左傳紀事本末宋の公族の興廃(魚石・樂大心・華氏向氏・桓氏の乱、子罕の賢を付す)(宋公族廢興(魚石之亂地子罕之賢魋華向之亂/樂大心辰 之亂 桓 之亂 大))

宋の公族——桓氏・戴氏・皇氏——が相次いで乱を起こし、また廃れ興る様を、成公十五年(前576年)から哀公二十六年(前469年)まで集めた篇。蕩澤が公室を弱めたことに始まる魚石の乱、華弱と樂轡を等しく追放し玉を受けず飢えに粟を貸した子罕の賢、華亥・向寧が公子を人質とした華氏・向氏の乱を順に載せる。さらに樂大心と公弟辰・公子地の乱、桓魋が公を害しようとして曹に叛いた乱、大尹が君命を専らにして得と啓の擁立を争った乱まで及ぶ。六卿三族が互いに害さぬと盟うところで篇を閉じる。

年表(30件)

成公十五年(前576年)

  • 秋八月、宋の共公を葬った。このとき華元が右師、魚石が左師、蕩澤が司馬、華喜が司徒、公孫師が司城、向為人が大司寇、鱗朱が少司寇、向帶が大宰、魚府が少宰であった。
  • 蕩澤が公室を弱めて公子肥を殺した。華元は「私は右師である。君臣の訓えは師の司るところ。いま公室が卑しくなったのに正せぬ。私の罪は大きい。官を治められぬのに、どうして寵に頼れよう」と言い、そこで晉へ亡命した。
  • 二つの華氏は戴公の族、司城は莊公の族、六官はみな桓公の族である。魚石が華元を引き止めようとすると、魚府は「右師が帰れば必ずこれを討ちましょう。桓氏がなくなります」と言った。魚石は「右師がもし帰れれば、討つことを許しても必ずあえてすまい。しかも大功が多く国人が与している。帰らねば桓氏が宋で祀られなくなることを懼れる。右師が討ってもなお守りは残る。桓氏は滅んでも必ず一部は残る」と言った。
  • 魚石が自ら河のほとりで華元を引き止め、討つことを請うと許した。そこで帰り、華喜と公孫師に国人を率いて蕩氏を攻めさせ、子山(蕩澤)を殺した。経に「宋その大夫山を殺す」と書いたのは、その族に背いたことをいう。
  • 魚石・向為人・鱗朱・向帶・魚府が出て睢のほとりに宿った。華元が引き止めさせたが承知しなかった。冬十月、華元が自ら引き止めたが承知せず、そこで引き返した。
  • 魚府は「いま従わねば入れなくなる。右師は視線が速く言葉が急である。異志がある。もし我らを納れぬなら、いまに馬を走らせよう」と言った。丘に登って望むと、馬を馳せていた。従って行くと、睢の堤を切り、門を閉じて城壁に登っていた。
  • 左師・二司寇・二宰はそのまま楚へ亡命した。華元は向戌を左師、老佐を司馬、樂裔を司寇として国人を靖んじた。

成公十八年(前573年)

  • 夏六月、楚の子辛と鄭の皇辰がともに彭城を討ち、宋の魚石・向為人・鱗朱・向帶・魚府を入れ、三百乗で守らせて帰った。経に「復入」と書いた。およそ国を去った者を、国が迎えて立てるのを「入」、その位に復するのを「復歸」、諸侯が入れるのを「歸」、悪をもって入れるのを「復入」という。宋人はこれを患えた。
  • 七月、宋の老佐と華喜が彭城を囲み、老佐が戦死した。
  • 冬十一月、楚の子重が彭城を救って宋を討った。宋の華元が晉へ行って急を告げた。
  • 十二月、孟獻子が虛朾で会し、宋を救うことを謀った。宋人は諸侯の出兵を辞退して彭城を囲む軍を請うた。

襄公元年(前572年)

  • 春己亥、宋の彭城を囲んだ。彭城は宋の地でないが追って書いたのである。ここでは宋のために魚石を討ったので宋と称し、また叛人を認めなかった。これを宋の志という。彭城は晉に降り、晉人は彭城にいた宋の五大夫を連れ帰って瓠丘に置いた。(以上、魚石の乱)

襄公六年(前567年)

  • 宋の華弱と樂轡は幼いころ互いに狎れ、長じて互いに戯れ、また互いに謗り合った。子蕩(樂轡)は怒って弓で華弱を朝廷で手枷にした。平公はこれを見て「司武でありながら朝廷で手枷にされる。勝ち抜くのは難しい」と言い、そのまま追放した。
  • 夏、宋の華弱が魯へ亡命した。司城の子罕は「同じ罪に異なる罰を与えるのは刑ではない。朝廷で専断に戮するのは、これ以上の罪があろうか」と言い、子蕩も追放した。子蕩は子罕の門に矢を射て「幾日で私に従わずにおれようか」と言った。子罕は以前と同じように善く遇した。

襄公九年(前564年)

