左傳紀事本末宋の殤公・閔公・昭公が弑される(宋殤閔昭公之弑)
宋で殤公・閔公・昭公の三君が相次いで弑された経緯を、隱公三年(前720年)から成公二年(前589年)まで追う篇。宣公が子の與夷を措いて穆公を立て、穆公もまた子の馮を措いて殤公を立てたことが禍の源となる。桓公二年(前710年)、華督は孔父の妻を奪い、続いて殤公を弑して鄭から莊公(馮)を迎えた。莊公十二年(前682年)、乗丘の捕虜であった南宮長萬が閔公に辱められて弑し、仇牧が剣を手に叱って殺された。文公十六年(前611年)、無道な昭公は襄夫人と公子鮑に孟諸で殺され、蕩意諸が殉じた。
年表(16件)
- 隱公三年前720年宋の穆公が子の馮を鄭へ出し、孔父に殤公を託して卒する
- 隱公四年前719年州吁の誘いに宋が応じ、公子馮を入れようとする鄭を討つ
- 桓公元年前711年華父督が路上で孔父の妻を見て見送る
- 桓公二年前710年華督が孔父を殺してその妻を奪い、殤公を弑して莊公を迎える
- 莊公十年前684年公子偃の奇襲で乗丘に宋軍を大敗させる
- 莊公十一年前683年鄑で宋軍を破り、宋の大水に弔問して御説の言が称えられる
- 莊公十二年前682年南宮長萬が閔公を蒙澤で弑し、仇牧と太宰督を殺す
- 文公七年前620年昭公が群公子を除こうとし、樂豫の諫めを退けて公宮で殺し合う
- 文公八年前619年襄夫人が戴氏の一族を頼んで昭公の一党を殺す
- 文公十四年前613年宋の髙哀が宋公を義としないとして魯へ亡命する
- 文公十五年前612年華耦が来て盟い、先臣督の罪を理由に宴を辞退する
- 文公十六年前611年公子鮑が国人に施し、襄夫人が孟諸で昭公を殺させる
- 文公十七年前610年晉ら四国が弑君を責めて宋を討つが、文公を立てて引き上げる
- 文公十八年前609年文公が同母弟の須と昭公の子を殺し、武氏を追い出す
- 宣公三年前606年武公・穆公の一族が曹軍とともに宋を討ち、宋軍が曹を囲む
- 成公二年前589年宋の文公が卒し、初めて厚葬と殉葬が用いられる
隱公三年(前720年)
- 宋の穆公が病んで大司馬の孔父を召し、殤公を託して言った。「先公は與夷を措いて寡人を立てられた。寡人はあえて忘れぬ。もし大夫の霊によって首領を保って世を終えられ、先君が與夷のことを問われたら、何と答えられよう。あなたが彼を奉じて社稷を主らせてくれるよう請う。寡人は死んでも悔いはない」。孔父は「群臣は馮を奉じたいと願っております」と答えた。
- 公は「ならぬ。先君は寡人を賢として社稷を主らせられた。もし徳を棄てて譲らねば、先君の挙用を廃することになる。どうして賢といえよう。先君の令徳を光り昭かにすることに務めずにおれようか。あなたは先君の功を廃されるな」と言い、公子馮を鄭へ出して居らせた。
- 八月庚辰、宋の穆公が卒し、殤公が即位した。君子は「宋の宣公は人を知る者といえる。穆公を立てて、その子がそれを享けた。命ずるに義をもってしたのだ。商頌に『殷は命を受けてことごとく宜しく、百禄これ荷う』とあるのは、このことか」と評した。
隱公四年(前719年)
- 宋の殤公が即位したとき、公子馮は鄭へ亡命し、鄭人は入れようとした。衞の州吁が立ち、先君の鄭への怨みを果たして諸侯に寵を求め、その民を和させようとし、宋に告げさせた。「君がもし鄭を討って君の害を除かれるなら、君を主とし、我が国が兵を出し、陳と蔡が従います。それが衞国の願いです」。宋人は許して鄭を討った。
桓公元年(前711年)
- 宋の華父督が孔父の妻を路上で見て、目で迎えて見送り、「美しくて艶がある」と言った。
桓公二年(前710年)
- 春、宋の督が孔氏を攻めて孔父を殺し、その妻を奪った。殤公が怒ったので、督は懼れて殤公を弑した。君子は督に君を無みする心があってから悪に動いたと見た。だから先に「その君を弑す」と書いた。
- 稷で会し、宋の乱を収拾した。賄賂を受けたので華氏を存続させた。
