左傳紀事本末子産、鄭の相となる(西宮・純門の難/諸臣の興廃を付す)(子産相鄭(西宫純門之難/諸臣興廢附))

鄭の子産が政を執って国を治めた事績を、襄公五年(前568年)から哀公五年(前490年)まで集めた篇。西宮・純門の難と諸臣の興廃を併せ載せる。襄公十年(前563年)の西宮の難で子駟・子國・子耳が殺され、子産は備えを整えて盗を討ち、盟書を焼いて衆を安んじた。以後、晉の重い貢納を書で諫めて軽くさせ、陳に入った功を辞し、伯有の乱を礼をもって処した。政を執っては都鄙に区分を設け丘賦を作り刑書を鋳、叔向の書に「今の世を救う」と答えた。郷校を毀たず、韓起の玉を与えず、火災には備えを配り裨竈の禳いを退けた。臨終に「寛は難しい」と太叔に告げ、その死に孔子は涙して「古の遺愛」と言った。

年表(30件)

襄公五年(前568年)

  • 夏、鄭の子國が聘問に来た。嗣君のことを通じたのである。

襄公八年(前565年)

  • 鄭の子國と子耳が蔡を侵し、蔡の司馬公子燮を捕らえた。鄭人はみな喜んだが、子産だけは承服せず、「小国に文徳がなくて武功があるのは、これ以上の禍はない。楚人が討ちに来れば従わずにおれようか。従えば晉の師が必ず来る。晉と楚が鄭を討ち、今から鄭国は四、五年は安寧を得られまい」と言った。子國は怒って「お前に何が分かる。国には大命があり正卿がある。童子が口を出せば戮せられるぞ」と言った。
  • 冬、楚の子囊が鄭を討った。蔡を侵したことを咎めたのである。

襄公十年(前563年)

  • 楚の子囊と鄭の子耳が宋を討った。秋七月、我が西の辺境を侵し、帰りに蕭を囲み、八月丙寅にこれを克った。九月、宋の北の辺境を侵した。孟獻子は「鄭には災いがあろうか。師の争いが甚だしすぎる。周ですら争いに堪えられぬ。まして鄭では。災いがあるなら、その執政の三人であろう」と言った。
  • はじめ子駟は尉止と諍いがあった。諸侯の師を防ごうとしたとき、その戦車を減らした。尉止が捕虜を得るとまた争った。子駟は尉止を抑えて「お前の車は礼に外れている」と言い、そのまま献上させなかった。
  • はじめ子駟が田の溝を定めたとき、司氏・堵氏・侯氏・子師氏はみな田を失った。それゆえ五族が不平の徒を集め、公子の一党に頼って乱を起こした。このとき子駟が国を執り、子國が司馬、子耳が司空、子孔が司徒であった。
  • 冬十月戊辰、尉止・司臣・侯晉・堵女父・子師僕が賊を率いて入り、明け方に西宮の朝廷で執政を攻め、子駟・子國・子耳を殺し、鄭伯を脅して北宮へ行った。子孔はこれを知っていたので死ななかった。経に「盗」と書いたのは、そこに大夫がいなかったことをいう。
  • 子西は盗を聞いて備えもせずに出、屍を検めて盗を追った。盗は北宮に入っていたので帰った。甲を授けようとすると、臣妾の多くが逃げ、器物の多くが失われていた。
  • 子産は盗を聞くと、門番を配置し、諸役人を整え、府庫を閉じ、蔵の戸締りを慎み、守備を固め、隊列を組んでから出た。兵車十七乗で、屍を検めて北宮の盗を攻めた。子蟜が国人を率いて助け、尉止と子師僕を殺し、盗の徒はことごとく死んだ。侯晉は晉へ、堵女父・司臣・尉翩・司齊は宋へ亡命した。
  • 子孔が国を執り、盟書を作って、地位の序列に従って政を聴き、大夫・諸司・門子を排した。従わぬので誅そうとした。子産が止め、盟書を焼くよう請うた。子孔は承知せず、「書を作って国を定めたのに、衆が怒ったから焼くのでは、衆が政をすることになる。国は難しくなるではないか」と言った。
  • 子産は言った。「衆の怒りは犯し難く、独りの欲は成し難い。二つの難きを合わせて国を安んずるのは、危うい道です。書を焼いて衆を安んじるに如きません。あなたは望みを得、衆もまた安んじる。よいではありませんか。独りの欲は成らず、衆を犯せば禍が興る。あなたは必ず従われよ」。そこで倉門の外で盟書を焼き、衆はその後で落ち着いた。

襄公十五年(前558年)

  • 鄭の尉氏・司氏の乱の残りの盗が宋にいた。鄭人は子西・伯有・子産のために宋に賄賂を納れ、馬四十乗と師筏・師慧を与えた。三月、公孫黑を人質とした。司城子罕は堵女父・尉翩・司齊を渡し、良い司臣は逃がして季武子に託した。武子は卞に置いた。鄭人は三人を醢にした。
  • 師慧が宋の朝廷を通ったとき小用を足そうとした。その介添えが「朝廷ですぞ」と言った。慧は「人がいない」と言った。介添えが「朝廷なのに、なぜ人がいないのか」と言うと、慧は「必ず人がいない。もし人がいたら、どうして千乗の国の相を淫らな楽の盲人と取り替えようか。必ず人がいないからだ」と言った。子罕はこれを聞いて、固く請うて帰した。
  • 十二月、鄭人が堵狗の妻を奪って范氏に帰した。

襄公十八年(前555年)

  • 鄭の子孔が諸大夫を除こうとして、晉に叛き楚の師を起こして除こうとし、子庚に告げさせた。子庚は許さなかった。楚子はこれを聞いて揚豚尹の宜に子庚へ告げさせた。「国人は不穀が社稷を主りながら師を出さぬといい、死んでも礼に従えぬという。不穀は即位して今年で五年、師を出さぬ。人は不穀が安逸に流れて先君の業を忘れたと思おう。大夫よ図られよ。どうするか」。
  • 子庚は嘆じて「君王は午が安逸に懐いていると言われるのか。私は社稷を利するためなのに」と言い、使者に会って稽首し、「諸侯はいま晉と睦まじい。臣は試みることを請う。可能なら君が続かれよ。不可能なら師を収めて退けば、害もなく君も辱められません」と答えた。
  • 子庚は師を率いて汾で兵を整えた。このとき子蟜・伯有・子張は鄭伯に従って齊を討ち、子孔・子展・子西が守っていた。二人(子展・子西)は子孔の謀を知って守りを固め城に籠った。子孔は楚の師に会えなかった。
  • 楚の師が鄭を討ち、魚陵に駐屯し、右師が上棘に城を築き、そのまま潁を渡って㫋然に駐屯した。蔿子馮と公子格が精鋭を率いて費・滑・胥靡・獻于・雍梁を侵し、右へ梅山を回って鄭の東北を侵し、蟲牢に至って引き返した。子庚は純門を攻め、城下に二晩とどまって引き返し、魚齒の下を渡った。ひどい雨に遭って楚の師は凍える者が多く、役夫はほとんど尽きた。

襄公十九年(前554年)

  • 鄭の子孔が政を執って専らにし、国人はこれを患えた。そこで西宮の難と純門の師の件を討ち、子孔を罪に当てた。子孔はその甲兵と子革・子良氏の甲兵で守った。甲辰、子展と子西が国人を率いて討ち、子孔を殺してその家財を分けた。経に「鄭その大夫を殺す」と書いたのは、専らにしたからである。
  • 子然と子孔は宋子の子であり、士子孔は圭媯の子である。圭媯の序列は宋子に次ぎ、互いに親しかった。士子孔もまた親しかった。僖公四年に子然が卒し、簡公元年に士子孔が卒した。司徒孔がまことに子革・子良の家を輔けた。三家が一つのようであったから難に及んだのである。子革と子良は楚へ亡命し、子革は右尹となった。
  • 鄭人は子展に国を執らせ、子西に政を聴かせ、子産を立てて卿とした。

襄公二十二年(前551年)

  • 夏、晉人が鄭に朝することを求めた。鄭人は少正の公孫僑(子産)にこう答えさせた。
  • 「晉の先君悼公の九年に我が寡君は即位し、即位して八か月で我が先大夫の子駟が寡君に従って執事に朝しましたが、執事は寡君を礼遇されませんでした。寡君は懼れ、この行きゆえに、我が二年六月、楚に朝しました。晉はそれで戲の役がありました。楚人はなお強く、敝邑に礼を伸べました。敝邑は執事に従いたいと思いながら大きな咎めとなることを懼れ、『晉は我らが礼あるものに共しないと言おう』と考えました。それで楚に二心を抱けなかったのです。
  • 我が四年三月、先大夫の子蟜がまた寡君に従って楚の隙を窺いました。晉はそこで蕭魚の役がありました。我が敝邑は晉国の近くにあり、草木にたとえれば同じ香りだ、どうしてあえて食い違えようか、と申しました。楚もまた強くなく、寡君はその土地の産をことごとく、そのうえ宗器を重ねて、盟に加わりました。
  • そのまま群臣を率いて執事に随って会し、年の暮れには楚に二心を抱いた子侯・石盂を帰って討ちました。湨梁の翌年、子蟜は老い、公孫夏が寡君に従って君に朝し、嘗酎に列して燔肉を執りました。二年おいて君が東夏を靖められると聞き、四月にまた朝して事の期日を承りました。
  • 朝さぬ間も、聘問せぬ年はなく、役に従わぬことはありません。大国の政令が定まらぬため国家は疲れ病み、思わぬことが重ねて至り、日として懼れぬ日はありません。どうして職を忘れましょう。大国がもし安定させてくださるなら、朝夕その庭にありましょう。どうして命を煩わすまでもありましょう。もしその患いを憐れまず口実とされるなら、命に堪えられず仇讐に切り離されるのではないか。敝邑はそれを懼れます。どうして君命を忘れましょう。執事に委ねます。執事がまことに重ねて図られよ」。
  • 九月、鄭の公孫黑肱が病んで邑を公に返した。家老と宗人を召して段を立て、官を減らし祭を薄くさせ、祭には特羊、殷祭には少牢を用いて祀を供えるに足るとし、残りの邑をことごとく返した。「私は聞いている、乱世に生まれて貴くして貧しくあり得れば、民が求めるものがなく、後まで亡びずにいられると。敬んで君と諸君に仕えよ。生きるとは敬み戒めることにあって、富むことにはない」と言った。己巳、伯張が卒した。君子は言う。「よく戒めた。詩に『爾の侯度を慎み、もって不虞に戒む』とある。鄭の子張はそれがあった」。
  • 十二月、鄭の游眅が晉へ行こうとして、まだ国境を出ぬうちに妻を迎える者に遭い、奪って邑に泊めた。丁巳、その夫が子明(游眅)を攻めて殺し、その妻を連れて行った。子展は良(游眅の子)を廃して太叔を立て、「国の卿は君の副であり民の主である。いい加減にはできぬ」と言った。子明の同類を措き、妻を失った者を捜させてもとに戻し、游氏に怨まぬよう言い、「悪を明るみに出すな」と言った。