  • 春、宋に火災があった。樂喜が司城として政を執り、伯氏に司里を務めさせた。火の及ばぬ所では小屋を取り壊し大きな屋には泥を塗り、畚と挶を並べ、綆と缶を用意し、水器を備え、軽重を量り、水を蓄え、土と泥を積み、丈を測って城を巡り、守備を繕い、火道に印を立てた。
  • 華臣に正徒を用意させ、隧正に郊の砦の兵を火の場所へ走らせ、華閲に右の官を統べさせてその司を整えさせ、向戌に左を同様にさせ、樂遄に刑器を整えさせた。皇鄖に校正へ馬を出させ工正へ車を出させ、甲兵を備え武の守りを整えさせ、西鉏吾に府の守りを整えさせ、司宮と巷伯に宮を警めさせ、二師に四郷正へ命じて享祀を敬ませ、祝宗に馬を四方の城壁に用いさせ、盤庚を西門の外で祀らせた。
  • 晉侯が士弱に「私は聞いている、宋に火災があると、そこで天道のあることが知れると。なぜか」と問うた。士弱は「古の火正は心宿に食まれ、あるいは咮宿に食まれて、火を出し入れした。それゆえ咮を鶉火、心を大火という。陶唐氏の火正である閼伯は商丘に居って大火を祀り、火で時を紀した。相土がこれに因ったので、商は大火を主る。商人はその禍敗の兆しを見るのに、必ず火に始まる。それで日々に天道のあることを知るのです」と答えた。公が「必ずそうか」と問うと、「道にあります。国が乱れれば象がなく、知れません」と答えた。

襄公十五年(前558年)

  • 宋人のある者が玉を得て子罕に献じた。子罕は受けなかった。献じた者は「玉人に見せたところ、玉人は宝としました。それゆえあえて献じるのです」と言った。子罕は「私は貪らぬことを宝とし、あなたは玉を宝とする。もし私に与えれば、どちらも宝を失う。人がそれぞれその宝を持つに如くはない」と言った。
  • 稽首して「小人が璧を懐にしては郷を越えられません。これを納れて死を免れることを請います」と告げた。子罕はこれをその里に置き、玉人に磨かせ、富ませてからその所へ帰らせた。

襄公十七年(前556年)

  • 宋の華閲が卒した。華臣は臯比(華閲の子)の家を弱めようとし、賊にその家宰の華呉を殺させた。賊六人が鈹をもって盧門の左師の家の裏で殺した。左師は懼れて「老夫に罪はない」と言った。賊は「臯比が私に呉を討たせたのだ」と言った。そのままその妻を幽閉して「私にお前の大璧を渡せ」と言った。
  • 宋公はこれを聞いて「臣でありながらその宗室にだけ暴を働くのではない。大いに宋国の政を乱している。必ず追放すべきだ」と言った。左師は「彼もまた卿である。大臣が順わぬのは国の恥だ。覆い隠すに如くはない」と言い、そこで放置した。左師は自分のために短い鞭を作り、華臣の門を通るときは必ず馬を走らせた。
  • 十一月甲午、国人が狂犬を追った。狂犬は華臣氏の家に入り、国人が追って入った。華臣は懼れ、そのまま陳へ亡命した。
  • 宋の皇國父が大宰となり、平公のために臺を築いて農事の収穫を妨げた。子罕は農事が終わるまで待つことを請うたが、公は許さなかった。築く者はこう謡った。「澤門の色白(皇國父)がまことに我らの役を起こし、邑中の色黒(子罕)がまことに我らの心を慰める」。
  • 子罕はこれを聞き、自ら鞭を執って築く者の間を回り、努めぬ者を打って「我ら小人はみな雨露をしのぐ家があって乾湿寒暑を避けている。いま君が一つの臺を作られるのに速やかに仕上げぬなら、何の役であろう」と言った。謡う者はやんだ。ある者が理由を問うと、子罕は「宋国は小さいのに呪う者と祝う者がある。禍の本である」と答えた。

襄公二十九年(前544年)

  • 鄭の子展が卒し、子皮が位に即いた。このとき鄭は飢えて麦の実る前で民が苦しんだ。子皮は子展の遺命として国人に粟を贈った。
  • 宋の司城子罕はこれを聞いて「善に隣するのは民の望みである」と言い、宋もまた飢えたので平公に請うて公の粟を出して貸し、大夫にもみな貸させた。司城氏は貸しても帳簿に付けず、大夫で持たぬ者には代わって貸した。宋に飢えた人はいなくなった。
  • 叔向はこれを聞いて「鄭の罕氏、宋の樂氏は最後に滅ぶ家であろう。二つとも国を得るのではないか。民が帰しているからだ。施して徳としない。樂氏はさらに上を行く。宋とともに昇り降りするだろう」と言った。(以上、子罕の賢)

襄公二十六年(前547年)

