左傳紀事本末晉、諸侯を失う(晉失諸侯)
悼公の没後、晉が覇業を失って諸侯に叛かれていく過程を、襄公二十九年(前544年)から哀公二十年(前475年)まで追う篇。平公が母の家である杞のために諸侯に城を築かせ、寵姫の少姜の喪に諸侯を奔走させ、虒祁の宮を築いて民力を彫り尽くしたことが失の始まりとされる。昭公十三年(前529年)の平丘の会では甲車四千乗で威を示して齊を服させたが、子産は貢の等級を争って晉に譲らせた。定公の代には荀寅が蔡侯に賄を求めて召陵の楚討伐を沙汰やみにし、涉佗が衞侯を辱めて衞が叛き、鄭も晉を離れた。
年表(29件)
- 襄公二十九年前544年諸侯の大夫に杞へ城を築かせ、女叔侯が杞の田を返しきらない
- 襄公三十年前543年趙孟が絳県の老人を用い、魯人が晉に君子の多いことを称える
- 昭公元年前541年子産が実沈と臺駘を説き、医和が晉侯の病を女色によるものと診る
- 昭公二年前540年少姜が卒し、昭公が河から引き返され、陳無宇が捕らえられる
- 昭公三年前539年子大叔が晉の覇の衰えを論じ、齊が晏嬰を遣わして後添えを請う
- 昭公四年前538年楚が椒舉を遣わして諸侯を求め、晉が司馬侯の説得で許す
- 昭公七年前535年晉人が杞の田を処理し、季孫が謝息を説いて成を杞に与える
- 昭公八年前534年魏榆で石が物を言い、師曠が虒祁の宮の民力を挙げて答える
- 昭公十年前532年晉の平公が卒し、諸侯の大夫が新君に会おうとして叔向に断られる
- 昭公十二年前530年投壺の唱和で齊侯が晉侯に張り合い、伯瑕が穆子の失辞を咎める
- 昭公十三年前529年平丘の会で甲車四千乗を示して齊を服させ、季孫意如を捕らえる
- 昭公十四年前528年意如が晉から帰る
- 昭公十五年前527年昭公が平丘の会のことで晉へ行く
- 昭公十六年前526年齊侯が徐を討ち、叔孫昭子が覇者なきことを害とする
- 昭公三十年前512年晉の頃公の葬に游吉が一人で赴き、詰る魏獻子を礼で退ける
- 定公三年前507年蔡の昭侯が漢で誓い、晉へ人質を出して楚討伐を請う
- 定公四年前506年召陵の会で荀寅が賄を得られず蔡侯を断り、晉が諸侯を失う
- 定公六年前504年宋の樂祁が晉へ使いし、范獻子の讒で捕らえられる
- 定公七年前503年齊侯と鄭伯が鹹で盟い、衞が北宮結を用いて晉に叛く道を作る
- 定公八年前502年涉佗が鄟澤の盟で衞侯の手を押さえ、衞が晉に叛く
- 定公九年前501年齊侯が夷儀を討ち、敝無存が死んで手厚く送られる
- 定公十年前500年晉が衞を囲み、叛の理由を糺して涉佗を殺し成何が燕へ亡命する
- 定公十一年前499年鄭と和睦し、鄭が初めて晉に叛く
- 定公十三年前497年齊侯と衞侯が河内を討ち、邴意兹の策が用いられる
- 哀公七年前488年宋が鄭を侵し、晉軍が服さぬ衞を侵す
- 哀公九年前486年鄭が宋の雍丘を囲んで敗れ、趙鞅は卜と筮によって鄭を救わない
- 哀公十年前485年趙鞅が齊を討ち、犂と轅を取って賴まで侵す
- 哀公十七年前478年哀公が齊侯と蒙で盟い、孟武伯が稽首せぬ理由を述べる
- 哀公二十年前475年廩丘で会して晉討伐を謀るが、鄭人が断って軍が引き上げる
襄公二十九年(前544年)
- 晉の平公は杞の女の出であったので杞を厚遇した。六月、知悼子が諸侯の大夫を集めて杞に城を築かせ、孟孝伯が加わった。鄭の子大叔と伯石が赴いた。
- 子大叔が大叔文子に会って語ると、文子は「甚だしいことだ、杞に城を築くとは」と言った。子大叔は「どうしようもない。晉国は周の宗室の欠けを憂えず、夏の残りものを庇っている。諸姫を棄てることも知れよう。諸姫を棄てて、誰が帰しよう。吉は聞いている、同を棄てて異に就くのを離徳という。詩に『その隣と協い比べば、婚姻も孔だ云う』とある。晉は隣とならぬ。誰がこれを云おう」と言った。
