左傳紀事本末楚の歴代令尹の執政(武王より後/靈王より前)(楚諸令尹代政(武王以後/靈王以前))

武王の後、靈王の前までの楚の歴代令尹の交替と事績を、莊公三十年(前664年)から昭公十二年(前530年)まで集めた篇。鬭穀於菟(子文)が自ら家財を毀って国難を緩め、狼の子と評した子越椒の誅殺を請うたが容れられず、宣公四年(前605年)に若敖氏は臯滸で滅ぼされた。申公巫臣は夏姫を連れて晉へ奔り、子重・子反に一族を滅ぼされた報いに呉へ戦車の用法を教え、楚を奔命に疲れさせた。聲子が四人の亡命者の害を挙げて「楚の人材を晉が用いる」と説き、伍舉を復帰させる一段を含む。

年表(21件)

莊公三十年(前664年)

  • 楚の公子元が鄭討伐から帰って王宮に居座った。鬭射師が諫めると、捕らえて手枷をはめた。
  • 秋、申公鬭班が子元(公子元)を殺した。鬭穀於菟が令尹となり、自ら家財を毀って楚国の難を緩めた。

文公九年(前618年)

  • 冬、楚の子越椒が聘問に来た。幣を執る所作が傲慢であった。叔仲惠伯は「これは必ず若敖氏の宗を滅ぼす。その先君に傲るなら、神は福さぬ」と言った。

文公十年(前617年)

  • はじめ楚の范の巫矞似が成王と子玉・子西に「三君はみな真っ当な死を得られまい」と言った。
  • 城濮の役で王はこれを思い出し、それゆえ人を遣わして子玉を止めさせたが間に合わず死んだ。子西を止めさせると、子西は縊れたが縄が切れ、王の使者がちょうど至って止め、商公とした。
  • 漢水を沿い下り長江を遡って郢に入ろうとした。王は渚宮の下にいて会った。懼れて辞して「臣は死を免れ、また讒言があって臣が逃げようとしていると言われる。臣は帰って司敗のもとで死にます」と言った。王は工尹とした。
  • また子家と穆王を弑することを謀った。穆王は聞いて、五月、鬭宜申と仲歸を殺した。

文公十二年(前615年)

  • 楚の令尹大孫伯が卒し、成嘉が令尹となった。諸々の舒が楚に叛いた。夏、子孔が舒子平と宗子を捕らえ、そのまま巢を囲んだ。

文公十四年(前613年)

  • 楚の莊王が立った。子孔と潘崇が諸々の舒を襲おうとして、公子燮と子儀に留守をさせ、舒蓼を討った。二人は乱を起こし、郢に城を築いて賊に子孔を殺させたが果たせずに帰った。八月、二人は楚子を伴って出、商密へ行こうとした。廬の戢黎と叔麇が誘い、そのまま鬭克と公子燮を殺した。
  • はじめ鬭克は秦に囚われていたが、秦に殽の敗があって帰らせて和睦を求めさせた。和睦しても志を得られず、公子燮は令尹を求めて得られなかった。それゆえ二人は乱を起こしたのである。

宣公四年(前605年)

  • はじめ楚の司馬子良が子越椒を生んだ。子文は言った。「必ず殺せ。この子は熊や虎の姿で豺狼の声だ。殺さねば必ず若敖氏を滅ぼす。諺に『狼の子は野心』という。これは狼だ。飼ってよいものか」。子良は承知しなかった。子文は大いに憂えた。
  • 死のうとするとき一族を集めて「椒が政を知るようになったら、速やかに立ち去れ。難に遭うな」と言い、あわせて泣いて「鬼でも食を求める。若敖氏の鬼は飢えるのではないか」と言った。
  • 令尹子文が卒し、鬭般が令尹、子越が司馬、蔿賈が工正となった。子越は子揚(鬭般)を讒言して殺した。子越が令尹、蔿賈が司馬となった。子越はまた蔿賈を憎み、若敖氏の一族で伯嬴(蔿賈)を轑陽に囚えて殺し、そのまま蒸野に陣して王を攻めようとした。
  • 王は三代の王の子を人質としようとしたが受けられず、漳澨に軍した。秋七月戊戌、楚子は若敖氏と臯滸で戦った。伯棼が王を射ると、矢は轅をかすめて鼓の台に及び、鉦に当たった。また射ると、轅をかすめて車蓋の轂を貫いた。師は懼れて退いた。
  • 王は師を巡らせて言わせた。「我が先君の文王が息に克って三本の矢を得た。伯棼はその二本を盗み、いまここで使い尽くした」。鼓を打って進ませ、そのまま若敖氏を滅ぼした。
  • はじめ若敖は䢵から妻を娶って鬭伯比を生んだ。若敖が卒すると母に従って䢵で養われ、䢵子の娘と通じて子文を生んだ。䢵夫人は夢沢の中に棄てさせたが、虎が乳を与えた。䢵子が狩りでこれを見て懼れて帰り、夫人が告げたので、そのまま引き取らせた。楚人は乳を穀といい、虎を於菟という。それゆえ鬭穀於菟と名づけた。その娘を伯比に嫁がせた。これがまさしく令尹子文である。
  • その孫の箴尹克黄が齊に使いし、帰って宋に至って乱を聞いた。従者が「入れません」と言った。箴尹は「君の命を棄てて、ひとり誰が受けよう。君は天である。天から逃げられようか」と言い、そのまま帰って復命し、自ら司敗のもとに拘えられた。王は子文が楚国を治めたことを思い、「子文に後がなくては、どうして善を勧められよう」と言い、旧の職に復させ、名を改めて生とした。