襄公二十四年(前549年)

  • 范宣子が政を執り、諸侯の貢納が重かった。鄭人はこれに苦しんだ。二月、鄭伯が晉へ行き、子産が子西に書を託して宣子に告げた。
  • 「あなたは晉国を治めておられるが、四隣の諸侯は令徳を聞かずに重い貢納を聞く。僑はこれに惑います。僑は聞いております、君子で国家を長ずる者は財のないことを患えず、令名のないことを難しとすると。そもそも諸侯の財が公室に集まれば諸侯は二心を抱き、あなたがそれを頼りとすれば晉国が二心を抱く。諸侯が二心を抱けば晉国が壊れ、晉国が二心を抱けばあなたの家が壊れる。何と溺れておられるのか。財を何に用いましょう。
  • そもそも令名は徳を載せる車であり、徳は国家の基です。基があれば壊れることはない。これに務められぬのですか。徳があれば楽しみ、楽しめば長続きする。詩に『楽しきかな君子、邦家の基』とあるのは令徳があることをいい、『上帝汝に臨む、爾が心を貳にするなかれ』とあるのは令名があることをいう。恕をもって思い徳を明らかにすれば、令名がこれを載せて行く。それゆえ遠い者が来て近い者が安んじる。人にあなたを『あなたこそ我らを生かす』と言わせるほうがよいか、『我らを絞って生きる』と言わせるほうがよいか。象は牙があってその身を焼く。財のせいである」。
  • 宣子は喜び、貢納を軽くした。
  • この行きは、鄭伯が晉に朝したのは重い貢納のゆえであり、あわせて陳を討つことを請うためであった。鄭伯が稽首すると宣子は辞退した。子西が相となって「陳国が大国を頼んで敝邑を虐げるので、寡君は罪を問うことを請うたのです。どうして稽首せずにおれましょう」と言った。
  • 晉侯が程鄭を寵愛して下軍の佐とした。鄭の行人公孫揮が晉に聘問し、程鄭が問うて「あえて伺うが、位を降りるにはどうすればよいか」と言った。子羽(公孫揮)は答えられず、帰って然明に語った。然明は「彼は死ぬだろう。そうでなければ亡命する。貴くして懼れを知り、懼れて降りることを思うなら、その道はおのずと得られる。人に下ればよいだけで、何を問うことがあろう。そもそもすでに登っておいて降りる道を求めるのは、人を知る者のすることだ。程鄭にそれはない。亡命の兆しでもあろうか。そうでなければ心の病があって、死を前に憂えているのだ」と言った。

襄公二十五年(前548年)

  • はじめ陳侯が楚子と会して鄭を討ったとき、陳の通った道筋では井を埋め木を伐った。鄭人はこれを怨んだ。
  • 六月、鄭の子展と子産が戦車七百乗で陳を討ち、夜に陳の城を突いてそのまま入った。陳侯は太子偃師を扶けて墓所へ逃げ、司馬桓子に遇った。「余を載せよ」と言うと、「城を巡回します」と言った。賈獲に遇うと、母と妻を載せていたが、下ろして公に車を授けた。公が「お前の母を残せ」と言うと、「不吉です」と辞退し、妻とともに母を扶けて墓所へ逃げ、やはり難を免れた。
  • 子展は師に公宮に入らぬよう命じ、子産とともに自ら門を守った。陳侯は司馬桓子に宗器を賄賂として送らせた。陳侯は喪服で社の主を抱き、その衆を男女に分けて縛り、朝廷で待たせた。子展は馬の絆をつけたまま会い、再拝稽首して飲み物を捧げて進めた。子美(子産)が入り、俘虜を数えて出た。祝が社を祓い、司徒が民籍を渡し、司馬が符節を渡し、司空が土地の図を渡し、そこで引き上げた。
  • 鄭の子産が晉に戦勝を献じた。戎服のまま務めを行った。晉人が陳の罪を問うと、こう答えた。
  • 「昔、虞閼父は周の陶正となって我が先王に仕えました。我が先王はその器物の利と神明の後裔であることを頼みとし、元女の大姫を胡公に配して陳に封じ、三恪に備えられました。とすれば我が周の血筋であって、今日までそれによっています。桓公の乱のとき、蔡人はその出の者を立てようとし、我が先君の莊公が五父を奉じて立てたが蔡人が殺しました。我らはまた蔡人とともに厲公を奉戴し、莊公・宣公に至るまでみな我らが立てたのです。夏氏の乱で成公が流離したのも、また我らが入国させたのです。君のご存じのとおり。
  • いま陳は周の大徳を忘れ、我らの大恵を蔑ろにし、我らの姻親を棄て、楚の衆を頼んで敝邑を凌ぎました。忖度も抑えもかないませんでした。それゆえ昨年の告げがあったのです。承諾を得られぬうちに我が東門の役があり、陳の通った道筋では井を埋め木を伐りました。敝邑は大いに懼れ、力の及ばぬこと、大姫に恥じることを思いました。天がその心を誘い、敝邑の心を啓き、陳はその罪を知って我らに手を差し出しました。それであえて功を献ずるのです」。
  • 晉人が「なぜ小を侵したのか」と言うと、「先王の命は、ただ罪の在るところにそれぞれ処罰を加えよというものです。しかも昔、天子の地は一圻、列国は一同、以下順に減じました。いま大国は数圻もあります。小を侵さずしてどうしてそこまで至りましょう」と答えた。
  • 晉人が「なぜ戎服なのか」と言うと、「我が先君の武公・莊公は平王・桓王の卿士でした。城濮の役で文公は『おのおの旧職に復せ』と命を布かれ、我が文公に戎服で王を輔けて楚の戦勝品を受けるよう命じられました。あえて王命を廃せぬからです」と答えた。
  • 士莊伯は言い返せず、趙文子に復命した。文子は「その言は筋が通っている。筋の通ったものを犯すのは不吉だ」と言い、そこで受け取った。
  • 冬十月、子展が鄭伯の相となって晉へ行き、陳を討った功に拝謝した。子西が改めて陳を討ち、陳と鄭は和睦した。
  • 仲尼は言った。「志にこうある、言葉は志を十分に表し、文は言葉を十分に表す、と。言わなければ誰がその志を知ろう。言っても文がなければ、行き渡っても遠くまで及ばぬ。晉が覇となり鄭が陳に入ったのも、文辞がなければ功とならなかった。言葉を慎めよ」。
  • 晉の程鄭が卒した。子産は初めて然明が賢いと知り、政の要を問うた。答えて「民を子のように見、不仁の者を見れば、鷹や鸇が鳥雀を追うように誅されよ」と言った。子産は喜んで子太叔に語り、「先日までは蔑(然明)の顔を見ただけだった。いまはその心を見た」と言った。
  • 子太叔が子産に政を問うた。子産は「政は農事のようなものだ。日夜これを思い、その始めを思ってその終わりを成し、朝夕に行い、行いが思いを越えぬこと、農に畦があるようにすれば、過ちは少ない」と言った。

襄公二十六年(前547年)

  • 鄭伯が陳に入った功を賞した。三月甲寅朔、子展を饗して先路の車と三命の服、先に八邑を賜い、子産に次路の車と再命の服、先に六邑を賜った。子産は邑を辞退し、「上から下へ二つずつ減じるのが礼です。臣の位は四番目、しかも子展の功です。臣はあえて賞に及べません。礼に請う、邑は辞退します」と言った。公が固く与えたので、三邑を受けた。公孫揮は「子産はやがて政を知るだろう。譲って礼を失わぬ」と言った。
  • 秋七月、齊侯と鄭伯が衞侯のために晉へ行った。國景子が齊侯の相、子展が鄭伯の相となった。叔向は「鄭の七穆のうち罕氏が最後に滅びる家であろう。子展は倹にして一である」と言った。
  • 鄭伯が晉から帰り、子西を晉に聘問させた。「寡君が来て執事を煩わせ、咎めを免れぬことを懼れ、夏に不敏を謝らせます」と辞した。君子は「よく大国に仕えた」と言った。
  • 楚子が鄭を討った。鄭人が防ごうとすると、子産は「晉と楚はやがて和睦し、諸侯はやがて楚王と和す。それゆえひとたび来ることに暗んじている。思いを遂げさせて帰らせるに如きません。そのほうが和睦しやすい」と言った。子展は喜んで敵を防がなかった。