- 范獻子が聘問に来た。杞に城を築いたことを謝したのである。
- 晉侯が司馬の女叔侯を遣わして杞の田を処理させたが、すべては返さなかった。晉の悼夫人は憤って「齊(女叔侯)が賄賂を取った。先君に知があるなら、それを取り上げてくださらぬか」と言った。公が叔侯に告げると、叔侯は言った。
- 「虞・虢・焦・滑・霍・揚・韓・魏はみな姫姓です。晉はそれで大きくなった。小を侵さなければ、どこから取れましょう。武公・獻公以下、国を兼ねること多い。誰がそれを処理できましょう。杞は夏の余りでありながら東夷についた。魯は周公の後でありながら晉と睦まじい。杞をもって魯に封じてもよいくらいで、どうして関わりましょう。魯は晉に対して職貢が欠けず、玩好は時に至り、公卿大夫が相次いで朝し、史が書き絶やさず、府が空の月がない。これでよろしい。何も魯を痩せさせて杞を肥やす必要がありましょう。しかも先君に知があるなら、むしろ夫人に問われよ。どうして老臣に用がありましょう」。
- 杞の文公が来て盟った。経に「子」と書いたのは賤しんだのである。
- 冬、孟孝伯が晉へ行った。范叔に報いたのである。
襄公三十年(前543年)
- 二月癸未、晉の悼夫人が杞に城を築いた人夫たちに食を振る舞った。絳県の人で年老いた者があり、子がないので自ら来て食に与った。年齢を疑う者があって年を問わせると、「臣は小人です。年を数えることを知りません。臣の生まれた年の正月甲子朔から、甲子が四百四十五回、その最後は今から三分の一のところです」と答えた。
- 吏が走って朝廷に問うた。師曠は「魯の叔仲惠伯が郤成子と承匡で会した年である。その年、狄が魯を討ち、叔孫莊叔が鹹で狄を破って長狄の僑如と虺と豹を捕らえ、みなその名を子につけた。七十三年になる」と言った。史趙は「亥の字は二の首に六の身、下の二を身のようにすればその日数である」と言い、士文伯は「では二万六千六百六旬である」と言った。
- 趙孟がその県大夫を問うと自分の属であった。召して過ちを詫び、「武は不才にして君の大事を任され、晉国に憂いが多くてあなたを用いられず、あなたを長く泥中に辱めさせた。武の罪です。あえて不才を謝します」と言い、そのまま仕えさせて政を助けさせた。老齢を理由に辞退したので田を与え、君の復陶とし、絳県の師として、その輿尉を廃した。
- このとき魯の使者が晉におり、帰って諸大夫に語った。季武子は「晉を侮ってはならぬ。趙孟を大夫とし、伯瑕を佐とし、史趙と師曠がいて諮り、叔向と女齊が師保としてその君を輔けている。その朝には君子が多い。どうして侮れよう。努めて仕えてこそよい」と言った。
昭公元年(前541年)
- 晉侯が病んだ。鄭伯は公孫僑(子産)を晉へ聘問に遣わし、あわせて病を問わせた。叔向が「寡君の病について、卜人は実沈と臺駘が祟っていると言いますが、史は誰もこの神を知りません。あえて伺う、これは何の神か」と問うた。
- 子産は答えた。「昔、高辛氏に二子があり、兄を閼伯、弟を実沈といい、曠林に居って仲が悪く、日々干戈を求めて征討し合った。后帝はよしとせず、閼伯を商丘へ遷して辰を主らせた。商人がそれに因ったので辰を商星という。実沈を大夏へ遷して参を主らせた。唐人がそれに因って夏と商に服事した。その末世に唐叔虞があった。武王の妃邑姜が大叔を身ごもったとき、帝が自分に『余はお前の子を虞と名づけ、唐を与え、参に属させてその子孫を蕃り育てよう』と言う夢を見た。生まれると手に『虞』の文があったので、そう名づけた。成王が唐を滅ぼして大叔を封じたので、参は晉の星である。これから見れば実沈は参の神です。