宣公十一年(前598年)

  • 令尹の蔿艾獵が沂に城を築いた。封人に事を計らせて司徒に渡し、工程を量って日数を定め、財用を分け、板と榦を揃え、畚を数え、築く土や資材を見積もり、遠近を議し、基址を測り、糧食を備え、有司の務めを定めた。三十日で成り、予定に狂いがなかった。

成公二年(前589年)

  • 楚が陳の夏氏を討ったとき、莊王は夏姫を納れようとした。申公巫臣は言った。「なりません。君は諸侯を召して罪を討たれたのです。いま夏姫を納れれば、その色を貪ることになる。色を貪るのは淫であり、淫は大きな罰を受けます。周書に『徳を明らかにし罰を慎む。文王が周を造った所以である』とある。徳を明らかにするとは崇めることに務めるをいい、罰を慎むとは除くことに務めるをいう。もし諸侯を興して大きな罰を取られるなら、慎むことではありません。君は図られよ」。王はそこでやめた。
  • 子反が娶ろうとした。巫臣は言った。「これは不祥の人です。子蠻を早世させ、御叔を殺し、靈侯を弑し、夏南を戮し、孔寧と儀行父を出奔させ、陳国を喪わせた。これほどの不祥がありましょうか。人が生きるのはまことに難しい。真っ当な死を得られぬのではありませんか。天下に美しい婦人は多い。なぜこの人でなければならぬのか」。子反はそこでやめた。
  • 王は連尹の襄老に与えた。襄老は邲で死に、その屍は得られなかった。その子の黑要が通じた。
  • 巫臣は人をやって「帰りなさい。私はあなたを迎える」と言わせ、また鄭から召させて「屍が手に入る。必ず来て迎えよ」と言わせた。姫が王に告げると、王は屈巫(巫臣)に問うた。答えて言った。「まことでしょう。知罃の父は成公の寵臣で、中行伯の末弟です。新たに中軍の佐となり、鄭の皇戌と親しく、この子を甚だ愛している。必ず鄭を通じて王子と襄老の屍を返して求めましょう。鄭人は邲の役を懼れて晉に取り入りたいので、必ず許します」。
  • 王は夏姫を帰した。出発するとき送る者に「屍が手に入らねば私は帰らぬ」と言った。巫臣は鄭で娶り、鄭伯が許した。
  • 共王が即位して陽橋の役を行おうとし、屈巫を齊に聘問させ、あわせて出師の期日を告げさせた。巫臣は家財をことごとく持って行った。申叔跪がその父に従い郢へ行こうとして出会い、「異なことだ。あの方は三軍の懼れがありながら、そのうえ桑中の喜びがある。人の妻を盗んで逃げようとする者にちがいない」と言った。
  • 鄭に至って副使に幣を返させ、夏姫を伴って行った。齊へ亡命しようとしたが、齊の師は敗れたばかりだった。「私は勝てぬ国には居らぬ」と言い、そのまま晉へ亡命し、郤至を頼んで晉に臣従した。晉人は邢の大夫とした。
  • 子反が重い幣で晉に登用させぬよう請うた。王は「やめよ。彼が自分のために謀ったのは行き過ぎだが、我が先君のために謀ったのは忠であった。忠は社稷の固めであり、覆うところが多い。しかも彼がもし国家を利するなら、重い幣でも晉が拒もうか。晉に益がなければ晉は棄てる。どうして登用を妨げる労が要ろう」と言った。

