • 平子が制して「やめよ。ただ正月の朔、慝気がまだ起こらぬころに日食があれば、そこで鼓を打ち幣を用いる礼がある。その他はしない」と言った。
  • 太史は言った。「この月にあります。日は分を過ぎてまだ至に及ばぬ。三辰に災いがあれば、ここにおいて百官は物を降し、君は盛膳をやめ、時を辟け移し、楽は鼓を奏し、祝は幣を用い、史は辞を用いる。だから夏書に『辰、房に集わず。瞽は鼓を奏し、嗇夫は馳せ、庶人は走る』とあるのは、この月の朔をいうのです。夏の四月に当たり、これを孟夏といいます」。
  • 平子は従わなかった。昭子は退いて「あの方はやがて異志を持とう。君を君としない」と言った。

昭公二十一年(前521年)

  • 秋七月壬午朔、日食があった。公が梓慎に「これは何ものか。禍福は何としてか」と問うた。答えて「二至と二分の日食は災いとなりません。日月の行は、分では道を同じくし、至では相い過ぎる。その他の月であれば災いとなる。陽が克てぬからです。それゆえ常に水となります」と言った。
  • ここにおいて叔輒が日食を哭した。昭子は「子叔はやがて死ぬ。哭すべきところでない」と言った。八月、叔輒が卒した。

昭公二十四年(前518年)

  • 夏五月乙未朔、日食があった。梓慎は「水になろう」と言った。昭子は「旱である。日は分を過ぎたのに陽がなお克てぬ。克てば必ず甚だしい。旱なくおれようか。陽が克てぬのは、やがて積もり集まるのだ」と言った。

昭公三十一年(前511年)

  • 十二月辛亥朔、日食があった。この夜、趙簡子は童子が裸で転がって歌う夢を見た。朝、史墨に占わせた。答えて「六年してこの月に、呉は郢に入るのではありませんか」と言った。

哀公三年(前492年)

  • 夏五月辛卯、司鐸が焼けた。火は公宮を越え、桓公・僖公の廟が焼けた。火を救う者はみな「府を顧みよ」と言った。
  • 南宮敬叔が至り、周の役人に御書を出させて宮で待たせ、「取り揃えよ。なければ死罪だ」と言った。子服景伯が至り、宰人に礼書を出させて命を待たせ、「命に供せねば常の刑がある」と言った。校人は馬に乗り、巾車は轄に油を差し、百官は官ごとに備え、府庫は慎んで守り、官人は粛やかに給し、帷幕を濡らして運び、火のついた木はこれに従い、公の屋を覆い葺くのは大廟から始めた。外と内は互いに順に助け、及ばぬところを助け、命を用いぬ者があれば常の刑があって赦さぬとした。
  • 公父文伯が至って校人に乗車を駕させた。季桓子が至って公の御をした。公は象魏の外に立ち、火を救う者に「人を傷つければやめよ。財は作れる」と命じ、象魏を蔵うよう命じて「旧章は亡ぼせぬ」と言った。
  • 富父槐が至って「備えなくして官が弁ずるのは、こぼれた汁を拾うようなものだ」と言った。ここにおいて表の稾を去り、道を公宮に還らせた。
  • 孔子は陳にいてこの火事を聞き、「それは桓公・僖公の廟であろう」と言った。

哀公十二年(前483年)

  • 冬十二月、螽があった。季孫が仲尼に問うた。仲尼は「丘は聞いている、火星が伏してから蟄する虫が尽きると。いま火星がなお西に流れている。司暦の過ちである」と言った。

史論(士竒)

  • 春秋二百四十二年の間、およそ災異を紀すこと百二十二。日食が三十六、星孛が三、星隕と隕石が各一、不雨が七、無氷が三、大雨震電が一、雨雪が三、大雨雹が三、地震が五、山崩が二、大水が九、有年が二、大旱が二、饑が三、無麦苗が一、大無麦禾が一、隕霜不殺草・李梅実が一、隕霜殺菽が一、雨木氷が一、多麋・有蜮・有蜚・蝝生が各一、六鷁退飛が一、螟が三、螽が十、牛傷が四、牛死が二、宮室の災が六、震廟が一、屋壊が二、齊の大災が一、宋・陳・衞・鄭の災が一、宋の災・陳の災が各一である。
  • その間、世を驚かせ俗を駴かせることでこれより甚だしいものがなかったわけではないのに、聖人は書かなかった。陰陽寒暑や草木蟲蠕の変に至るまで、およそ人事の休咎、天道の応違に切なるものは、微であるからといって察せずにおかなかった。これで聖人が怪を語らず、しかもこの民の日用の至急なるものを念じたことが分かる。
  • しかし春秋が災祲を備さに記して鑑戒を垂れながら、その事の応を言わないのは、まことに深い意がある。思うに、言って一つでも応じなければ、かえって後世の恐懼修省の心を怠らせ、しかも矯り誣いる者の口実となるからである。洪範五行伝が事ごとに強いてこれを説くのは、聖人の旨に達していない。
  • 日食で朔と日を書かぬものは、伝がみな推し得ている。しかし有莘の神が降ったこと、泉臺の蛇の数、絳の郊に龍が見えたこと、魏榆の石が言ったこと、彭生の豕の禍、伯有の厲鬼、鄭の南門の蛇の妖、宋の華氏の犬の禍、鳥が「呼嘻」と鳴いて亳社が焼けたこと、鸜鵒を歌い徴して稠父が出奔したこと、絳の市の諜が殺されて七日で蘇り得たこと、鄋瞞の首が専車に載って眉が見えたこと。
  • 事としてあり得たことを、理としてあり得ぬとはいえない。ただ言葉が雅馴でないので聖人は語らず、左氏がその遺聞を輯めて冊に附著したのである。ただ新奇を侈るためだけでなく、勧戒を昭らかにする所以でもある。しかしすでに後世の史家の濫觴に属する。
  • そもそも芝草・醴泉・甘露・神雀の祥は、春秋の世を通じてどうして一つも現れなかったろう。それでいて経も伝もことごとくこれに及ばぬ。ただ西の郊で麟を獲たことだけを一つ簡の末に繋けて、制作文成の応を昭らかにし、そのうえ我が道の窮まったことを傷んだ。春秋の祥異を紀すことも、また慎重なことである。