襄公二十七年(前546年)

  • 秋、鄭伯が趙孟を垂隴で饗した。子展・伯有・子西・子産・子太叔・二人の子石が従った。趙孟は「七人の方が君に従われるのは武を寵されるものだ。みな賦して君の賜物を全うされることを請う。武もまた七人の志を見たい」と言った。
  • 子展が草蟲を賦した。趙孟は「よいかな、民の主である。ただ武はこれに当たるに足りぬ」と言った。伯有が鶉之賁賁を賦した。趙孟は「閨房の言は敷居を越えぬ。まして野においてをや。使者の聞いてよいものではない」と言った。子西が黍苗の四章を賦した。趙孟は「寡君がおられる。武に何ができよう」と言った。子産が隰桑を賦した。趙孟は「武はその卒章を受けることを請う」と言った。子太叔が野有蔓草を賦した。趙孟は「あなたの恵みである」と言った。印段が蟋蟀を賦した。趙孟は「よいかな、家を保つ主である。私は望みがある」と言った。公孫段が桑扈を賦した。趙孟は「交わらず驕らずとあれば、福はどこへ行こう。この言を保てるなら、福禄を辞退しようとしてもできまい」と言った。
  • 饗が終わって文子は叔向に告げた。「伯有はやがて戮せられるだろう。詩は志を言うものだ。志が上を誣い、公然と怨んで、それを賓客への栄誉とする。長続きしようか。幸いでもあとから滅びるくらいだ」。叔向は「そのとおり。奢りが過ぎる。いわゆる五年と保たぬというのは、あの人のことだ」と言った。文子は「その他はみな数代続く主である。子展は最後に滅びる者だ。上にあって降ることを忘れぬ。印氏がその次だ。楽しんで荒れず、楽しみで民を安んじ、淫らにならずに民を使う。後に滅びるのも当然ではないか」と言った。

襄公二十八年(前545年)

  • 蔡侯が晉から帰り、鄭に入った。鄭伯が饗したが、蔡侯は敬まなかった。子産は言った。「蔡侯は免れまい。先日ここを通ったとき、君は子展を東門の外へ労いに遣わされたが傲慢であった。私は『まだ改めるだろう』と言った。いま帰りに饗を受けてなお怠るのは、それが本心なのだ。君として小国が大国に仕えるのに、怠り傲ることを本心とする。真っ当な死を得られようか。もし免れぬとすれば、必ずその子によるだろう。君となって淫らで父らしくない。僑は聞いている、こういう者には必ず子の禍があると」。
  • 子産が鄭伯の相となって楚へ行った。宿営に壇を作らなかった。外僕が「昔、先大夫が先君の相となって四方の国へ行ったとき、壇を作らぬことはなく、それ以来今まで皆これに従っています。いまあなたが草の上に宿るのは、いけないのではありませんか」と言った。
  • 子産は言った。「大が小へ行くなら壇を作るが、小が大へ行くならただ宿るだけだ。壇を何に用いる。僑は聞いている、大が小へ行くには五つの美がある。その罪を宥し、その過失を赦し、その災患を救い、その徳と刑を賞し、その及ばぬところを教える。小国は困らず、心服して帰るごとくである。それゆえ壇を作ってその功を明らかにし、後人に宣べて徳に怠らぬようにする。小が大へ行くには五つの悪がある。その罪を言い訳し、足りぬところを請い、その政事を行い、その職貢を供え、その時々の命に従う。そうでなければ幣帛を重くしてその福を賀しその凶を弔う。みな小国の禍である。どうして壇を作ってその禍を明らかにしよう。子孫に告げるなら、禍を明らかにせぬのがよい」。
  • 公が楚へ行き鄭を通った。鄭伯は不在で、伯有が黄崖で労ったが敬まなかった。穆叔は言った。「伯有が鄭で罪を得ぬなら、鄭には必ず大きな咎めがあろう。敬は民の主である。それを棄てて、何をもって受け継ぎ守るのか。鄭人が討たなければ必ずその咎を受ける。濟澤の岸辺、道端の水たまりの蘋や藻でも、宗室に供えて季蘭が祀を主る。敬である。敬を棄ててよいものか」。

襄公二十九年(前544年)

  • 靈王を葬った。鄭では上卿が事に当たるべきところ、子展は印段を行かせた。伯有は「若すぎて不可だ」と言った。子展は「誰も行かぬよりは、若くともましではないか。詩に『王事に盬きことなし、啓き処るに遑あらず』とある。東西南北、誰があえて安んじていられよう。晉と楚に堅く仕えるのは王室を蕃屏するためだ。王事に空きがあってはならぬ。どんな定めがあろう」と言い、そのまま印段を周へ遣わした。
  • 鄭の子展が卒し、子皮が位に即いた。このとき鄭は飢饉で麦の実る前であり、民は苦しんでいた。子皮は子展の遺命として国人に粟を一戸につき一鍾贈った。これによって鄭国の民の心を得た。だから罕氏は常に国政を掌り上卿となった。
  • 鄭の伯有が公孫黑を楚へ遣わそうとした。断って「楚と鄭はいま険悪なのに、私を行かせるのは私を殺すことだ」と言った。伯有は「代々の役目だ」と言った。子晳(公孫黑)は「可能なら行き、難しければやめる。代々も何もあるものか」と言った。伯有が強いて行かせようとし、子晳は怒って伯有氏を討とうとした。大夫が和解させた。十二月己巳、鄭の大夫が伯有氏の家で盟った。
  • 禆諶は言った。「この盟はどれほど保つか。詩に『君子しばしば盟い、乱これをもって長ず』とある。いまこれは乱を長ずる道だ。禍はまだ止まぬ。必ず三年たってはじめて緩む」。然明が「政はどこへ行くか」と問うた。裨諶は「善が不善に代わるのは天命だ。どこへ避けよう。子産は等を越えずに挙げられたのだから位の序列どおりであり、善を択んで挙げれば代々盛んになる。天がまた道を除き、伯有の魂を奪い、子西が世を去る。どこへ避けよう。天が鄭に禍して久しい。必ず子産にこれを息ませるのだろう。それでなお鎮まりうる。そうでなければ滅びるだろう」と言った。

襄公三十年(前543年)

  • 子産が鄭伯の相となって晉へ行った。叔向が鄭国の政を問うた。答えて「私が再びお目にかかれるかどうかは、この一年にかかっています。駟氏と良氏がまさに争っており、どう決着するか分かりません。決着がつけば、お目にかかれるかどうかも分かりましょう」と言った。叔向が「すでに和したのではないか」と言うと、「伯有は奢って情強く、子晳は人の上に立つのを好む。互いに下につけません。和したといっても、なお互いに悪を積んでいる。悪が至るのは日を待ちません」と答えた。
  • 夏四月己亥、鄭伯とその大夫が盟った。君子はこれによって鄭の難がやまぬことを知った。
  • 鄭の伯有は酒を好み、地下室を作って夜に酒を飲み鐘を撃った。朝廷の刻限が来てもやめず、朝する者が「公はどこか」と問うと、その家人は「我が公は穴倉におられる」と言った。皆、朝廷から散って引き上げた。
  • やがて朝したが、また子晳を楚へ遣わそうとし、帰って酒を飲んだ。庚子、子晳が駟氏の甲兵で討って焼いた。伯有は雍梁へ逃げ、酔いが醒めてから事を知り、そのまま許へ逃げた。
  • 大夫が集まって謀った。子皮は「仲虺の志に『乱れる者は取り、亡ぶ者は侮る。亡を推し存を固めるのは国の利である』とある。罕・駟・豐は同族だ。伯有は奢りが過ぎたから免れなかった」と言った。人は子産に、直なるほうに就き強いほうを助けよと言った。子産は「私だけの一党のことか。国の禍難は誰がその果てを知ろう。強いほうか直なほうかが主となれば難は生じぬ。しばらく私は私の分を全うする」と言った。
  • 辛丑、子産は伯有氏の死者を斂めて殯した。相談も待たずにそのまま出発した。印段が従った。子皮が止めた。衆は「人が我らに従わぬのに、なぜ止めるのか」と言った。子皮は「あの方は死者に礼を尽くす。まして生者においてをや」と言い、そのまま自ら止めた。
  • 壬寅、子産が入り、癸卯、子石が入り、みな子晳氏の家で盟を受けた。乙巳、鄭伯とその大夫が大宮で盟い、師之梁の外で国人と盟った。
  • 伯有は鄭人が自分を除く盟をしたと聞いて怒り、子皮の甲兵が自分を攻めるのに加わらなかったと聞いて喜び、「子皮は私に味方する」と言った。癸丑の明け方、墓門の水路から入り、馬師頡に頼って襄庫の武具で身を固め、旧北門を討った。駟帶が国人を率いて討った。双方とも子産を召した。子産は「兄弟でありながらここに至った。私は天の与するほうに従う」と言った。
  • 伯有は羊の市で死んだ。子産は衣を着せ、股に枕させて哭し、斂して伯有の臣で市の側にいる者のところに殯し、やがて斗城に葬った。子駟氏が子産を攻めようとした。子皮は怒って「礼は国の幹である。礼ある者を殺せば、これ以上の禍はない」と言い、そこでやめた。
  • このとき游吉が晉へ行き、帰りに難を聞いて入らず、副使に復命させた。八月甲子、晉へ亡命した。駟帶が追い、酸棗に至って子上(游吉)と盟い、二つの珪を河に沈めて誓い、公孫肸を入らせて大夫と盟わせた。己巳、帰った。経に「鄭人、良霄を殺す」と書いて大夫と称さなかったのは、外から入ったことをいう。
  • 子蟜が卒して葬ろうとしたとき、公孫揮と裨竈が明け方に事の打ち合わせをして伯有氏の門前を通った。門の上に莠が生えていた。子羽は「まだ莠が生えているのか」と言った。このとき歳星は降婁にあり、降婁が中天にあって夜が明けた。裨竈はこれを指して「まだ年を終えられよう。歳星がこの次に及ばぬうちだ」と言った。伯有が滅んだとき、歳星は娵訾の口にあり、その翌年に降婁に及ぶところであった。
  • 僕展が伯有に従って、ともに死んだ。羽頡は晉へ亡命して任の大夫となった。雞澤の会で鄭の樂成が楚へ亡命し、そのまま晉へ行った。羽頡はこれを頼んで結び、趙文子に仕え、鄭を討つ説を述べた。宋の盟のゆえに実現しなかった。子皮は公孫鉏を馬師とした。
  • 鄭の子皮が子産に政を授けた。辞退して「国は小さくて逼られ、族は大きく寵臣が多い。できません」と言った。子皮は「虎が率いて聴けば、誰があえてあなたを犯そう。あなたはよく輔けられよ。国に小はない。小さくとも大に仕えられれば、国はそこで安らかになる」と言った。
  • 子産が政を執った。伯石に用があり、賄賂として邑を与えた。子太叔は「国はみな彼の国でもあります。なぜ彼だけに賄うのか」と言った。子産は「欲がないというのはまことに難しい。皆がその欲を得てその事に従い、その成就を求める。私が成し遂げるのではない、人にあるのだ。邑を惜しんで何になろう。邑がどこへ行くわけでもない」と言った。子太叔が「四方の国はどうするのか」と言うと、子産は「互いに背くのでなく従い合うのだ。四方の国が何を咎めよう。鄭書に『国家を安定させるには必ず大なるものを先にせよ』とある。しばらく大を先に安んじてその落ち着くところを待つ」と言った。
  • やがて伯石は懼れて邑を返したが、結局与えた。伯有が死ぬと、太史に伯石を卿とするよう命じさせた。辞退した。太史が退くと、また命を請うた。改めて命じるとまた辞退した。三度こうしてから策を受けて入り拝した。子産はそのために彼の人となりを憎み、自分の次の位に置いた。
  • 子産は都と鄙に区分を設け、上下に定まった衣服を設け、田に封と溝を設け、廬井に伍を設けた。大人で忠倹な者にはそれに従って与え、奢り過ぎる者はそれによって斃した。
  • 豐卷が祭を行うのに狩りを請うた。許さず、「ただ君だけが新鮮な獲物を用いる。衆は供え物が足りればよい」と言った。子張(豐卷)は怒って退き、兵役を徴した。子産は晉へ逃げようとした。子皮が止めて豐卷を追った。豐卷は晉へ亡命した。子産はその田地を保全することを請い、三年たって復帰させ、その田地を返し、その収入も返した。
  • 政を執って一年、輿人は「我らの衣冠を取り上げてしまい込み、我らの田畑を取り上げて伍にした。誰が子産を殺すか、私は加担する」と誦した。三年になるとまた「我らに子弟あれば子産が教え、我らに田畑あれば子産が殖やす。子産が死んだら誰が継ぐのか」と誦した。