- 昔、金天氏に裔子があり昧といい、玄冥の師となって允格と臺駘を生んだ。臺駘はその官を能くし、汾と洮を通し大沢を堤で囲んで太原に住んだ。帝は嘉して汾川に封じた。沈・姒・蓐・黄がまことにその祀を守っている。いま晉が汾を主って滅ぼした。これから見れば臺駘は汾の神です。
- しかしこの二つは君の身に及びません。山川の神には水旱や疫病の災があればこれを禜し、日月星辰の神には雪霜風雨が時ならぬときにこれを禜します。君の身のことなら、出入り・飲食・哀楽の事です。山川星辰の神が何をしましょう。
- 僑は聞いております、君子には四時があり、朝に政を聴き、昼に訪ね問い、夕に令を修め、夜に身を安んじる。そこでその気を節し宣べ、塞ぎ滞らせて体を露にせぬようにする。それで心が爽やかで百度が乱れぬのです。いま一つに偏っておられるのなら、疾を生じましょう。
- 僑はまた聞いております、内官に同姓を用いれば子孫は栄えぬ。美が先に尽きれば互いに疾を生じる。君子はそれゆえこれを憎む。だから記に『妾を買ってその姓を知らねば卜する』とあります。この二つに違うのは古の慎むところ。男女の姓を分けるのは礼の大司です。いま君の内には四人の姫がおられる。それではありませんか。もしこの二つによるなら、どうしようもありません。四姫を減らせばまだよいが、そうでなければ必ず疾を生じましょう」。
- 叔向は「よい言葉だ。肸はまだ聞いたことがない。これはみなその通りだ」と言った。叔向が出ると行人の揮が送った。叔向が鄭の事情を問い、あわせて子晳のことを問うと、「どれほどもちましょう。無礼で人を陵ぐことを好み、富を恃んでその上を卑しむ。長くはもちません」と答えた。晉侯は子産の言を聞いて「博物の君子である」と言い、重く贈物をした。
- 晉侯が秦に医者を求め、秦伯は医和を遣わした。診て「病は治せません。これは女の室に近づきすぎて、疾が蠱のようになったもの。鬼でも食でもなく、惑って志を喪ったのです。良臣がやがて死に、天命が祐けません」と言った。公が「女に近づいてはならぬのか」と問うと、こう答えた。
- 「節されよ。先王の楽は百事を節するためのものです。だから五節があり、遅速・本末が互いに及び、中声で降る。五たび降ればもう弾きません。そこで手を煩わせ淫らな声となり、心耳を紛らし塞いで平和を忘れる。君子は聴きません。物もまた同じで、煩わしくなればやめる。それで疾を生じません。君子が琴瑟に近づくのは儀節のためで、心を紛らすためではありません。
- 天に六気があり、降って五味を生じ、発して五色となり、徴として五声となる。淫らになれば六疾を生じます。六気とは陰・陽・風・雨・晦・明で、分かれて四時となり、序して五節となる。度を過ぎれば災となる。陰が淫らなら寒疾、陽が淫らなら熱疾、風が淫らなら手足の疾、雨が淫らなら腹疾、晦が淫らなら惑疾、明が淫らなら心疾。女は陽の物で晦の時のもの。淫らになれば内熱・惑蠱の疾を生じます。いま君は節せず時を守られぬ。ここに至らずにおれましょうか」。
- 出て趙孟に告げた。趙孟が「良臣とは誰のことか」と問うと、「主のことです。主は晉国の相となって八年、晉国に乱なく諸侯に欠けがない。良といえます。和は聞いております、国の大臣はその寵禄を栄えとし、その大節を任とする。災禍が興っても改まらぬなら、必ずその咎を受ける。いま君は淫らに至って疾を生じ、やがて社稷を図り憂うこともできなくなる。これ以上の禍がありましょうか。主が防げなかった。それゆえ申したのです」と答えた。
- 趙孟が「蠱とは何か」と問うと、「淫らに溺れ惑い乱れることから生じます。文字では皿に虫を蠱といい、穀物の飛ぶ虫もまた蠱です。周易では女が男を惑わし、風が山を落とすのを蠱という。みな同じ物です」と答えた。趙孟は「良医である」と言い、その礼を厚くして帰した。
昭公二年(前540年)