  • はじめ宋の芮司徒に女子が生まれた。赤くて毛が生えていたので堤の下に棄てた。共姫の妾が拾って入れ、棄と名づけた。長じて美しかった。
  • 平公が夕に入り、共姫がこれと食事をしていた。公は棄を見て見つめた。姫が納れて寵愛され、佐を生んだ。佐は醜いが穏やかであった。太子の痤は美しいが狠かった。左師の合はこれを畏れ憎んだ。寺人の惠牆伊戾が太子の内師となったが寵がなかった。
  • 秋、楚の客が晉を聘問して宋を通った。太子は知り合いだったので野で饗応することを請うた。公は行かせ、伊戾が従うことを請うた。公が「あの者はお前を憎んでいるのではないか」と言うと、「小人が君子に仕えるのに、憎まれてもあえて遠ざからず、好かれてもあえて近づかず、敬んで命を待ちます。どうして二心を抱きましょう。たとえ外を供する者があっても、内を供する者がありません。臣は行くことを請います」と答えた。そこで遣わした。
  • 伊戾は着くと穴を掘って犠牲を用い、盟書を加えて証拠を作り、馬を走らせて公に「太子が乱を起こそうとしております。すでに楚の客と盟いました」と告げた。公が「私の子である。ほかに何を求めよう」と言うと、「速やかにしたいのです」と答えた。公が見させると、まことにその通りであった。夫人と左師に問うと、みな「もとより聞いております」と言った。
  • 公は太子を囚えた。太子は「ただ佐だけが私を免れさせられる」と言い、召して請わせ、「正午までに来なければ、私は死ぬと知る」と言った。左師はこれを聞き、やかましく語りかけて時を過ごさせた。期限を過ぎて太子は縊れて死に、佐が太子となった。公はゆっくりとその無罪を聞き、そこで伊戾を煮殺した。
  • 左師が夫人の馬を歩かせている者に会って問うと、「君夫人氏のものです」と答えた。左師は「誰が君夫人か。私は知らぬ」と言った。圉人が帰って夫人に告げた。夫人は錦と馬を贈らせ、先に玉を届けて「君の妾である棄が某に献じさせます」と言った。左師は言い方を改めて「君夫人」と言わせてから、再拝稽首して受けた。

襄公二十九年(前544年)(齊の高子容)

  • 齊の高子容と宋の司徒が知伯に会った。女齊が礼を執り行い、賓客が退出すると、司馬侯は知伯に「二人はみな免れますまい。子容は専断、司徒は奢り。みな家を滅ぼす主です」と言った。知伯が「どうしてか」と問うと、「専断なら速やかに及び、奢りはその力で斃れる。専断なら人がまことに斃す。やがて及びましょう」と答えた。

昭公六年(前536年)

  • 宋の寺人柳が寵愛され、太子佐は憎んだ。華合比が「私が殺そう」と言った。柳はこれを聞き、そこで穴を掘って犠牲を用い盟書を埋めて公に告げ、「合比は亡命者の一族を入れようとしております。すでに北郭で盟いました」と言った。公が見させると、その通りであった。そのまま華合比を追い、合比は衞へ亡命した。
  • このとき華亥が右師に代わろうとし、寺人柳と結んで従って証人となり、「聞いて久しい」と言った。公は代えさせた。左師に会うと、左師は「お前は男らしいが必ず滅びる。お前は自分の宗室を失った。人に対して何があろう。人もまたお前に対して何があろう。詩に『宗子はこれ城なり。城を壊れしむるなかれ。独りにして畏るるなかれ』とある。お前こそ畏れよ」と言った。

昭公十年(前532年)

  • 冬十二月、宋の平公が卒した。はじめ元公は寺人柳を憎んで殺そうとした。喪に及んで柳は喪の座に炭を熾し、公が来ようとすると片づけた。葬儀まで続けたので、また寵愛された。

昭公十二年(前530年)

  • 夏、宋の華定が聘問に来た。新君との国交を開くためである。昭公が饗応して蓼蕭を賦したが、意味が分からず、返して賦することもなかった。昭子は「必ず滅びる。宴の語らいを懐かず、寵光を宣べず、令徳を知らず、同じ福を受けぬ。何をもって在り続けられよう」と言った。

昭公二十年(前522年)