襄公三十一年(前542年)

  • 襄公が薨じた月、子産が鄭伯の相となって晉へ行った。晉侯は我が国の喪のゆえに会わなかった。子産はその宿館の垣をことごとく壊させて車馬を入れた。
  • 士文伯が咎めて言った。「敝邑は政と刑が修まらず、盗賊が横行しています。諸侯の属で寡君のもとに辱く来られる方々をどうしたものかと、それで役人に客の宿館を整えさせ、門を高くし垣を厚くして客使に憂いのないようにしております。いまあなたはこれを壊された。お供が用心できても、他の客はどうなさるのか。敝邑は盟主であるゆえに垣を繕い塀を葺いて賓客を待つ。皆が毀てば、どうして命に応えられましょう。寡君が匄に趣旨を伺わせます」。
  • 答えて言った。「敝邑は狭小で大国の間に介まれ、誅求は絶え間なく、それであえて安んじて居らず、敝邑の賦をことごとく取り集めて時々の事に会しに参りました。執事の暇でないときに遇ってまだ拝謁できず、命も承れず、いつ拝謁できるか分かりません。あえて幣を納れることもできず、あえて野ざらしにもできません。納れればそれは君の府の中身であり、正式に陳べぬままあえて納れられません。野ざらしにすれば乾湿が時に合わずに朽ち虫食い、敝邑の罪を重ねましょう。
  • 僑は聞いております、文公が盟主であられたころ、宮室は低く小さく、観臺も榭もなく、諸侯の館を崇く大きくし、館は公の寝殿のようで、倉や厩も繕い修め、司空が時に応じて道路を平らにし、左官が時に応じて館舎を塗った。諸侯の賓が至れば甸人が庭燎を設け、僕人が宮を巡り、車馬に置き所があり、賓の従者には代わりの者があり、巾車が車軸に油を差し、隷人・牧圉がそれぞれの務めを果たし、百官の属がそれぞれの物を並べた。公は賓を留め置かず、事を廃することもなく、憂いも楽しみも共にし、事があれば巡り、知らぬことを教え、足りぬところを憐れんだ。賓は至って我が家に帰ったようであり、災患もなく、盗賊を畏れず、乾湿も患えなかった。
  • いま銅鞮の宮は数里に及ぶのに、諸侯は隷人の宿舎に泊まる。門は車が通らず、乗り越えることもできぬ。盗賊が公然と行き、疫病への備えもない。拝謁の時も定まらず、命も知れぬ。もし壊すこともできなければ、幣を蔵する所がなくて罪を重ねます。あえて伺いますが、執事は何とお命じになるのか。君に魯の喪があるとはいえ、敝邑の憂いでもあります。もし幣を進め垣を修めて帰れるなら、君の恵みです。どうして労を厭いましょう」。
  • 文伯が復命した。趙文子は「まことに我らこそ徳がなく、隷人の垣をもって諸侯を容れた。私の罪だ」と言い、士文伯に不敏を謝らせた。晉侯は鄭伯に会って礼を加え、宴と贈り物を厚くして帰した。そこで諸侯の館を築いた。
  • 叔向は言った。「言葉はやめられぬものだ、これほどまでに。子産に言葉があって諸侯がこれに頼った。どうして言葉を捨てられよう。詩に『辞の輯うや、民の協うや。辞の繹くや、民の莫んずるや』とある。それを知っていたのだ」。
  • 鄭の子皮が印段を楚へ遣わし、晉へ行ったことを告げさせた。礼にかなう。
  • 十二月、北宮文子が衞の襄公の相となって楚へ行った。宋の盟のゆえである。鄭を通ったとき、印段が棐林で労い、聘礼の作法で労いの辞を述べた。文子が入って聘し、子羽が行人となり、馮簡子と太叔が客を迎えた。事が終わって出てから衞侯に言った。「鄭には礼がある。数代の福でしょう。大国の討伐もありますまい。詩に『誰か能く熱を執って、逝いて濯うを以てせざらん』とある。政における礼は、熱における水浴のようなものです。浴して熱を救う。何の患いがありましょう」。
  • 子産の政の執り方は、能ある者を択んで使うことであった。馮簡子は大事を決断でき、子太叔は美しく秀でて文があり、公孫揮は四方の国の動きを知り、その大夫の族姓・班位・貴賤・能否を弁え、また辞令を作るのが巧みで、裨諶はよく謀ったが、野で謀れば当たり、邑で謀れば当たらなかった。
  • 鄭国に諸侯の事があると、子産は四方の国の動きを子羽(公孫揮)に問い、あわせて多くの辞令を作らせ、裨諶と車に乗って野へ行き、可否を謀らせて馮簡子に告げ、決断させた。事が定まると子太叔に授けて実行させ、賓客に応対させた。それゆえ事に失敗が少なかった。北宮文子のいわゆる「礼がある」とはこれである。
  • 鄭人が郷校に集まって執政を論じた。然明が子産に「郷校を毀ってはどうか」と言った。子産は言った。「何のために。あの人たちが朝夕に仕事を退いて集い、執政の善し悪しを議する。善しとするところは私が行い、悪しとするところは私が改める。私の師だ。どうして毀とう。忠と善によって怨みを減らすとは聞くが、威を振るって怨みを防ぐとは聞かぬ。すぐに止めることはできようが、川を塞ぐようなものだ。大きく決壊すれば傷つく人が必ず多く、私は救えぬ。小さく決して流れを導くに如かず、私が聞いて薬とするに如かぬ」。
  • 然明は「蔑は今から後、あなたがまことに仕えるに足る方と分かりました。小人はまことに不才です。もし本当にこうされるなら、鄭国こそこれに頼りましょう。二三の臣だけのことではありません」と言った。仲尼はこの話を聞いて「これから見れば、人が子産を不仁というのを、私は信じない」と言った。
  • 子皮が尹何に邑を治めさせようとした。子産は「若くて可否が分かりません」と言った。子皮は「実直な男だ。私は彼を愛しており、彼は私に叛かぬ。行かせて学ばせれば、治めることをいっそう知るだろう」と言った。
  • 子産は言った。「なりません。人が人を愛するのは利を求めるためです。いまあなたは人を愛するのに政をもってされる。まだ刀を握れぬ者に切らせるようなもの、傷はまことに多い。あなたが人を愛して傷つけるだけなら、誰があえてあなたに愛されることを求めましょう。あなたは鄭国の棟です。棟が折れれば垂木が崩れ、僑も下敷きになる。あえて言い尽くさずにおれましょうか。あなたに美しい錦があれば人に裁ち方を習わせはしますまい。大官・大邑は身を庇うものなのに、学ぶ者に裁たせる。美しい錦よりずっと大切ではありませんか。僑は、学んでから政に入ると聞いており、政をもって学ぶとは聞きません。もし本当にこうされれば必ず害があります。たとえば狩猟で、射と御に慣れていれば獲物を得られるが、まだ車に乗ったことがなければ、失敗し転覆することを懼れるばかりで、獲物を思う暇などありません」。
  • 子皮は言った。「よいかな。虎は不敏であった。私は聞いている、君子は大きく遠いものを知ろうと務め、小人は小さく近いものを知ろうと務めると。私は小人だ。衣服は我が身につくもので、私は知って慎む。大官・大邑は身を庇うものなのに、私は遠ざけ疎かにしていた。あなたの言葉がなければ分からなかった。かつて私は『あなたが鄭国をなさり、私は我が家をなして庇えばよい』と言った。今から後、それでは足りぬと分かった。今からは、我が家のことでもあなたに聴いて行うことを請う」。
  • 子産は「人の心の同じでないのは、その顔のようなものです。私がどうしてあなたの顔が私の顔と同じだと言えましょう。ただ心に危ういと思うことは、やはり告げるのです」と言った。子皮はこれを忠と考え、それゆえ政を委ねた。子産はこれによって鄭国を治めることができた。