- 宋の殤公は立って十年で十一度戦い、民は命に堪えなかった。孔父嘉が司馬、督が太宰であった。それゆえ民が命に堪えぬのに乗じて、まず「司馬のせいだ」と言い触らし、孔父を殺してから殤公を弑した。鄭から莊公を迎えて立て、鄭と親しくした。郜の大鼎を魯公に賄賂とし、齊・陳・鄭にもみな賄賂を贈った。それでついに宋公の相となった。
- 夏四月、郜の大鼎を宋から受け取り、戊申、大廟に納めた。礼に反する。
- 臧哀伯が諫めた。「人に君たる者は徳を昭かにし違いを塞いで百官に臨み照らすもの。それでもなお失うことを懼れる。だから令徳を昭かにして子孫に示す。それゆえ清廟は茅屋、大路は蒲の席、大羹は味付けせず、粢食は精げぬ。その倹を昭かにするためです。衮・冕・黻・珽・帯・裳・幅・舄・衡・紞・紘・綖はその度を昭かにし、藻率・鞞鞛・鞶厲・游纓はその数を昭かにし、火・龍・黼・黻はその文を昭かにし、五色が象に比するのはその物を昭かにし、錫・鸞・和・鈴はその声を昭かにし、三辰の旂旗はその明を昭かにします。
- そもそも徳は倹にして度があり、昇降に数があり、文物でこれを紀し、声と明でこれを発し、それで百官に臨み照らす。百官はそこで戒め懼れてあえて紀律を易えません。いま徳を滅ぼし違いを立て、その賄賂の器を大廟に置いて百官に明らかに示す。百官がそれに倣えば、何を誅せましょう。国家の敗れるのは官の邪によります。官が徳を失うのは寵と賄賂が明らかになるからです。郜の鼎が廟にあるのは、これ以上の明らかさがありましょうか。武王が商に勝って九鼎を雒邑へ遷したときも、義士はなおこれを非としました。まして違乱の賄賂の器を大廟に昭かにするのは、どうなのでしょう」。公は聴かなかった。
- 周の内史はこれを聞いて「臧孫達は魯に後を残すだろう。君が違えても諫めることを忘れず、徳をもってした」と言った。
莊公十年(前684年)
- 夏六月、齊軍と宋軍が郎に陣した。公子偃は「宋軍は整っておりません。破れます。宋が敗れれば齊は必ず引き上げる。撃つことを請う」と言った。莊公は許さなかったが、雩門からひそかに出、虎の皮を被せて先に犯した。莊公も従い、乗丘で宋軍を大敗させ、齊軍は引き上げた。
莊公十一年(前683年)
- 夏、宋は乗丘の役のゆえに魯を侵した。莊公が防ぎ、宋軍がまだ陣を敷かぬうちに迫って鄑で破った。およそ軍は、敵がまだ陣を敷かぬうちに破るのを「某の師を敗る」、双方が陣を敷けば「戦」、大崩れを「敗績」、優れた者を捕らえるのを「克」、伏せて破るのを「某の師を取る」、京師が敗れるのを「王師某に敗績す」という。
- 秋、宋に大水があった。莊公は弔問して「天が長雨を降らせて粢盛を害した。どうして弔わずにおれよう」と言った。「孤がまことに敬まず、天が災を降された。そのうえ君に憂えをかけております。命の辱めに拝します」と答えた。
- 臧文仲は「宋は興るだろう。禹と湯は自らを罪として、その興ることが勃々としていた。桀と紂は人を罪として、その滅ぶことが忽ちであった。しかも列国に凶事があれば孤と称するのが礼である。言葉が懼れを表し、名が礼にかなっている。まずはよかろう」と言った。まもなく、それが公子御説の言葉だと聞き、臧孫達は「これは君となるにふさわしい。民を憐れむ心がある」と言った。
- 乗丘の役で、莊公は金僕姑で南宮長萬を射て、公の右の歂孫生が捕らえた。宋人が返還を請うた。宋公は辱めて「はじめ私はあなたを敬っていたが、いまあなたは魯の囚人だ。私はあなたを敬わぬ」と言った。長萬はこれを恨んだ。
莊公十二年(前682年)
- 秋、宋の萬が閔公を蒙澤で弑した。門で仇牧に遭って打ち殺し、東宮の西で太宰の督に遭ってこれも殺し、子游を立てた。群公子は蕭へ逃げ、公子御説は亳へ逃げた。南宮牛と猛獲が軍を率いて亳を囲んだ。
- 冬十月、蕭叔の大心と戴公・武公・宣公・穆公・莊公の一族が曹軍とともに討ち、南宮牛を陣中で殺し、子游を宋で殺して桓公を立てた。猛獲は衞へ、南宮萬は陳へ亡命し、乗車に母を載せて一日で着いた。