  • 春二月己丑、冬至であった。梓慎が気を望んで「今年、宋に乱がある。国はほとんど滅び、三年してから収まる。蔡に大きな喪がある」と言った。叔孫昭子は「では戴氏・桓氏であろう。奢り驕って無礼が甚だしい。乱の生ずるところである」と言った。
  • 宋の元公は信がなく私が多く、華氏・向氏を憎んだ。華定・華亥と向寧が謀って「亡命は死にまさる。先手を打とう」と言った。華亥は病と偽って群公子を誘い、公子が見舞いに来ると捕らえた。
  • 夏六月丙申、公子寅・公子御戎・公子朱・公子固・公孫援・公孫丁を殺し、向勝と向行をその倉に拘束した。公は華氏の家へ行って請うたが許されず、そのまま脅された。癸卯、太子欒と同母弟の辰、公子地を人質に取った。公もまた華亥の子の無慼、向寧の子の羅、華定の子の啓を取り、華氏と盟って人質とした。
  • 宋の華氏・向氏の乱で、公子城・公孫忌・樂舍・司馬彊・向宜・向鄭・楚建・郳甲が鄭へ亡命した。その徒が華氏と鬼閻で戦って子城を破り、子城は晉へ行った。
  • 華亥はその妻とともに、必ず手を洗ってから人質の公子たちに食べさせ、それから食べた。公と夫人は毎日必ず華氏の家へ行き、公子に食べさせてから帰った。華亥はこれを患え、公子を帰そうとした。向寧は「ただ信じられぬから子を人質にしたのだ。もしまた帰せば、死ぬ日も遠くない」と言った。
  • 公は華費遂に華氏を攻めることを請うた。「臣はあえて死を惜しみません。しかし憂いを除こうとしてかえって長じさせることになりませんか。臣はそれを懼れます。あえて命を聴かぬわけがありません」と答えた。公は「あなたの生死には命がある。余はその辱めに堪えられぬ」と言った。
  • 冬十月、公は華氏・向氏の人質を殺して攻めた。戊辰、華氏・向氏は陳へ、華登は呉へ亡命した。向寧は太子を殺そうとしたが、華亥は「君を犯して出、そのうえその子を殺せば、誰が我らを受け入れよう。しかも帰せば功がある」と言い、少司寇の牼に帰らせ、「あなたは年長である。人に仕えられぬ。三人の公子を人質としたのだから、必ず免ぜられよう」と言った。
  • 公子が入ると、華牼は門から立ち去ろうとした。公は急いで会い、その手を執って「余はお前に罪がないと知っている。入ってお前の職に復せ」と言った。

昭公二十一年(前521年)

  • 宋の華費遂が華貙・華多僚・華登を生んだ。貙が少司馬、多僚が御士となり、貙と仲が悪かった。そこで公に「貙は亡命者を入れようとしております」としきりに讒言した。
  • 公は「司馬は私のためにその良い子を失った。生死には命がある。私は再び失わせるわけにいかぬ」と言った。「君がもし司馬を愛されるなら、亡命させるがよろしい。死は逃れられるなら、どれほど遠くとも構いません」と答えた。
  • 公は懼れ、侍人に司馬の侍人である宜僚を召させ、酒を飲ませて司馬に告げさせた。司馬は嘆じて「必ず多僚だ。私に讒言する子があって殺せず、私もまた死なぬ。しかし君に命があるなら、どうしようもない」と言い、そこで公と謀って華貙を追い出すこととし、孟諸で狩をさせて遣わそうとした。
  • 公は貙に酒を飲ませ厚く酬い、賜物は従者にまで及んだ。司馬もまた同じようにした。張匄は怪しみ、子皮(華貙)に宜僚を剣で脅して問い詰めさせた。宜僚はすべて告げた。張匄は多僚を殺そうとした。子皮は「司馬は老いた。登のことでも甚だしいのに、私がまた重ねては。亡命するに如くはない」と言った。
  • 五月丙申、子皮が司馬に会って発とうとしたところ、多僚が司馬を御して朝へ行くのに出会った。張匄は怒りに堪えず、そのまま子皮・臼任・鄭翩とともに多僚を殺し、司馬を脅して叛き、亡命者を召した。
  • 壬寅、華氏・向氏が入り、樂大心・豐衍・華牼が橫で防いだ。華氏は盧門に居り、南里をもって叛いた。六月庚午、宋は旧い外郭と桑林の門に城を築いて守った。
  • 冬十月、華登が呉軍を率いて華氏を救った。齊の烏枝鳴が宋を守っていた。厨人の濮は「軍志に『人に先んずれば人の心を奪い、人に後れれば衰えを待つ』とある。彼らが疲れてまだ落ち着かぬうちに討ってはどうか。もし入って固まれば華氏の衆は多くなる。悔いても及ばぬ」と言い、これに従った。
  • 丙寅、齊軍と宋軍が鴻口で呉軍を破り、その二人の帥である公子苦𪂆と偃州員を捕らえた。華登はその残りを率いて宋軍を破った。公は逃げようとした。厨人の濮は「我ら小人は死を貸すことはできても、亡命を送ることはできません。君はお待ちを」と言い、そこで「旗を揚げる者は公の徒である」と触れた。衆は従った。
  • 公は楊門から見て、下りて巡り、「国が滅び君が死ぬのはあなた方の恥である。どうして孤だけの罪であろう」と言った。齊の烏枝鳴は「少ない兵で戦うには斉しく死を致すに如くはなく、斉しく死を致すには備えを捨てるに如くはない。彼らは兵が多い。みな剣を用いることを請う」と言い、これに従った。
  • 華氏が敗走し、また立ち向かった。厨人の濮は裳で首を包んで担いで走り、「華登を得たぞ」と言った。そのまま新里で華氏を破った。翟僂新が新里に居り、戦い終わって公の前で甲を脱いで帰った。華姓が公里に居り、これも同じようにした。
  • 十一月癸未、公子城が晉軍を率いて至った。曹の翰胡が晉の荀吳・齊の苑何忌・衞の公子朝と会して宋を救った。
  • 丙戌、華氏と赭丘で戦った。鄭翩は鸛の陣を望み、その御者は鵞の陣を望んだ。子祿が公子城の車を御し、莊堇が右に立ち、干犫が呂の封人華豹の車を御し、張匄が右に立った。
  • 出会うと城は引き返した。華豹が「城だ」と叫んだ。城は怒って向き直り、豹に矢を番えようとすると、豹はすでに引き絞っていた。「平公の霊よ、なお余を輔けたまえ」と言った。豹が射たが矢はその間を抜けた。番えようとすると、また引き絞っていた。「代わる代わるでなければ卑しい」と言うと、豹は矢を抜くのをためらった。城が射て倒した。
  • 張匄が殳を抜いて降り、城が射て股を折った。這って撃ちかかり、車の軫を折った。また射て殺した。干犫が一矢を請うた。城は「私はお前を君に取りなそう」と言った。「同乗の者に死ねぬのは軍の大刑です。刑を犯してあなたに従っては、君が何に用いましょう。あなたは速やかに射られよ」と答えた。そこで射て倒した。
  • 華氏を大敗させ、南里に囲んだ。華亥は胸を打って叫び、華貙に会って「私は欒氏(欒盈)と同じになった」と言った。貙は「あなたは私を惑わされるな。不幸なら後で亡命するまで」と言い、華登を楚へ遣わして出兵を乞い、華貙は車十五乗と徒七十人で軍を犯して出、睢のほとりで食事をとり、哭して送り、そこでまた入った。
  • 楚の薳越が軍を率いて華氏を迎えようとした。大宰の犯が諫めて「諸侯のうち宋だけがその君に仕えております。いままた国を争っている。君を措いて臣を助けるのは、よろしくないのでは」と言った。王は「お前が私に告げるのが遅かった。すでに許してしまった」と言った。