昭公元年(前541年)

  • 楚の公子圍が鄭に聘問し、あわせて公孫段氏から妻を娶ろうとした。伍舉が副使であった。館に入ろうとしたが鄭人は嫌がり、行人子羽に話をさせ、そこで城外に泊まった。
  • 聘が済んで、多くの兵を伴って女を迎えようとした。子産は患えて、子羽に断らせた。「敝邑は狭小で、お供を容れるに足りません。墠を設けて命を承ることを請う」。令尹は大宰伯州犂に答えさせた。「君は辱くも寡大夫の圍に賜り、圍に豐氏をその室として撫させると仰せられた。圍は几筵を並べ、莊王・共王の廟に告げて参った。もし野で賜れば、君の賜物を草莽に委ねることになる。寡大夫は諸卿の列に加われなくなる。それだけでなく、圍にその先君を欺かせることになり、寡君の家老たり得なくなる。復命のしようがない。大夫よ図られよ」。
  • 子羽は言った。「小国に罪はない。頼みとすることこそがその罪となる。大国が自らを安んじてくれることを頼みにしていたが、禍心を包み隠して小国を図るのではないか。頼みを失って諸侯を懲らしめ、恨まぬ者のないようにし、君命に背いて塞がって行われぬ、それを懼れるのです。そうでなければ、敝邑は館の番人のようなもの。どうして豐氏の廟を惜しみましょう」。
  • 伍舉はこちらに備えがあることを察し、弓袋を垂れて(弓を収めて)入ることを請うた。許した。正月乙未、入って迎えて出た。
  • 鄭の徐吾犯の妹が美しかった。公孫楚がすでに婚約していたのに、公孫黑がまた強いて雁の贈り物を届けた。犯は懼れて子産に告げた。子産は「これは国に政がないのだ。あなたの患いではない。望むほうに与えよ」と言った。犯は二人に請い、女に択ばせることを請うた。二人とも承知した。
  • 子晳(公孫黑)は着飾って入り、幣を並べて出た。子南(公孫楚)は戎服で入り、左右に矢を射て、跳ねるように車に乗って出た。女は房から見て「子晳はまことに美しい。しかし子南は男らしい。男が男らしく女が女らしいのが、いわゆる順である」と言い、子南氏へ嫁いだ。
  • 子晳は怒り、やがて鎧を隠して子南に会い、殺してその妻を取ろうとした。子南は察して戈を執って追い、辻で戈で撃った。子晳は傷ついて帰り、大夫に「私は好意で会いに行った。彼に別心があるとは知らなかった。それで傷ついた」と告げた。大夫はみなこれを議した。
  • 子産は「非の程度は同じだが、年少で身分が低いほうが罪となる。罪は楚(子南)にある」と言い、そこで子南を捕らえて数え立てた。「国の大節は五つある。お前はみな犯した。君の威を畏れ、その政を聴き、その貴きを尊び、その長に仕え、その親を養う。この五つが国をなす所以である。いま君が国におられるのにお前は兵を用いた。威を畏れぬのだ。国の紀を犯した。政を聴かぬのだ。子晳は上大夫、お前は嬖大夫でありながら下につかぬ。貴きを尊ばぬのだ。年少でありながら憚らぬ。長に仕えぬのだ。その従兄に兵を向けた。親を養わぬのだ。君は『余はお前を殺すに忍びぬ。宥して遠ざける』と言われる。速やかに行け。お前の罪を重ねるな」。
  • 五月庚辰、鄭は游楚(子南)を呉へ放った。子南を行かせようとするとき、子産は太叔に相談した。太叔は「吉は我が身すら支えられぬ。どうして宗族を支えられよう。あれは国政であって私的な難ではない。あなたは鄭国を図って利あれば行われよ。何を疑われるか。周公は管叔を殺し蔡叔を追放した。どうして王室を愛さなかったといえよう。ゆえのあることだ。吉がもし罪を得れば、あなたはそれを行われよ。游氏の者に何の遠慮がいりましょう」と言った。
  • 鄭は游楚の乱のゆえに、六月丁巳、鄭伯とその大夫が公孫段氏の家で盟った。罕虎・公孫僑・公孫段・印段・游吉・駟帶が閨門の外でひそかに盟った。実は薫隧である。公孫黑が強いて盟に加わり、太史にその名を書かせ、「七子」と言わせた。子産は討たなかった。

昭公二年(前540年)

  • 秋、鄭の公孫黑が乱を起こそうとし、游氏を除いてその位に代わろうとしたが、傷の病が起こって果たせなかった。駟氏と諸大夫が殺そうとした。子産は辺地にいてこれを聞き、間に合わぬことを懼れ、早馬に乗って至り、吏に数え立てさせた。
  • 「伯有の乱は大国との事があってお前を討たなかった。お前は乱心があって飽くことを知らず、国はお前に堪えられぬ。専らに伯有を討ったのが罪の一つ。兄弟で室を争ったのが罪の二つ。薫隧の盟でお前が君の位を偽ったのが罪の三つ。死罪が三つある。どうして堪えられよう。速やかに死なねば大刑が至る」。
  • 再拝稽首して「死は朝夕に迫っています。天を助けて虐をなさらぬよう」と言った。子産は「人は誰でも死ぬ。凶なる人は真っ当な死を得られぬのが定めだ。凶事をなして凶人となる。天を助けぬなら、凶人を助けるのか」と言った。「印を褚師にしてくださることを請う」と言うと、子産は「印に才があれば君が任ぜられよう。才がなければ朝夕にお前に従うことになる。自分の罪を憂えずに、なお何を請うのか。速やかに死なねば司寇が至る」と言った。七月壬寅、縊れた。屍を周氏の辻に晒し、木の札を添えた。

昭公四年(前538年)

  • 鄭の子産が丘賦を作った。国人は謗って「その父は路上で死に、自分は蠆の尾となって国に令する。国はどうなるのか」と言った。子寛が告げると、子産は「何の害があろう。まことに社稷を利するなら死生をもってする。しかも私は聞いている、善を行う者はその法度を改めぬ、だから成し遂げられると。民の思うままにはできず、法度は改められぬ。詩に『礼義に愆らずんば、何ぞ人の言を恤えん』とある。私は動かぬ」と言った。
  • 渾罕は言った。「國氏が先に滅びるだろうか。君子は薄いところに法を作ってもその弊は貪りに向かう。貪るところに法を作れば、その弊はどうなるか。姫姓で列に在る者では、蔡と曹と滕が先に滅びるだろうか。逼られていて礼がない。鄭は衞より先に滅びるだろうか。逼られていて法がない。政が法に率わず心のままに制すれば、民もそれぞれ心を持つ。何の上下があろう」。

昭公五年(前537年)

  • 鄭の罕虎が齊へ行き、子尾氏から妻を娶った。晏子がしばしば会いに来た。陳桓子がその理由を問うと、「善き人を用いられる。民の主である」と答えた。

昭公六年(前536年)

  • 三月、鄭人が刑書を鋳た。叔向は子産に書を届けさせた。
  • 「はじめ私はあなたに期するところがあったが、いまはもう終わりだ。昔、先王は事を議して裁き、刑の条文を作らなかった。民に争う心が生ずるのを懼れたのだ。それでもなお禁じきれぬ。それゆえ義でこれを閑い、政でこれを糺し、礼でこれを行い、信でこれを守り、仁でこれを奉じ、禄位を定めてその従うのを勧め、刑罰を厳しく断じてその淫らを威した。それでも足りぬことを懼れ、忠で誨え、行いで励まし、務めを教え、和をもって使い、敬をもって臨み、強さをもって莅み、剛をもって断じた。そのうえなお聖哲の上、明察の官、忠信の長、慈惠の師を求めた。民はそこではじめて任用でき、禍乱を生じなかった。
  • 民が条文のあることを知れば上を憚らず、みな争う心を持って書に徴を求め、僥倖によって成し遂げようとする。もはや治められぬ。夏に乱政があって禹刑を作り、商に乱政があって湯刑を作り、周に乱政があって九刑を作った。三つの刑法が興ったのはみな末世である。いまあなたは鄭国の相となり、封と溝を作り、謗られる政を立て、三つの刑法を制し、刑書を鋳た。それで民を靖めようとするのは難しいのではないか。
  • 詩に『儀式は文王の徳に刑り、日に四方を靖んず』とあり、また『文王に儀刑して、万邦孚を作す』とある。こうであれば何の条文が要ろう。民が争いの端を知れば、礼を棄てて書に徴を求め、錐や刀の先ほどのことまで争い尽くす。乱れた獄がいよいよ増え、賄賂が並び行われる。あなたの代のうちに鄭は敗れるであろうか。肸は聞いている、国が滅びようとするとき必ず制度が多いと。これをいうのであろう」。
  • 返書に言った。「あなたの言われるとおりです。僑は不才で子孫にまでは及べません。私は今の世を救うのです。命を承れませんが、あえて大きな恵みを忘れましょうか」。
  • 士文伯は「火星が現れれば鄭は火事になるだろうか。火星がまだ出ぬのに火を起こして刑器を鋳、争いの条文を蔵した。火星がこれに象るなら、火事にならずに何としよう」と言った。六月丙戌、鄭に火災があった。