- 宋人が衞に猛獲の引き渡しを請うた。衞人は与えまいとしたが、石祁子は「なりません。天下の悪は一つです。宋で悪をなして我らに保護されるなら、保護して何の補いになりましょう。一人を得て一国を失い、悪に与して好誼を棄てるのは謀ではありません」と言った。衞人は返した。
- また陳に南宮萬の引き渡しを請い、賄賂を贈った。陳人は婦人に酒を飲ませ、犀の革で包んだ。宋に着くころには手足がみな突き出ていた。宋人はみな醢にした。
文公七年(前620年)
- 夏四月、宋の成公が卒した。このとき公子成が右師、公孫友が左師、樂豫が司馬、鱗矔が司徒、公子蕩が司城、華御事が司寇であった。
- 昭公が群公子を除こうとした。樂豫は「なりません。公族は公室の枝葉です。除けば本根が庇い蔭るものを失います。葛藟でさえその本根を庇える。だから君子はこれを比喩とする。まして国君においては。これは諺にいう『庇われながら斧を尋ねる』ものです。必ずなりません。君はお図りください。徳をもって親しめばみな股肱となります。誰があえて二心を抱きましょう。どうして除けましょうか」と言ったが、聴かれなかった。
- 穆公・襄公の一族が国人を率いて公を攻め、公孫固と公孫鄭を公宮で殺した。六卿が宮室を和し、樂豫は司馬を辞して公子卬に譲った。昭公は即位して葬儀を行った。経に「宋人その大夫を殺す」と書いて名を称さないのは多かったからであり、また罪でなかったことをいう。
文公八年(前619年)
- 宋の襄夫人は襄王の姉であった。昭公が礼遇しなかったので、夫人は戴氏の一族を頼んで襄公の孫の孔叔・公孫鍾離および大司馬公子卬を殺した。みな昭公の一党である。司馬は節を握って死んだ。だから官名で書いた。
- 司城の蕩意諸が魯へ亡命し、節を府人に返して出た。公はその官のまま迎え、みな元に復した。これも官名で書いた。みな貴んだのである。
文公十四年(前613年)
- 宋の髙哀は蕭の封人であったが卿とされた。宋公を義としないとして出、そのまま魯へ亡命した。経に「宋の子哀来奔す」と書いたのは貴んだのである。
文公十五年(前612年)
- 三月、宋の華耦が来て盟った。その属官がみな従った。経に「宋の司馬華孫」と書いたのは貴んだのである。
- 文公が宴を設けると辞退して「君の先臣である督が宋の殤公に罪を得、その名は諸侯の策にあります。臣はその祀を承けております。どうして君を辱められましょう。亞旅から命を承ることを請います」と言った。魯人は敏と評した。
文公十六年(前611年)
- 宋の公子鮑は国人に礼を尽くした。宋が飢えるとその粟を尽くして貸し、七十以上の者には贈らぬことがなく、時に応じて珍しい馳走を加えた。六卿の門に日々足しげく通い、国の有能な者には仕えぬことがなく、桓公以下の親族を憐れまぬことがなかった。公子鮑は美しくて艶があり、襄夫人は通じようとして果たせず、そこでその施しを助けた。
- 昭公は無道で、国人は公子鮑を奉じて夫人を頼んだ。このとき華元が右師、公孫友が左師、華耦が司馬、鱗矔が司徒、蕩意諸が司城、公子朝が司寇であった。はじめ司城の蕩が卒したとき、公孫壽は司城を辞して意諸に就かせるよう請い、後に人に「君は無道である。私の官は近く、及ぶことを懼れる。官を棄てれば一族に庇うものがない。子は身の副である。ひとまず死を先延ばしにしよう。子を失っても一族は失わぬ」と告げた。
- やがて夫人が公に孟諸で狩をさせて殺そうとした。公はそれと知り、宝物をすべて持って行った。蕩意諸は「諸侯のもとへ行かれてはどうか」と言った。公は「その大夫から君の祖母、国人に至るまで従わせられぬ。諸侯の誰が私を受け入れよう。しかも人の君となっておきながら人の臣となるくらいなら、死ぬに如くはない」と言い、宝物をすべて左右に賜って去らせた。
- 夫人が司城に公を去るよう言わせると、「臣となっておきながらその難を逃れては、後の君に対してどうしましょう」と答えた。
- 冬十一月甲寅、宋の昭公が孟諸で狩をしようとして、まだ着かぬうちに、夫人王姫が帥甸に攻めて殺させた。蕩意諸は殉じた。経に「宋人その君杵臼を弑す」と書いたのは、君が無道だったからである。