成公七年(前584年)

  • 楚が宋を囲んだ役から師が帰り、子重は申と呂を賞田として取ることを請うた。王は許した。
  • 申公巫臣は言った。「なりません。これは申と呂が邑とする所以です。それによって賦を出して北方を防いでいる。もし取れば申と呂はなくなる。晉と鄭は必ず漢水に至りましょう」。王はそこでやめた。子重はこれによって巫臣を怨んだ。
  • 子反は夏姫を娶ろうとしたが巫臣が止め、その巫臣が娶って行った。子反もこれを怨んだ。
  • 共王が即位すると、子重と子反は巫臣の一族の子閻・子蕩と清尹弗忌、および襄老の子の黑要を殺し、その家財を分けた。子重は子閻の家財を取り、沈尹と王子罷に子蕩の家財を分けさせ、子反は黑要と清尹の家財を取った。
  • 巫臣は晉から二人に書を送って言った。「お前たちは讒佞と貪欲をもって君に仕え、多くの無辜を殺した。余は必ずお前たちを奔命に疲れさせて死なせる」。
  • 巫臣は呉に使いすることを請い、晉侯は許した。呉子壽夢が喜んだ。そこで呉を晉に通じて両立させ、一卒の兵で呉へ行き、その半分をそこに残し、その射手と御者とともに、呉に戦車の乗り方を教え、戦陣を教え、楚に叛くことを教え、その子の狐庸を置いて呉の行人とさせた。
  • 呉は初めて楚を討ち、巢を討ち、徐を討った。子重が奔命した。馬陵の会で呉が州來に入り、子重が鄭から奔命した。子重と子反はここにおいて一年に七たび奔命した。楚に属していた蛮夷を呉がことごとく取った。

襄公二年(前571年)

  • 楚の公子申が右司馬となり、小国の賄賂を多く受けて子重・子辛を圧した。楚人はこれを殺した。それゆえ経に「楚その大夫公子申を殺す」と書いた。

襄公三年(前570年)

  • 春、楚の子重が呉を討ち、選抜の師を出して鳩茲に克ち、衡山に至った。鄧廖に組甲三百・被練三千を率いて呉を侵させた。呉人は待ち伏せて撃ち、鄧廖を捕らえた。免れ得た者は組甲八十・被練三百だけであった。
  • 子重が帰って飲至の礼を行って三日、呉人が楚を討って駕を取った。駕は良い邑であり、鄧廖もまた楚の良い者であった。君子は「子重はこの役において、得たものが失ったものに及ばない」といった。楚人はこれで子重を咎めた。子重は病んで、そのまま心の病にかかって卒した。

襄公五年(前568年)

  • 楚人は陳が叛いたゆえを討ち、「令尹子辛がまことに侵し貪ったからだ」と言い、そこで殺した。経に「楚その大夫公子壬夫を殺す」と書いたのは、貪ったからである。
  • 君子は楚の共王がここにおいて刑を正しく用いなかったという。詩に「周の道は挺挺たり、我が心は扃扃たり。事を講じて令からざれば、人を集めて来り定む」とある。自分に信がないのに人を殺して思いを遂げるのは、難しいのではないか。夏書に「允を成して功を成す」とある。

襄公十二年(前561年)

  • 秦嬴が楚に嫁いだ。楚の司馬子庚が秦に聘問した。夫人のために安否を問うたのである。礼にかなう。

襄公十四年(前559年)

  • 楚の子囊が呉討伐から帰り、卒した。死のうとするとき、遺言して子庚に「必ず郢に城を築け」と言った。
  • 君子は子囊を忠という。君が薨じてその名を高めることを忘れず、死のうとしてその社稷を衞ることを忘れなかった。忠といわずにおれようか。忠は民の望みである。詩に「行いは周に帰す、万民の望むところ」とあるのは忠である。

襄公十五年(前558年)

  • 楚の公子午が令尹、公子罷戎が右尹、蔿子馮が大司馬、公子槖師が右司馬、公子成が左司馬、屈到が莫敖、公子追舒が箴尹、屈蕩が連尹、養由基が宮廄尹となり、それで国人を靖めた。
  • 君子は楚がここにおいてよく人に官を与えたという。人に官を与えるのは国の急務である。よく人に官を与えれば民に望み望む心がない。詩に「ああ我が懐う人、彼の周行に寘く」とあるのはよく人に官を与えることである。王および公・侯・伯・子・男・甸・采・衞・大夫がそれぞれその列に居る。いわゆる周行である。