昭公七年(前535年)

  • 鄭の子産が晉に聘問した。晉侯は病んでいた。韓宣子が客を迎えてひそかに言った。「寡君は寝込んで今で三か月、諸々の望祭を並べて行いましたが、加わるばかりで癒えません。いま黄色い熊が寝所の門に入る夢を見られました。どんな厲鬼でしょうか」。
  • 答えて言った。「君の明らかさとあなたが大政に当たられることをもってすれば、どんな厲鬼がありましょう。昔、堯が鯀を羽山に殛し、その神は黄熊と化して羽淵に入った。まさしく夏の郊祀の対象で、三代がこれを祀りました。晉は盟主でありながら、あるいはまだ祀っていないのではありませんか」。韓子が夏の郊祀を行うと、晉侯は快方に向かい、子産に莒の方鼎二つを賜った。
  • 鄭人は伯有のことで互いに驚き、「伯有が来たぞ」と言えばみな走ってどこへ行くか分からなかった。刑書を鋳た年の二月、ある者が伯有が甲を着けて行く夢を見た。「壬子に余は帶を殺す。翌年の壬寅に余はまた段を殺す」と言った。壬子に駟帶が卒し、国人はいっそう懼れた。齊と燕が和した月の壬寅に公孫段が卒し、国人はますます懼れた。
  • その翌月、子産は公孫洩と良止を立ててこれを撫し、そこで収まった。子太叔がその理由を問うと、子産は「鬼は帰る所があれば厲とならぬ。私が帰る所を作ったのだ」と言った。太叔が「公孫洩は何のためか」と問うと、子産は「言い訳のためだ。身に義がないのに言い訳を図るのは、政に当たる者が時にそうして人心を取るのだ。人心を得なければ信じられず、信じられなければ民は従わぬ」と言った。
  • 子産が晉へ行ったとき、趙景子が問うた。「伯有はやはり鬼となれるのか」。子産は言った。「なれる。人が生まれてはじめて化するのを魄といい、魄が生じてからその陽なるものを魂という。用いる物の精なるものが多ければ魂魄は強く、それゆえ精爽があって神明に至る。匹夫匹婦でも横死すれば、その魂魄はなお人に憑いて淫らな厲となる。まして良霄は我が先君穆公の裔で、子良の孫、子耳の子、敝邑の卿として三代政に当たった。鄭は豊かでないとはいえ、諺に『小さな国でありながら三代その政柄を執る』という。その用いた物は多く、その取った精は多い。その族はまた大きく、憑るところは厚い。それが横死したのだから、鬼となれるのも当然ではないか」。
  • 子皮の一族は酒を飲むのに度がなかった。それゆえ馬師氏と子皮氏は仲が悪かった。齊の師が燕から帰った月に、罕朔が罕魋を殺した。罕朔は晉へ亡命した。韓宣子がその位を子産に問うた。
  • 子産は言った。「君の羈旅の臣です。まことに容れられて死を逃れられればよいので、どうして位を択べましょう。卿が国を離れれば大夫の位に従い、罪人はその罪によって降るのが古の制です。朔は敝邑では亜大夫、その官は馬師でした。罪を得て逃げたのです。ただ執政の置かれるところ、その死を免れられれば恵みは大きい。そのうえ位を求めましょうか」。宣子は子産の敏さのゆえに、嬖大夫の列に従わせた。

昭公十年(前532年)

  • 秋七月戊子、晉の平公が卒した。九月、叔孫婼・齊の國弱・宋の華定・衞の北宮喜・鄭の罕虎・許人・曹人・莒人・邾人・滕人・薛人・杞人・小邾人が晉へ行った。平公を葬るためである。
  • 鄭の子皮が幣を持って行こうとした。子産は「喪に幣を何に用いる。幣を用いれば必ず百両、百両なら必ず千人、千人が至れば行き渡らず、行き渡らねば必ず使い尽くす。何千人にもなって国が亡びぬはずがない」と言った。
  • 葬が済むと、諸侯の大夫は機会に新君に会おうとしたが叔向が断った。子皮はその幣をことごとく使ってしまった。帰って子羽に言った。「知ることが難しいのではない、行うことにある。あの方は知っておられた。私は足りぬ。書に『欲は度を敗り、縦は礼を敗る』とあるのは私のことだ。あの方は度と礼を知っておられた。私はまことに欲を縦にして自ら克てなかった」。

昭公十二年(前530年)

  • 三月、鄭の簡公が卒した。葬送の道を開こうとして、游氏の廟にかかり、毀とうとした。子太叔は道を開く人夫に道具を持たせて立たせるだけで毀たせず、「子産がお前たちのところを通って問うたら、なぜ毀たぬのかと言われよう。そこで『廟を毀つに忍びません』と言え。『承知した、毀とう』と言われる。そうしたら毀て」と言った。子産はそこで避けさせた。
  • 墓を司る者の家で道にかかるものがあった。毀てば朝のうちに埋葬でき、毀たねば正午になる。子太叔が毀つことを請うて「諸侯の賓客をどうするのか」と言った。子産は「諸侯の賓客が我らの喪に会しに来られるのに、どうして正午を憚ろう。賓客に損はなく民に害もない。なぜそうしないのか」と言い、そのまま毀たず、正午に葬った。君子は「子産はここにおいて礼を知っていた」という。礼は人を毀って自らを成すことをしない。
  • 六月、鄭の簡公を葬った。

昭公十三年(前529年)

  • 晉が諸侯を平丘に合わせた。子産と太叔が鄭伯の相となって会に赴いた。子産は幄幕九張を持って行き、子太叔は四十を持って行ったが、やがて悔い、宿るごとに減らした。会に至るころには子産と同じにした。
  • 盟のとき、子産は貢納の等級を争って「鄭伯は男爵です。諸侯の貢に従っては、賄いきれぬことを懼れます」と言った。正午から争って日暮れに及び、晉人は許した。
  • 子産が帰ってまだ着かぬうちに子皮が卒したと聞いた。哭して「私はもう善をなす相手がいなくなった。ただあの方だけが私を知っていた」と言った。
  • 仲尼は、子産はこの行いによって国の基となるに足りるといい、「詩に『楽しきかな君子、邦家の基』とある。子産は君子の楽しみを求める者である」と言い、あわせて「諸侯を合わせて貢の事を定めるのは礼である」と言った。

昭公十六年(前526年)