- 晉侯が韓宣子を聘問に遣わし、そのまま齊へ行って納幣させた。
- 夏四月、韓須が齊へ女を迎えに行った。齊の陳無宇が女を送り、少姜を届けた。少姜は晉侯に寵愛され、晉侯は少齊と呼んだ。陳無宇が卿でないとして中都で捕らえた。少姜は取りなして「送る者は迎える者の班に従うものです。大国を畏れてなお替えたのです。それで乱が起きました」と言った。
- 叔弓が晉を聘問した。宣子に報いたのである。晉侯が郊で労わせると辞退して「寡君は弓を遣わして旧好を継がせ、固く『お前はあえて賓客となるな。命を執事に伝えよ』と申されました。我が国は大いに満足しております。どうして郊の使いを辱めましょう。辞退することを請う」と言った。館を提供されると辞退して「寡君は下臣に旧好を継ぐよう命じられました。好誼が合って使いが成るのは臣の禄です。どうして大きな館を辱めましょう」と言った。
- 叔向は「子叔子は礼を知っている。私は聞いている、忠信は礼の器、卑譲は礼の宗である。辞して国を忘れぬのは忠信、国を先にして己を後にするのは卑譲。詩に『威儀を敬み慎み、もって有徳に近づく』とある。あの方は徳に近い」と言った。
- 晉の少姜が卒した。昭公が晉へ行き、河に至ると晉侯は士文伯を遣わして断り、「正妻ではありません。君は辱められますな」と言った。昭公は引き返し、季孫宿がそのまま喪服を届けた。
- 叔向は晉侯に陳無宇のことを言った。「彼に何の罪がありましょう。君は公族に迎えさせ、齊は上大夫に送らせた。それでもなお恭しからずと言われる。君が貪りをもって国に求めれば、恭しからずとしてその使者を捕らえることになる。君の刑はすでに偏っております。何をもって盟主となられよう。しかも少姜にも言い分がある」。冬十月、陳無宇は帰された。
- 十一月、鄭の印段が晉へ弔問に行った。
昭公三年(前539年)
- 春正月、鄭の游吉が晉へ行き、少姜の葬儀を送った。梁丙と張趯が会って、梁丙は「甚だしいことだ、あなたがこのために来られるとは」と言った。
- 子大叔は言った。「已められましょうか。昔、文公・襄公が覇であったとき、その務めは諸侯を煩わせなかった。諸侯に三年ごとの聘問、五年ごとの朝見を命じ、事があれば会し、和さなければ盟った。君が薨ずれば大夫が弔い、卿が葬事に与り、夫人なら士が弔い大夫が送葬する。礼命の事を明らかにし、欠けを謀るだけで、それ以上の命はなかった。いま寵姫の喪に位を択ぶことも許されず、正妻の場合より頻繁になり、ただ罪を得ることを懼れる。どうして煩わしさを憚れましょう。少姜は寵愛されて死んだ。齊は必ず後添えを送る。今年、我らはまた祝いに来ることになる。この一行だけではありません」。
- 張趯は「よい言葉だ。私はこの数を聞けた。しかし今からあなたは事がなくなろう。譬えば火のようなもの。火星が中天に来れば寒暑が退く。これがその極みだ。退かずにおれようか。晉はやがて諸侯を失う。諸侯は煩わしさを求めても得られなくなる」と言った。二大夫が退くと、子大叔は人に「張趯には知がある。なお君子の末に連なる者か」と語った。
- 齊侯が晏嬰を遣わして晉に後添えを請い、こう言わせた。「寡君は嬰に申させます。寡人は君にお仕えして朝夕倦まぬことを願い、質幣を奉じて時を失わぬようにしたいが、国家に難が多くてできませんでした。粗末ながら先君の嫡女を内官に備えて寡人の望みを輝かせたのに、また不幸にも早世して命を落とし、寡人は望みを失いました。君がもし先君の好誼を忘れず齊国を恵み顧み、辱くも寡人を収めて太公・丁公に福を求め、我が国を照臨してその社稷を鎮撫してくださるなら、なお先君の嫡女と遺された姑・姉妹に幾人かおります。君がもし我が国を棄てず、辱くも督して選ばせ嬪嬙に備えてくださるなら、寡人の望みです」。