襄公二十一年(前552年)

  • 夏、楚の子庚が卒した。楚子は薳子馮を令尹にしようとした。申叔豫に諮ると、叔豫は「国に寵臣が多く王は弱い。国は治められません」と言った。そこで病と称して辞退した。
  • 暑い盛りに地を掘って氷を下に置き、その上に床を据え、綿入れを重ね裘を着て、粗食にして寝た。楚子が医者に診させると、「痩せ方は甚だしいが、血気はまだ動いていません」と復命した。そこで子南を令尹とした。

襄公二十二年(前551年)

  • 楚の觀起が令尹子南に寵せられ、禄を増されてもいないのに馬数十乗を持っていた。楚人はこれを患え、王は討とうとした。
  • 子南の子の棄疾が王の御士であった。王は会うたびに必ず泣いた。棄疾は「君は三たび臣に泣かれました。あえて伺いますが、誰の罪でしょうか」と言った。王は「令尹の不才はお前も知るところだ。国が討とうとしている。お前はここに居られるか」と言った。答えて「父が戮されて子が居残るなら、君は何に用いられましょう。命を漏らせば刑を重くする。臣もいたしません」と言った。
  • 王はそのまま朝廷で子南を殺し、觀起を四方の国境で車裂きにした。子南の臣が棄疾に、屍を朝廷から移すことを請うよう言った。「君臣には礼がある。ただ諸君に任せる」と言った。三日して棄疾が屍を請い、王は許した。
  • 葬が済むと、その従者が「行かれますか」と言った。「私は父を殺したことに与った。行ってどこへ入れよう」と言った。「では王に臣従されますか」と言うと、「父を棄てて仇に仕えるのは、私には忍びない」と言い、そのまま縊れて死んだ。
  • 改めて薳子馮を令尹、公子齮を司馬、屈建を莫敖とした。薳子に寵せられる者が八人あり、みな禄がないのに馬が多かった。
  • 後日、朝廷で申叔豫に語りかけたが応えずに退いた。追うと人の中に入り、また追うとそのまま帰った。朝から退いて会いに行き、「あなたは三たび私を朝廷で困らせた。私は懼れて、あえて自分の過ちを見ぬわけにいかぬ。ひとまず私に告げてくれ。何を私に嫌われるのか」と言った。答えて「私は我が身が免れぬことを懼れている。どうしてあなたに告げられよう」と言った。「なぜか」と言うと、こう答えた。「昔、觀起が子南に寵せられ、子南が罪を得ると觀起は車裂きになった。なぜ懼れずにおれよう」。
  • 自ら御して帰ったが、まっすぐ道を進めなかった。着くと八人に「私は申叔夫子に会った。いわゆる死者を生き返らせ骨に肉を付けるとはこのことだ。私を知る者があの方のようであればよい。そうでなければ、去っていただきたい」と言い、八人を辞めさせた。その後で王は安心した。

襄公二十五年(前548年)

  • 薳子馮が卒し、屈建が令尹、屈蕩が莫敖となった。
  • 楚の蔿掩が司馬となった。子木は賦を整え甲兵を数えさせた。甲午、蔿掩は土田を記録し、山林を測り、藪沢を数え、丘陵を弁え、塩地に印をつけ、水に浸る境を数え、水溜まりを区画し、堤の原を町に分け、湿地を牧とし、平らな沃地に井を設け、収入を量って賦を定め、車を課し馬を登録し、車兵・徒兵・甲・楯の数を定めた。出来上がって子木に授けた。礼にかなう。

襄公二十六年(前547年)