昭公二十二年(前520年)

  • 楚の薳越が宋に告げさせて「寡君は君に不埒な臣があって君の憂いとなり、むしろ宗廟の恥となっていると聞きました。寡君は受け取って戮することを請います」と言った。
  • 「孤は不才にして父兄に媚びられず、君の憂いとなっております。命の辱めに拝します。しかし君臣は日々戦っております。君が『余は必ず臣を助ける』と言われるなら、それも命のままに。人の言に『ただ乱の門を過ぎるな』とあります。君が恵んで我が国を保ち、不正を助長して乱人を奨めぬなら、孤の望みです。ただ君がお図りください」と答えた。
  • 楚人はこれを患えた。諸侯の守備兵は謀って「もし華氏が困窮を知って死を致し、楚が功なきを恥じて激しく戦えば、我らの利ではない。出させて楚の功とするに如くはない。彼らにもう何もできまい。宋を救ってその害を除けば、ほかに何を求めよう」と言い、そこで固く出すことを請うた。宋人は従った。
  • 己巳、宋の華亥・向寧・華定・華貙・華登・皇奄傷・省臧・士平が楚へ亡命した。宋公は公孫忌を大司馬、邊卭を大司徒、樂祁を司城、仲幾を左師、樂大心を右師、樂輓を大司寇として国人を靖んじた。(以上、華氏・向氏の乱)

昭公二十五年(前517年)

  • 春、叔孫婼が宋を聘問した。桐門の右師(樂大心)が会って語ったが、宋の大夫を卑しめ司城氏を賤しんだ。昭子はその家人に「右師は滅びるだろう。君子はその身を貴んでこそ人に及ぼせる。それで礼がある。いまあの方はその大夫を卑しめその宗を賤しんでいる。これはその身を賤しむものだ。礼を持てようか。礼がなければ必ず滅ぶ」と告げた。
  • 夏、黄父で会した。趙簡子が諸侯の大夫に王への粟の輸送を命じた。宋の樂大心は「我は粟を出さぬ。我は周にとって客である。どうして客に出させるのか」と言った。士伯は簡子に「宋の右師は必ず滅びる。君命を奉じて使いしながら盟に背いて盟主に逆らおうとする。これ以上の不祥はない」と告げた。
  • 十一月、宋の元公が昭公のために晉へ行こうとした。太子欒が廟で即位し、自分が平公とともに礼服でその相を務める夢を見た。翌朝、六卿を召して「寡人は不才にして父兄に仕えられず、あなた方の憂いとなった。寡人の罪である。もしあなた方の霊によって首領を保って世を終えられるなら、ただこの楄柎(棺の底板)は先君に及ぶことのないようにしていただきたい」と言った。
  • 仲幾は「君がもし社稷のゆえに私に狎れた宴を減らされるなら、群臣はあえて与り知りません。しかし宋国の法、死生の度については先君の命があり、群臣は死をもって守り、あえて失墜させません。臣が職を失えば常刑は赦されぬ。臣はその死に堪えられません。君命はただ辱めとなりましょう」と答えた。
  • 宋公はそのまま出発し、己亥、曲棘で卒した。

昭公二十六年(前516年)

  • 宋の元公を葬った。先君と同じ礼にした。礼にかなう。

定公九年(前501年)