  • 三月、晉の韓起が鄭に聘問した。鄭伯が饗した。子産は「まことに朝に位ある者は、恭み慎まぬことのないように」と戒めた。孔張が遅れて来て、客の間に立った。執政の者が制して客のほうへ行かせ、後にまた制して楽器を掛けた間へ行かせた。客はそれを見て笑った。
  • 事が終わって富子が諫めた。「そもそも大国の人には慎まねばなりません。あわや笑い者にされながら我らを凌がぬのは、我らにみな礼があるからです。それでもなお我が国を鄙しんで無礼だとされたら、何をもって栄えを求めましょう。孔張が位を失ったのはあなたの恥です」。
  • 子産は怒って言った。「命を発して当たらず、令を出して信がなく、刑が偏り、獄が乱れ、会朝に敬まず、使命が聴かれず、大国に凌がれ、民を疲れさせて功なく、罪が及んでも気づかぬ。これが僑の恥だ。孔張は君の昆孫、子孔の後、執政の嗣である。嗣大夫として命を承けて使いし、諸侯を遍く回り、国人の尊ぶところ、諸侯の知るところである。朝に立ち家で祀り、国に禄があり、軍に賦があり、喪祭に職があり、脤を受け脤を帰し、その祭は廟にある。すでに定まった位があり、その位にあること数代、代々その業を守っていて、その場所を忘れた。僑がどうしてこれを恥じよう。邪な人のこともみな執政に及ぶというなら、先王に刑罰がないことになる。あなたは他のことで私を諫めよ」。
  • 宣子(韓起)に玉の環があり、その片方が鄭の商人のもとにあった。宣子は鄭伯に願い出た。子産は与えず、「官府の守る器ではありません。寡君は存じません」と言った。
  • 子太叔と子羽が子産に言った。「韓子もそう多くを求めるわけではない。晉国にも二心を抱けぬ。晉国と韓子を疎かにはできぬ。もし讒言する者があって間で挑み、鬼神がそれを助けてその凶暴な怒りを興せば、悔いても及ばぬ。あなたは一つの環を惜しんで、大国に憎まれることもありますまい。求めて与えられてはどうか」。
  • 子産は言った。「私は晉を疎かにして二心を抱くのではない。終始これに仕えるつもりだからこそ与えぬのだ。忠信のゆえである。僑は聞いている、君子は財のないことを難とせず、立って令名のないことを患えると。僑は聞いている、国を治めるには大に仕え小を慈しむことができぬのが難ではなく、礼をもってその位を定められぬことが患いだと。そもそも大国の人が小国に令してみな求めを得るなら、何をもって応じよう。一度応じて一度応じなければ、罪はいっそう大きい。大国の求めを礼をもって斥けなければ、どこに満足があろう。我が国は鄙邑となり、位を失う。
  • もし韓子が命を奉じて使いしながら玉を求めるなら、貪り淫らなること甚だしい。それこそ罪ではないか。一つの玉を出して二つの罪を起こし、我らはまた位を失い、韓子は貪りを成す。何に用いよう。しかも私が玉で罪を買うのは、あまりに軽率ではないか」。
  • 韓子は商人から買い、値も決まった。商人は「必ず君と大夫に告げてください」と言った。韓子は子産に願い出た。「先ごろ起はあの環を請うたが、執政は義でないとされ、あえて重ねて申しませんでした。いま商人から買い、商人が必ずお聞かせせよと申します。あえてお願いします」。
  • 子産は言った。「昔、我が先君の桓公は商人とともに周から出て、力を合わせ肩を並べてこの地を切り開き、蓬蒿や藜藋を斬って共に住みました。代々盟誓があって互いに信としました。『お前は我らに叛くな、我らはお前に強いて買わず、乞い奪うこともせぬ。お前に利のある市や宝や財があっても、我らは与り知らぬ』と。この誓いを頼みとして互いに保ち、今日に至りました。
  • いまあなたが好誼をもって辱く来られて、敝邑に商人から強奪せよと言われるのは、敝邑に盟誓に背けと教えることです。いけないのではありませんか。あなたが玉を得て諸侯を失われるのは、必ずされぬことでしょう。もし大国が令して供出に際限がなければ、鄭は鄙邑となる。それもいたしません。僑がもし玉を献じたら、何が成るのか分かりません。あえてひそかに申し上げます」。
  • 韓子は玉を辞退して「起は不敏であった。あえて玉を求めて二つの罪を招くところだった。あえて辞退する」と言った。
  • 夏四月、鄭の六卿が郊で宣子を送別した。宣子は「諸君、みな賦されることを請う。起もそれで鄭の志を知りたい」と言った。
  • 子齹が野有蔓草を賦した。宣子は「若い方よ、よいかな。私は望みがある」と言った。子産が鄭の羔裘を賦した。宣子は「起はそれに堪えません」と言った。子太叔が褰裳を賦した。宣子は「起がここにおります。あえてあなたを煩わせて他人にまで及びましょうか」と言った。子太叔が拝すると、宣子は「よいかな、あなたの言葉は。これがなければ、事は全うできましょうか」と言った。子游が風雨を、子旗が有女同車を、子柳が籜兮を賦した。
  • 宣子は喜んで言った。「鄭は望みがあろう。諸君が君命によって起に賜り、賦は鄭の志を出ず、みな親しみ和らぐ好誼である。諸君は数代続く主である。懼れることはあるまい」。宣子はみなに馬を献じ、我將を賦した。子産が拝し、五卿にもみな拝させて「あなたが乱を靖められた。どうして徳に拝せずにおれましょう」と言った。宣子はひそかに子産に会い、玉と馬を与えて「あなたが起にあの玉を措けと命じられた。これは私に玉を賜り、私の死を免れさせたのだ。どうして手土産をもって拝せずにおれよう」と言った。
  • 鄭が大旱となった。屠撃・祝款・豎柎に桑山で祭事を行わせたが、その木を伐った。雨は降らなかった。子産は「山で祭事を行うのは山林を養うことなのに、その木を伐った。その罪は大きい」と言い、官と邑を奪った。

昭公十七年(前525年)

  • 冬、彗星が大辰に現れ、西は銀河に及んだ。申須は「彗は旧を除いて新を布くものだ。天の事は常に象を示す。いま火(大火星)のところで除いたのだから、火が出れば必ず布かれよう。諸侯に火災があろうか」と言った。
  • 梓慎は言った。「先年、私はこれを見た。その徴だ。火が出て見え、今年は火が出て顕らかになり、必ず火が入って伏す。火のところに居ることが久しい。そうでないことがあろうか。火の出は夏では三月、商では四月、周では五月に当たる。夏の暦が天に合う。もし火事が起これば、その四国が当たるだろう。宋・衞・陳・鄭ではないか。宋は大辰の墟、陳は大皥の墟、鄭は祝融の墟で、みな火の宿である。彗星が銀河に及んだ。銀河は水の兆しである。衞は顓頊の墟で、それゆえ帝丘といい、その星は大水である。水は火の牡である。丙子か壬午に起こるだろうか。水と火が合わさるからだ。もし火が入って伏すなら必ず壬午、それが見えた月を過ぎまい」。
  • 鄭の裨竈が子産に言った。「宋・衞・陳・鄭は同じ日に火事になろう。もし私に瓘の斚と玉の瓉を用いさせてくれれば、鄭は必ず火事にならぬ」。子産は与えなかった。

昭公十八年(前524年)

  • 夏五月、火星が夕方に見え始めた。丙子、風が吹いた。梓慎は「これを融風という。火の始まりだ。七日で火事が起ころうか」と言った。戊寅、風が強くなり、壬午に甚だしくなった。宋・衞・陳・鄭がみな火事になった。梓慎は大庭氏の倉庫に登って望み、「宋・衞・陳・鄭だ」と言った。数日してみな火事を告げに来た。
  • 裨竈は「私の言を用いなかった。鄭はまた火事になろう」と言った。鄭人は用いることを請うたが、子産は承知しなかった。子太叔は「宝は民を保つためのものです。もし火事があれば国はほとんど滅びる。滅亡を救えるのに、あなたはなぜ惜しまれるのか」と言った。子産は「天道は遠く人道は近い。及ぶところではない。どうして知れよう。竈がどうして天道を知ろう。あれは多弁なだけだ。時に当たることもあろうさ」と言い、ついに与えなかった。やはり再び火事にはならなかった。
  • 鄭がまだ災に遭う前、里析が子産に告げた。「大きな異変がありましょう。民は震え動き、国はほとんど滅び、私の身は失せてそこまで及べません。国を遷してはどうか」。子産は「できたとしても、私には遷都を決める力がありません」と言った。火事のとき里析は死んでまだ葬られていなかった。子産は輿夫三十人にその柩を遷させた。
  • 火が起こると、子産は晉の公子・公孫を東門で辞し、司寇に新しい客を出させ、古くからの客が宮から出るのを禁じ、子寛と子上に諸々の屏や神主を大宮まで巡回させ、公孫登に大亀を移させ、祝史に神主の石室を周廟へ移させ、先君に告げさせ、府人と庫人にそれぞれの務めを警戒させ、商成公に司宮を警めさせて古参の宮人を出し火の及ばぬところに置き、司馬と司寇に火の道筋に並び居させ、火の焼く方向へ行かせ、城下の人を伍に並べて城に登らせた。
  • 翌日、野の司寇にそれぞれ徴された人夫を守らせ、郊の人に祝史を助けて国の北で祓いをさせ、玄冥と回禄に火を禳い、四方の城壁で祈らせた。焼けた家を記録してその税を軽くし、材木を与えた。三日哭し、国では市を開かなかった。行人に諸侯へ告げさせた。宋と衞もみな同じようにした。陳は火を救わず、許は災を弔わなかった。君子はこれによって陳と許が先に滅びることを知った。
  • 七月、鄭の子産は火事のゆえに、社を大いに設けて四方に祓い禳い、火災を振り除いた。礼にかなう。
  • そこで兵を選んで大蒐を行った。蒐のために道を開こうとした。子太叔の廟は道の南、その寝は道の北にあり、その庭は狭かった。期日を三日過ぎて、道を開く人夫を道の南、廟の北に並べさせ、「子産がお前たちを通り過ぎて速やかに開けと命じたら、お前たちのほうを毀て」と言った。子産が朝に通りかかって怒ると、開く者は南を毀った。子産が辻に至って従者に止めさせ、「北のほうを毀て」と言った。
  • 火事が起こったとき、子産は兵を授けて城壁に登らせた。子太叔は「晉が討ちに来はしませんか」と言った。子産は「私は聞いている、小国が守りを忘れれば危うい、まして災があればなおさらだ。国が軽んじられずにいられるのは備えがあるからだ」と言った。
  • やがて晉の辺境の吏が鄭を咎めて言った。「鄭国に災があり、晉の君と大夫はあえて安んじて居らず、卜筮を行い望祭に走り、犠牲や玉を惜しまなかった。鄭に災があるのは寡君の憂いです。いま執事は□然(底本欠字)として兵を授け城壁に登らせている。誰を罪しようとされるのか。辺人は恐懼して、あえて告げずにおれません」。
  • 子産は答えた。「あなたの言われるとおり、敝邑の災は君の憂いです。敝邑は政を失って天が災を降した。そのうえ讒佞の者が隙をついて図り、貪る者を誘い、重ねて敝邑に不利をなして君の憂いを重くすることを懼れます。幸いに滅びなければ、なお言い訳もできましょう。不幸にして滅びれば、君が憂われても及びません。鄭には他に国境があり、望みは晉へ走ります。すでに晉に仕えております。どうしてあえて二心を抱きましょう」。

昭公十九年(前523年)