  • はじめ楚の伍參は蔡の大師子朝と友であり、その子の伍舉と聲子は仲が善かった。伍舉は王子牟から妻を娶った。王子牟が申公となって亡命すると、楚人は「伍舉がまことに送った」と言った。伍舉は鄭へ亡命し、そのまま晉へ亡命しようとした。
  • 聲子が晉へ行こうとして鄭の郊で出会った。荊を敷いてともに食べながら、復帰のことを語った。聲子は「あなたは行かれよ。私が必ずあなたを復帰させる」と言った。
  • 宋の向戌が晉と楚を和睦させようとしたとき、聲子が使いして晉へ行き、帰りに楚へ行った。令尹の子木は語り合って晉の事情を問い、あわせて「晉の大夫と楚とではどちらが賢いか」と言った。答えて「晉の卿は楚に及ばぬが、その大夫は賢く、みな卿の器です。杞や梓や皮革のように、楚から行ったものです。楚に人材があっても、晉がまことにこれを用いる」と言った。子木が「彼らに族や姻戚がないのか」と言うと、「あってもなお楚の人材を用いることがまことに多い」と答え、こう続けた。
  • 「歸生は聞いております、よく国を治める者は賞に僭りがなく刑に濫りがないと。賞が僭れば淫らな人に及ぶことを懼れ、刑が濫れば善い人に及ぶことを懼れる。もし不幸にして過つなら、むしろ僭っても濫らぬがよい。善を失うくらいなら、むしろ淫らな者を利するがよい。善い人がいなければ国はそれに従います。詩に『人の亡ぶるとき、邦国は殄瘁す』とあるのは、善い人がいないことをいうのです。だから夏書に『無辜を殺すよりは、むしろ常法を失え』とあるのは善を失うことを懼れるのです。商頌に『僭らず濫らず、あえて怠り皇らず、命を下国に、その福を封建す』とある。これが湯が天の福を得た所以です。
  • 古の民を治める者は賞を勧め刑を畏れ、民を憐れんで倦まなかった。賞は春夏に、刑は秋冬に行った。それゆえ賞しようとするとき膳を加え、膳を加えれば飽き足りて賜う。これで賞を勧めることが分かる。刑しようとするとき膳を減らし、減らせば楽を撤する。これで刑を畏れることが分かる。早く起き遅く寝て朝夕政に臨む。これで民を憐れむことが分かる。この三つは礼の大節です。礼があれば敗れません。
  • いま楚には濫りな刑が多く、その大夫は四方に死を逃れて他国の謀主となり、楚国を害しています。救い癒せません。いわゆる『できていない』ということです。
  • 子儀の乱で析公が晉へ亡命した。晉人は戎車の殿に置いて謀主とした。繞角の役で晉は逃げようとしていた。析公は『楚の師は軽々しく、揺さぶりやすい。鼓を多く同じ音で打って夜に軍を進めれば、楚の師は必ず逃げる』と言った。晉人は従い、楚の師は夜に潰えた。晉はそのまま蔡を侵し沈を襲ってその君を捕らえ、桑隧で申と息の師を破って申麗を捕らえて帰った。鄭はここにおいて南に顔を向けなかった。楚が華夏を失ったのは析公のしわざです。
  • 雍子の父兄が雍子を讒言し、君と大夫はそれを正さなかった。雍子は晉へ亡命した。晉人は鄐を与えて謀主とした。彭城の役で晉と楚は靡角の谷で遭遇し、晉は逃げようとしていた。雍子は軍に令を発して『老幼を帰し、孤児と病者を返し、二人の役は一人にして帰し、兵を選び馬に秣をやり、寝床で食い、師を陣して宿営を焼き、明日戦う』と言い、帰す者を行かせて楚の捕虜を逃がした。楚の師は夜に潰えた。晉は彭城を降して宋に返し、魚石を伴って帰った。楚が東夷を失って子辛が死んだのは雍子のしわざです。
  • 子反と子靈が夏姫を争って、子靈のことを妨げた。子靈は晉へ亡命した。晉人は邢を与えて謀主とし、北狄を防がせ、呉を晉に通じさせ、呉に楚へ叛くことを教え、戦車の乗り方と射御を教え、駆って侵させ、その子の狐庸を呉の行人とさせた。呉はここにおいて巢を討ち駕を取り、棘に克ち州來に入った。楚は奔命に疲れ、今に至って患いとなっている。子靈のしわざです。
  • 若敖の乱で伯賁の子の賁皇が晉へ亡命した。晉人は苗を与えて謀主とした。鄢陵の役で楚は明け方に晉軍に迫って陣し、晉は逃げようとしていた。苗賁皇は『楚の師の精鋭はその中軍の王族だけだ。井を塞ぎ竈を平らにして陣を成してこれに当たり、欒氏・范氏が隊を替えて誘い、中行氏と二人の郤氏が必ず二穆に克つ。我らはそこで四方から王族に集まれば必ず大敗させられる』と言った。晉人は従い、楚の師は大敗した。王は傷つき師は気力を失い、子反は死んだ。鄭が叛き呉が興り、楚が諸侯を失ったのは苗賁皇のしわざです。
  • 子木が「みなそのとおりだ」と言うと、聲子は言った。「いままたこれより甚だしいことがあります。椒舉(伍舉)は申公子牟から妻を娶り、子牟が罪を得て亡命した。君と大夫は椒舉が妻をやったと言った。懼れて鄭へ亡命し、首を伸ばして南を望み、『あるいは余を赦してくれようか』と言いましたが、それも図られなかった。いまは晉におります。晉人は県を与えて叔向に並べようとしている。彼がもし楚国を害することを謀れば、患いとならぬはずがありましょうか」。
  • 子木は懼れて王に言い、その爵禄を増して復帰させた。聲子は椒鳴に迎えさせた。