  • 宋公が樂大心を晉で盟わせ、あわせて樂祁の屍を迎えさせようとした。病と偽って辞退した。そこで向巢を晉へ行かせて盟い、子梁(樂祁)の屍を迎えさせた。
  • 子明(樂溷)は桐門の右師に「私はなお衰絰を着けているのに、あなたが鐘を撞くのはなぜか」と言って出た。右師は「喪はここにないからだ」と言い、後に人に「もう衰絰を着けて子を生んだ。私がどうして鐘をやめよう」と告げた。子明はこれを聞いて怒り、公に「右師は戴氏に不利をなそうとしている。晉へ行こうとせず、乱を起こすつもりです。そうでなければ病もないはずがない」と言った。そこで桐門の右師を追放した。

定公十年(前500年)

  • 宋の公子地は蘧富獵を寵愛し、その家を十一に分けてその五を与えた。公子地には白馬四頭があった。公は向魋を寵愛し、魋がそれを欲しがったので、公は取り上げてその尾とたてがみを朱に染めて与えた。地は怒ってその徒に魋を打たせて奪い返した。魋は懼れて逃げようとし、公は門を閉じて泣き、目がすっかり腫れた。
  • 同母弟の辰は「あなたは家を分けて獵に与えながら、魋にだけ卑しくされる。あなたにも偏りがある。あなたが君のために礼を尽くして国境を出るくらいなら、君は必ずあなたを止められよう」と言った。
  • 公子地は陳へ亡命したが、公は止めなかった。辰が取りなしたが聴かなかった。辰は「これは私が我が兄を惑わしたことになる。私が国人とともに出れば、君は誰と居られよう」と言った。冬、同母弟の辰が仲佗・石彄とともに陳へ亡命した。

定公十一年(前499年)

  • 春、宋公の同母弟辰が仲佗・石彄・公子地とともに蕭に入って叛いた。秋、樂大心がこれに従い、大いに宋の患いとなった。(以上、樂大心・辰・地の乱)

定公十五年(前495年)

  • 鄭の罕達が老丘で宋軍を破った。
  • 齊侯と衞侯が蘧挐に陣した。宋を救うことを謀ったのである。

哀公七年(前488年)

  • 宋人が曹を囲んだ。鄭の桓子思は「宋人が曹を有てば鄭の患いとなる。救わぬわけにいかぬ」と言った。冬、鄭軍が曹を救い宋を侵した。
  • はじめ曹人のある者が、多くの君子が社の宮に立って曹を滅ぼすことを謀り、曹の叔振鐸が公孫彊を待つよう請い、許される夢を見た。翌朝探したが、曹に公孫彊という者はいなかった。その子を戒めて「私が死んで、お前が公孫彊が政を執ると聞いたら、必ず去れ」と言った。
  • 曹伯陽が即位して狩と弋を好んだ。曹の田舎者である公孫彊は弋を好み、白い雁を獲て献じ、あわせて狩と弋の説を語った。曹伯は喜び、それによって政事を訪ねていよいよ喜び、寵して司城として政を聴かせた。夢を見た者の子はそこで去った。
  • 彊は覇を唱える説を曹伯に語り、曹伯は従って、晉に背き宋を犯した。宋人が討ち、晉人は救わなかった。その郊に五つの邑を築き、黍丘・揖丘・大城・鍾・邘といった。

哀公八年(前487年)

  • 宋公が曹を討ち、引き返そうとした。褚師子肥が殿を務め、曹人が罵ったので進まなかった。軍は待った。公はこれを聞いて怒り、引き返させ、そのまま曹を滅ぼし、曹伯と司城彊を捕らえて帰り、殺した。(以上、景公が曹を滅ぼす)

哀公十二年(前483年)

  • 宋と鄭の間に隙地があり、彌作・頃丘・玉暢・嵒・戈・錫といった。子産が宋人と和を結んで「これを領有せぬ」と約した。
  • 宋の平公・元公の一族が蕭から鄭へ亡命し、鄭人は彼らのために嵒・戈・錫に城を築いた。九月、宋の向巢が鄭を討って錫を取り、元公の孫を殺し、そのまま嵒を囲んだ。十二月、鄭の罕達が嵒を救い、丙申、宋軍を囲んだ。

哀公十四年(前481年)

  • 宋の向魋がその軍を救った。鄭の子賸は「桓魋を得た者に賞がある」と触れさせた。魋は逃げ帰った。そのまま嵒で宋軍を捕らえ、成讙と郜延を捕らえ、六邑を空しくした。

哀公十一年(前484年)

  • 衞の大叔疾が宋へ亡命し、向魋に仕えて美しい珠を納れた。宋公がそれを求めたが魋は与えず、これによって罪を得た。

哀公十四年(前481年)(桓魋の乱)