  • この年、鄭の駟偃が卒した。子游(駟偃)は晉の大夫から妻を娶って絲を生んだ。まだ幼かったので、その父兄が子瑕(駟乞)を立てた。子産はその人となりを憎み、しかも順序に外れると考えたが、許しもせず止めもしなかった。駟氏は懼れた。後日、絲はこれを母方の伯父に告げた。
  • 冬、晉人が幣を持たせて鄭へ遣わし、駟乞を立てた理由を問わせた。駟氏は懼れ、駟乞は逃げようとしたが、子産は遣らず、亀甲を請うて卜そうとしても与えなかった。大夫が答えを謀ったが、子産は待たずに客に答えた。
  • 「鄭国は天に恵まれず、寡君の二三の臣は病んだり早世したりし、いままた我が先大夫の偃を喪いました。その子は幼弱です。その一二の父兄は宗主が墜ちることを懼れ、私に一族で謀って年長で近しい者を立てました。寡君とその二三の老臣は『天がまことにこれを乱すのだ。我らが何を知ろう』と申しております。諺に『乱れた家の門前を過ぎるな』とある。民に兵乱があれば、通り過ぎることすら憚る。まして天が乱すところをあえて知ろうとしましょうか。
  • いま大夫がその理由を問われるが、寡君はまことにあえて知りません。誰がまことに知りましょう。平丘の会で君は旧盟を尋ねて『職を失うことなかれ』と申されました。もし寡君の二三の臣で世を去った者について、晉の大夫がその位を専断されるなら、これは晉の県や鄙です。何の国でありましょう」。
  • 客の幣を辞退してその使者に返礼した。晉人は捨て置いた。
  • 鄭に大水があり、龍が時門の外の洧淵で闘った。国人は禜祭を行うことを請うた。子産は許さず、「我らが闘えば龍は我らを見に来ぬ。龍が闘っても、我らだけがなぜ見るのか。禳ってやれば、そこは彼らの住処だ。我らは龍に求めるものがなく、龍もまた我らに求めるものがない」と言い、そこでやめた。

昭公二十年(前522年)

  • 鄭の子産が病んだ。子太叔に「私が死んだら、あなたが必ず政を執る。ただ徳ある者だけが寛でよく民を服させられる。その次は猛に如くはない。そもそも火は烈しく、民は見て畏れる。だから火で死ぬ者は少ない。水は懦弱で、民は狎れて弄ぶ。だから溺れ死ぬ者が多い。それゆえ寛は難しい」と言った。病んで数か月で卒した。
  • 太叔が政を執り、猛にするに忍びず寛にした。鄭国に盗が多くなり、萑苻の沢に集まって人を襲った。太叔は悔いて「私が早くあの方に従っていれば、ここまでにならなかった」と言い、歩兵を起こして萑苻の盗を攻め、ことごとく殺した。盗は少し収まった。
  • 仲尼は言った。「よいかな。政が寛であれば民は慢り、慢れば猛でこれを糺す。猛であれば民は損なわれ、損なわれれば寛を施す。寛で猛を済い、猛で寛を済う。政はそれで和する。詩に『民もまた労す、ほぼ小しく康んずべし。この中国を恵み、もって四方を綏んず』とあるのは寛を施すことであり、『詭随に従うなかれ、もって無良を謹め。冦虐を式遏せよ、慘として明を畏れず』とあるのは猛で糺すことであり、『遠きを柔らげ邇きを能くし、もって我が王を定む』とあるのは和で平らげることである。また『競わず絿らず、剛からず柔からず、政を布くこと優優、百禄これ遒まる』とあるのは和の至りである」。
  • 子産が卒すると、仲尼はこれを聞いて涙を流し、「古の遺愛である」と言った。

昭公二十五年(前517年)

  • 黄父で会し、王室のことを謀った。子太叔が趙簡子に会った。簡子は揖譲・周旋の礼を問うた。答えて「それは儀であって礼ではありません」と言った。簡子が「あえて伺うが、何を礼というのか」と言うと、こう答えた。
  • 「吉は先大夫の子産にこう聞いております。そもそも礼は天の経であり、地の義であり、民の行いである。天地の経を民がまことに則る。天の明に則り、地の性に因り、その六気を生じ、その五行を用いる。気は五味となり、発しては五色となり、章れては五声となる。淫らになれば昏乱して民はその性を失う。
  • それゆえ礼を作ってこれを奉じる。六畜・五牲・三犠を設けて五味に奉じ、九文・六采・五章を設けて五色に奉じ、九歌・八風・七音・六律を設けて五声に奉じる。君臣上下を設けて地の義に則り、夫婦の外内を設けて二物を経め、父子・兄弟・姑姉・甥舅・昏媾・姻亞を設けて天の明に象り、政事・庸力・行務を設けて四時に従い、刑罰・威獄を設けて民を畏れ憚らせ、その震え輝き殺戮するさまに類し、温慈惠和を設けて天の生殖長育に倣う。
  • 民には好悪・喜怒・哀楽があり、六気から生ずる。それゆえよく則り類を宜しくして六つの志を制する。哀には哭泣があり、楽には歌舞があり、喜には施し与えることがあり、怒には戦闘がある。喜は好むことから生じ、怒は悪むことから生ずる。それゆえ行いを審らかにし令を信とし、禍福・賞罰をもって死生を制する。生は好む物であり、死は悪む物である。好む物は楽しみであり、悪む物は哀しみである。哀楽が節を失わなければ天地の性に協い、それゆえ長久である」。
  • 簡子が「甚だしいものだ、礼の大きさは」と言うと、答えて「礼は上下の紀、天地の経緯、民の生きる所以です。それゆえ先王はこれを尚びました。だから人が自らを曲げ直して礼に赴けるのを成人といいます。大きいというのも当然ではありませんか」と言った。簡子は「鞅は生涯この言葉を守ることを請う」と言った。

定公四年(前506年)

  • 召陵から帰り、鄭の子太叔がまだ着かぬうちに卒した。晉の趙簡子はそのために臨んで甚だ哀しみ、こう言った。「黄父の会であの方は私に九つの言葉を語られた。乱を始めるな、富を頼むな、寵を恃むな、同を違えるな、礼に傲るな、能に驕るな、怒りを繰り返すな、徳でないことを謀るな、義でないことを犯すな」。

定公八年(前502年)

  • 鄭の駟歂が子太叔を嗣いで政を執った。

定公九年(前501年)

  • 鄭の駟歂が鄧析を殺して、その竹刑を用いた。君子は子然(駟歂)がここにおいて忠でないという。まことに国家に加えるべきものがあるなら、その邪を棄てて用いてよい。静女の三章は彤管を取り、竿旄は「何をもってこれに告げん」といってその忠を取る。だからその道を用いてその人を棄てぬ。詩に「蔽芾たる甘棠、翦るなかれ伐るなかれ、召伯の茇りし所」とある。その人を思ってなおその樹を愛しむ。まして道を用いながらその人を憐れまぬとは。子然は能ある者を勧める術がない。

哀公五年(前490年)

  • 鄭の駟秦は富んで奢り、嬖大夫でありながら常に卿の車服をその庭に並べた。鄭人は憎んで殺した。子思は言った。「詩に『位に解らず、民の塈んずる攸』とある。その位を守らずして長続きした者は稀である。商頌に『僭らず濫らず、あえて怠り皇らず、命じて福を多くす』とある」。

史論(士竒)

  • 鄭という国は族が大きく寵臣が多く、風俗は淫らで奢り、そのうえ晉と楚の間に介まれて国境は日々騒がしく、民の暮らしは窮していた。容易には治められぬところである。だが子産が鄭の相となってからは、大いに見るべきものがあった。
  • 子國と子耳が蔡を侵して公子燮を捕らえ、国人がみな喜んだとき、子産はまだ童子でありながら晉と楚の兵争の禍を慮った。すでに非凡である。
  • 西宮の乱では、諸役人を整え府庫を閉じてから兵を出した。倉卒の中に完成した図を備えていた。子孔の盟書の誤りには、力を尽くして焼くことを請い、動揺した者を自ら安んじさせた。
  • 子晳と子南が室を争い、子南が戈で子晳を撃つと、その五つの犯しを数え立て、法を貫いて少しも宥さなかった。子晳が游氏を除いてその位に代わろうとして乱を起こそうとしたときは、吏に厳しく責めさせ、屍を辻に晒して木札を添えた。刑政は粛然としている。
  • その民を治めるには恵愛の心がありながら猛をもって済った。水の懦弱、火の烈しさのたとえは、まさしく乱国には重典を用いるという意ではないか。
  • その他、刑書を鋳、三つの刑法を制し、謗られる政を立て、溝洫を作った。行って一年で子どもは戯れず、白髪の者は荷を提げず、二年で市に掛値がなく、三年で門は夜も閉ざさず道に落ちたものを拾わず、四年で農具を持ち帰らず、五年で士に尺籍がなく、喪の期日は令せずとも治まった。
  • 妖しく偽り欺く風習で、民の耳目を惑わし教令を阻むものは、ことごとく退けた。伯有の厲を絶とうとしてその祀を立てて安んじ、龍が洧淵で闘ったときは放って問わず、裨竈が火を禳うことを請うたときは終始、天道と人道を挙げて退けた。この卓識と遠見は、同輩の及ぶところであろうか。
  • 言葉を馳せ礼を執って晉と楚の鋒に当たったことでは、朝を求められては年ごとの勤めを歴々と述べ、幣が重ければ宣子への書に託し、戦勝を献ずれば士莊伯が言い返せず、館の垣を壊せば叔向がその言葉を嘆じ、女を迎える一行を拒めば楚人は弓を収めて入り、玉環の求めを拒んでは飽くことなき求めを塞ぎ、城壁に登った件の答弁では罪を問う端緒を鎮め、駟乞を立てたことを問われては県や鄙となる懼れを語った。
  • そのうえ多聞博物であって四方の諸侯を動かし、外交の場に輝いた。それゆえ外は牧圉を扞ぎ、内は民と社を庇い、遺した愛の及ぶところ、没しても親戚を喪ったように悲しまれた。子産はまことに賢相ではないか。
  • とはいえ罕虎(子皮)がなければ子産の賢は顕れず、子太叔がなければ子産の賢はまた伝わらなかった。君子が人を引き立てることを重んじるゆえんである。