- 文公が即位し、同母弟の須を司城とし、華耦が卒すると蕩虺を司馬とした。
文公十七年(前610年)
- 春、晉の荀林父・衞の孔達・陳の公孫寧・鄭の石楚が宋を討ち、「なぜ君を弑したのか」と責めたが、なお文公を立てて引き上げた。
文公十八年(前609年)
- 宋の武氏の一族が昭公の子を導き、司城の須を奉じて乱を起こそうとした。十二月、宋公は同母弟の須と昭公の子を殺し、戴公・莊公・桓公の一族に司馬子伯の館で武氏を攻めさせ、そのまま武公・穆公の一族を追い出した。公孫師を司城とし、公子朝が卒すると樂呂を司寇として国人を靖んじた。
宣公三年(前606年)
- 宋の文公は即位して三年、同母弟の須と昭公の子を殺した。武氏の謀りによるものである。戴公・桓公の一族に司馬子伯の館で武氏を攻めさせ、武公・穆公の一族をことごとく追った。武公・穆公の一族は曹軍とともに宋を討った。秋、宋軍が曹を囲んだ。武氏の乱に報いたのである。
成公二年(前589年)
- 八月、宋の文公が卒した。初めて厚く葬り、蜃灰と炭を用い、車馬を増し、初めて殉葬を用い、重器を備え、椁に四つの棟を設け、棺に翰と檜を用いた。
- 君子は「華元と樂舉はここにおいて臣たらぬ。臣は煩を治め惑いを除く者である。それゆえ身を伏せて争う。いま二人は君が生きているときはその惑いを縦にし、死んでからはその奢りを増した。これは君を悪に棄てるものだ。何の臣であろう」と評した。
史論(士竒)
- 宋の宣公はその子の與夷を措いて穆公を立て、穆公はまたその子の馮を措いて宣公の子の殤公を立てた。殤公は馮を忌み、馮はついに殤公を簒った。先儒が「宋の禍は宣公が作った」というのは空言ではない。
- そもそも子に与えるのは嫡子を立てることを主とし、それで争奪の源を塞いで乱を正すのである。隱公が桓公に譲って桓公が隱公を弑し、諸樊の兄弟が譲り合って季子に至り、王僚と子光の争いを開いた。ゆえに譲は三代以下では語れぬものである。
- 殤公が馮を忌んだのはもとより天理に逆らう。しかし国は宣公の国である。馮は父の志を体せず殤公と争おうとした。鄭人がしばしば馮を入れることを謀り、殤公がまた無道であったので、華督が馮に心を寄せて久しかった。殤公を弑したのは公子馮のためである。世人はただ殤公が馮を忌んだことを憎んで、馮が殤公を簒ったことを忘れている。南史のような者があれば、馮もまた弑君の列に入ったはずである。
- 諸侯が賄賂を取って華氏を立てた。春秋の中で弑君は三十六。その禍はみなここに萌した。乱賊を誅討せず、かえって悪を勧めたからである。
- 閔公が再び弑されたのは、まさにその故事をなぞったにすぎない。南宮長萬は乗丘の捕虜である。正しく典刑に処さずかえって宋で大夫とし、そのうえ狎れて博打を打ち、婦人を避けなかった。その昏さは甚だしい。一言で腕を振るって禍が君父に及んだ。
- 仇牧は平生に匡し救ったとは聞かぬが、慷慨して難に急ぎ、義が色に現れ、剣を手にして叱り、首を砕かれ歯が門扉に食い込んだ。不忠とはいえまい。
- 昭公はその君の祖母を従わせられず、そのうえ群公子をことごとく除こうとした。枝葉を披いで斧を尋ねるもの、敗亡の道である。しかし襄夫人が公子鮑と通じようとし、彼のために厚く施して衆を収め、ついに昭公を殺した。これもまた魯の穆姜の類である。穆姜は不幸にして僑如を出し、襄夫人は幸いにして宋の鮑を立てた。その悪は一つである。宋がよく賊を討ったからといって、罪がないわけではあるまい。
- 昭公が死に臨んだ言葉を見れば、命に順って戮に就いたのだから、自ら過ちを知っていたようにも見える。しかし上は王母に礼せず、下は国人に罪を得、弟の哀もまた不義として去った。弁解しようがない。
- 文公は武氏の一族を追い、あわせて同母弟と昭公の子を殺した。執念深く狠いこと極まる。没して殉葬を用い、そのうえ厚く葬った。たとえ南山を封じても、その悪を覆うに足りようか。