  • 宋の桓魋の寵が公を害するようになった。公は夫人にしきりに饗応を請わせて討とうとした。まだ及ばぬうちに魋が先に謀り、鞌を薄と交換することを請うた。公は「ならぬ。薄は宗廟の邑である」と言い、鞌に七邑を加えた。魋は公を饗応することを請い、正午を期日とし、家の兵をことごとく行かせた。
  • 公はそれと知り、皇野に告げて「余は魋を育てた。いま余に禍しようとしている。すぐに救ってくれるよう請う」と言った。司馬の子仲(皇野)は「臣があって順わぬのは神の憎むところ。まして人においては。あえて命を承らぬわけがありません。しかし左師を得られねばできません。君命をもって召すことを請います」と言った。
  • 左師は食事のたびに鐘を撞いた。鐘の音を聞いて公は「あの方が食べようとしている」と言い、食べ終わってまた奏でると「よろしい」と言った。乗車で行き、「猟の役人が来て、逢澤に大きな麋がいると告げた。公は『魋はまだ来ぬが、左師を得られたら、私は彼と狩をしよう』と言われた。君は告げるのを憚っておられる」と言い、「かつて私に狩を勧められた。君は急がれるので乗車で迎えに来た」と言って、ともに乗った。
  • 公のもとへ至って事情を告げると、左師は拝して起てなかった。司馬は「君が言われよ」と言った。公は「あなたを難ずる者があれば、上に天があり下に先君がある」と誓った。左師は「魋が恭しくないのは宋の禍です。あえて命に従わぬわけがありません」と答えた。
  • 司馬は瑞(節)を請うてその徒に命じ、桓氏を攻めさせた。その父兄や旧臣は「なりません」と言い、新しい臣は「我が君の命に従う」と言い、そのまま攻めた。
  • 子頎が馬を走らせて桓司馬に告げた。司馬は入ろうとしたが、子車が止めて「君に仕えられず、そのうえ国を討つのでは民が与しません。ただ死を取るだけです」と言った。
  • 向魋はそのまま曹に入って叛いた。六月、左師の巢に討たせた。大夫を人質にして入ろうとしたができず、やはり曹に入って人質を取った。魋は「なりません。君に仕えられず、そのうえ民に罪を得ては、どうなりましょう」と言い、そこで放した。民はついに叛いた。
  • 向魋は衞へ亡命し、向巢は魯へ亡命した。宋公は止めさせて「寡人はあなたと約したことがある。向氏の祀を絶やすわけにいかぬ」と言った。辞退して「臣の罪は大きい。桓氏をことごとく滅ぼしてよろしい。もし先臣のゆえに後を残させてくださるなら君の恵みです。臣自身は入るわけにまいりません」と言った。
  • 司馬牛はその邑と珪を返して齊へ行った。向魋は衞の地を出たとき公文氏に攻められ、夏后氏の璜を求められたので他の玉を与えて齊へ亡命した。陳成子は次卿とした。司馬牛はまたその邑を返して呉へ行った。呉人が憎んだので引き返した。趙簡子が召し、陳成子もまた召した。魯の郭門の外で卒し、阬氏が丘輿に葬った。(以上、桓魋の乱)

哀公十七年(前478年)

  • 宋の皇瑗の子の麇に田丙という友があり、その兄の酁般の邑を奪って与えた。酁般は憤って立ち去り、桓司馬の臣である子儀克に告げた。子儀克は宋へ行って夫人に「麇が桓氏を入れようとしております」と告げた。
  • 公が子仲(皇野)に問うた。はじめ子仲が杞姒の子である非我を後嗣にしようとしたとき、麇が「必ず伯を立てよ。これは良材である」と言った。子仲は怒って従わなかった。それゆえ「右師は老いております。麇のことは存じません」と答えた。公は麇を捕らえ、皇瑗は晉へ亡命したが召し戻された。

哀公十八年(前477年)

  • 春、宋が皇瑗を殺した。公はその実情を聞いて皇氏の族を復し、皇緩を右師とした。

哀公二十六年(前469年)

  • 宋の景公に子がなく、公孫周の子の得と啓を取って公宮で育て、まだ立てていなかった。このとき皇緩が右師、皇非我が大司馬、皇懷が司徒、靈不緩が左師、樂茷が司城、樂朱鉏が大司寇であった。六卿三族が降って政を聴き、大尹を通して達した。大尹は常に告げずに、その欲するところを君命と称して令した。国人は憎んだ。
  • 司城が大尹を除こうとすると、左師は「放っておいてその罪を満たさせよ。重くて基がなければ、敗れずにおれようか」と言った。
  • 冬十月、公が空澤に遊び、辛巳、連中で卒した。大尹は空澤の士千の甲を起こし、公を奉じて空桐から入って沃宮へ行き、六子を召させて「下に軍があると聞いた。君が六子と謀られたい」と言った。六子が至ると甲兵で脅し、「君は病が重い。二三子に盟ってもらいたい」と言った。そこで少寝の庭で「公室に不利をなさぬ」と盟った。
  • 大尹は啓を立て、喪を奉じて大宮に殯し、三日たってから国人が知った。司城の茷は国中に「大尹が君を惑わし蠱かしてその利を専らにしていた。いま君は病もないのに死に、死んでまたそれを隠した。他でもない、大尹の罪である」と言い触らさせた。
  • 得は、啓が北枕で盧門の外に寝ており、自分が烏となってその上に集まり、嘴が南門に、尾が桐門に届く夢を見た。「私の夢は美しい。必ず立つ」と言った。
  • 大尹は謀って「私が盟の場にいなかった。私を追い出そうというのだろう。改めて盟わせようか」と言い、祝に盟書を作らせた。六子は唐盂にあり、盟わせようとした。祝の襄が盟書を皇非我に告げた。皇非我は子潞・門尹の得・左師を頼んで謀り、「民は我らとともに追い出すだろうか」と言い、みな帰って甲を配り、国中に「大尹が君を惑わし蠱かして公室を陵虐した。我らに与する者は君を救う者である」と触れさせた。衆は「これに与しよう」と言った。
  • 大尹は「戴氏と皇氏が公室に不利をなそうとしている。我らに与する者は富まぬことを憂えるな」と触れた。衆は「区別がない」と言った。
  • 戴氏と皇氏が公を討とうとすると、樂得は「なりません。彼は公を陵いだから罪がある。我らが公を討てば、さらに甚だしい」と言い、国人に大尹を追い立てさせた。大尹は啓を奉じて楚へ亡命した。
  • そこで得を立て、司城を上卿とし、「三族がともに政を執り、互いに害さぬ」と盟った。(以上、大尹の乱)