襄公二十七年(前546年)

  • 崔氏の乱で申鮮虞が魯へ亡命し、野で下働きに雇われて莊公の喪に服した。冬、楚人が召し、そのまま楚へ行って右尹となった。

昭公十二年(前530年)

  • 楚子は成虎を若敖の残党だと言い、そのまま殺した。ある者が成虎を楚子に讒言したのである。成虎はそれを知りながら立ち去れなかった。経に「楚その大夫成虎を殺す」と書いたのは、寵を懐かしんだからである。

史論(士竒)

  • 楚は春秋に貶されているが、その卿大夫にはしばしば才傑が多く、深謀遠慮で家を忘れ私を忘れ、齊や晉の賢臣と伯仲する者があった。
  • 子元が入って王宮に居座ったとき、勢いは楚を盗んで我が物にしようとするものであった。このとき穀於菟が自ら家財を毀って楚国の難を緩めなかったら、禍は解けなかった。三たび仕えて三たび退けられても喜びも憤りも見せず、麛の裘で朝したことなど諸事を見れば、まことに賢ではないか。
  • 越椒の狼の子の野心が必ず若敖氏の宗を滅ぼすと、子文はあらかじめ知って殺すことを請うた。叔向の母が叔虎を悪んだのと同じく、割符を合わせたように的中した。それを子良が忍びず、ついに一族を潰した。
  • 箴尹(克黄)が慷慨して司敗のもとに就き、あえて君の命を棄てなかったのは、その祖の風がある。若敖の鬼が幸いに飢えずに済んだのも、ゆえのあることである。
  • 蔿艾獵は海浜から起こって楚に三年相となり、乗馬の牝牡も見分けられぬほどであった。忠勤を重ねて顕したから、その君を覇たらしめられた。沂に城を築くときの事の計らいは、その一節を示すにすぎない。この二人は楚国の令尹の中で最も賢い者である。子重や子囊の輩など数えるに足りようか。
  • 子反は一人の艶婦のことで屈巫を怨み、そのままその一族を滅ぼして家財を分けた。おかげで呉を上国に通じさせ、我が辺境を揺さぶらせ、ついに奔命に疲れて死んだ。怨みの毒が人に及ぶことの甚だしさよ。
  • 子囊は子反に比べれば賢いほうだが、宋を囲んだ役でいい加減に和睦を結んで何の功があろう。それでいて申と呂を求めて自らの封としようとしたのは悖っている。申と呂がなければ晉と鄭は必ず郢に至る。屈巫の言は甚だ正しい。それなのに子反に付いてその家財を分けた。これはみな私に依り怨みを結んで、公に奉ずる義を知らぬ者である。郢に城を築いた忠も、国を誤った罪をどうして解けよう。
  • 子申は小国の賄賂を多く受けて死に、子辛は陳を侵し貪って死んだ。みな自ら招いたことである。
  • 公子午は晉の悼公が三たび軍を出した後に当たり、兵を休めて社稷の利としようとして、やむを得ずしばしば出て隙を窺ったのであって、それが本志ではない。おそらくやはり賢者であろう。
  • 薳子馮は申叔の言に懲りてたちまち相の位を辞し、子南の戮を戒めとしてすぐ寵臣を退けた。薬石となる言葉がなければ、どうして死者を生き返らせ骨に肉を付けられよう。
  • 成虎は禄を懐かしんでついに身を焼いた。まことに迷って悟らぬ下愚である。
  • 聲子が荊を敷いて語った言葉を歴観すれば、策士や俊才が敵国に用いられ、析公・雍子・子靈・苗賁皇の輩のように頭を痛め胸を叩いて宗国を斬り損ない、敗れた轍が相次いだ。それなのにまた子牟のことで伍大夫(伍舉)を追い立てるとは。もし聲子が言葉を巧みにしなかったら、椒舉は復帰しなかったであろう。
  • 楚の興亡を歴観すれば、その機はみな令尹の賢否と用捨にかかっている。慎まずにおれようか。