史論(士竒)

  • 魚石の難は、蕩澤が公室を弱めて公子肥を殺したことに始まる。華元は晉へ行って討伐を請い、魚府と魚石は河のほとりで華元を引き止めた。五大夫が亡命しようとすると華元は自ら引き止めた。これもまた善いことである。
  • ところがその後、堤を切り城壁に登って、彼らが入ることをひたすら恐れた。何を見たのか分からない。そもそも乱を討つ者は誅を首悪に止めるべきである。その族もろとも追い出すのは行き過ぎではないか。ついに彭城を盗み拠らせ、瓠丘に置いてようやく落ち着いた。いわゆる「人にして不仁なる、これを疾むこと已甚だし」というものである。
  • 華弱と樂轡は幼いころ親しく長じて怨み合った。轡が弓で弱を朝廷で手枷にした。曲は轡にある。それなのに轡を措いて弱を追い出した。刑を失うこと甚だしく、子罕の言うように同罪異罰であるだけではない。しかも樂轡は怨んでかえって子罕の門に矢を射た。子罕がそれを容れて善く遇したのは懦弱である。
  • 華臣が臯比の家を弱めようとして罪なき者を殺したのは国の紀を犯すものである。左師がまた覆い隠したのも、その失は同じである。狂犬がいなければ、ついに法がなかったであろう。
  • 玉を献じられて貪らぬことを宝とし、謡を聞いて鞭を執って謗りを分かち、義を慕って宋に飢えた人をなくした子罕の賢は、また没するわけにいかぬ。罕氏が最後に滅んだのも理由がある。
  • 芮司徒の女の妖しさは褒姒と同じで、ついに龍蛇を生んで宋に禍した。伊戾が太子痤を殺した計は甚だ惨い。左師の合はその冤を洗えず、風向きに従って助けた。平公は昏くて誤って聴き、終わりに悔いても何の補いになろう。「帰来望思」の痛みか。
  • 元公はまた前車に懲りず、炭を熾して殷勤に努め、また閹の柳を寵愛した。恐ろしいことだ、寺人が人主を惑わし溺れさせる力は。
  • 信がなく私が多くて、君臣が人質を取り合い、国の乱れは甚だしい。そのうえ多僚の讒言を聴いて子皮を憤らせ、司馬を脅して亡命者を召させた。そこで華亥・向寧・華定の輩が南里に入って叛き、宋と国を分けて居した。もし齊と晉が鷹鸇の義を明らかにし、楚がその罪人を束ねて臨まなかったら、宋の滅亡は足を挙げるほどの間に待てたであろう。幸いにも叛人は出て走り、腹心の患いは除かれたが、公室の枝葉もまたほとんど尽きた。梓慎の占は信じがたいが徴があったのではないか。
  • 桐門の右師は叔孫婼と語って宋の大夫を卑しめ、必ず滅びると知れた。黄父の役で王の粟を供せず、盟を修める使いにも病を理由に行かなかった。追放されたのは自ら招いたことである。
  • 公子地は蘧富獵を寵愛して家を十一に分けその五を与え、公はその白馬を取って寵臣の魋に与えた。地はまたその徒に魋を打たせて奪い返した。まことに恕でない。宋公もまた親愛の道を尽くせず、地を異国へ亡命させた。子辰が取りなしても聴かなかった。これもまた険を冒すこと、蕭に入って叛き、右師がそれに従った。宋はこれで三度も叛臣の禍に遭った。
  • 平公・元公の一族が蕭から鄭へ亡命し、向巢が錫を取って殺したのは、みな魋を寵愛したことによる。しかも魋はまた寵によって公を害し、公が図ろうとするとまた曹に入って叛いた。凶人が害をなすことを戒めずにおれようか。はじめは朱いたてがみで歓を結び、後には美しい珠で乱を招いた。禍はみな欲の多さから起こる。
  • 大尹は遺命を偽って廃立を行い、強いて六卿と盟わせ、自ら敗走を招いた。そこで司城が上卿となり、「三族がともに政を執り、互いに害さぬ」と盟った。それもまた戴氏・桓氏・華氏・向氏が互いに残賊し合ったことに懲りて悔いる心があったのであろうか。ああ、遅かった。