- 韓宣子は叔向に答えさせた。「寡君の願いです。寡君は独りでその社稷の事を任じきれぬのに、正妻がなく喪中にあり、それゆえまだ請えませんでした。君が命を辱くされた。これ以上の恵みはありません。もし我が国を恵み顧み、晉国を撫して内主を賜れば、寡君だけでなく群臣がまことにその賜物を受けます。唐叔以下がまことに寵し嘉しましょう」。
- 晉の韓起が齊へ女を迎えに行った。公孫蠆は少姜が寵愛されたことから、その娘を公の娘と取り替えて嫁がせた。人は「宣子と子尾が晉を欺いた。晉はなぜ受けるのか」と言った。宣子は「私は齊を得ようとしてその寵を遠ざけている。寵が来ようか」と言った。
- 秋七月、鄭の罕虎が晉へ行って夫人を祝った。張趯は大叔に「あなたが帰られてから、小人は先人の粗末な家を掃き清めて『あなたが来られよう』と申しておりました。いま子皮がまことに来られ、小人は望みを失いました」と言わせた。大叔は「吉は賤しくて来られませんでした。大国を畏れ夫人を尊んだのです。しかも孟(張趯)が『あなたは事がなくなる』と言われた。吉はそれを願っております」と答えた。
昭公四年(前538年)
- 春正月、許男が楚へ行き、楚子が留めた。そのまま鄭伯も留めた。椒舉を晉へ遣わして諸侯を求めた。晉侯は許すまいとしたが、司馬侯が「なりません」と言い、そこで許した。楚は使者を遣わし、叔向に答えさせた。「寡君に社稷の事があり、それゆえ春秋に諸侯と時に見えることができません。君がまことに諸侯を持たれよ。どうして命を辱めましょう」。
昭公六年(前536年)
- 春正月、杞の文公が卒した。弔うこと同盟国と同じにした。礼にかなう。
昭公七年(前535年)
- 三月、昭公が楚へ行った。
- 晉人が来て杞の田を処理した。季孫は成を与えようとした。謝息が孟孫のために守っており、承知せずに言った。「人の言に『瓶を提げる程度の知しかなくとも、守る者は器を貸さぬのが礼である』とあります。あの方は君に従って行かれ、臣が邑を失ったのでは、あなたにも猜疑が向きましょう」。
- 季孫は「君が楚におられるのは晉に対して罪である。そのうえ晉に従わねば魯の罪は重い。晉軍は必ず至る。我らに待ち受ける手立てはない。与えるに如くはない。晉の隙を見て杞から取り戻せばよい。私はあなたに桃を与える。成を返せば誰があえて持てようか。二つの成を得ることになる。魯に憂いがなく孟孫は邑を増す。あなたは何を病むのか」と言った。山がないことを理由に辞退したので、萊と柞を与え、そこで桃へ移った。晉人は杞のために成を取った。
昭公八年(前534年)
- 石が晉の魏榆で物を言った。晉侯が師曠に「石はなぜ言うのか」と問うと、こう答えた。「石は言えません。何かが憑いたのでしょう。そうでなければ民の聴き違いです。しかし臣はまた聞いております、事を起こすのに時にかなわず、怨みの声が民に動けば、言わぬはずの物が言うと。いま宮室は高く奢り、民力は彫り尽くされ、怨みの声が並び起こり、誰もその性を保てません。石が言うのも当然ではありませんか」。このとき晉侯はまさに虒祁の宮を築いていた。
- 叔向は言った。「子野の言は君子である。君子の言は信があって徴がある。だから怨みがその身から遠い。小人の言は僭って徴がない。だから怨みと咎が及ぶ。詩に『哀しいかな、よく言えぬ者は。舌から出るのではなく、ただ躬が瘁れる。よろしいかな、よく言える者は。巧言は流れるがごとく、躬をして休に処らしむ』とあるのは、このことか。この宮が成れば諸侯は必ず叛き、君には必ず咎がある。あの方はそれを知っている」。
- 叔弓が晉へ行き、虒祁を祝った。游吉が鄭伯の相として晉へ行き、これも虒祁を祝った。史趙が子大叔に会って「甚だしいことだ、その互いの欺きは。弔うべきなのに、そのうえ祝うとは」と言った。子大叔は「どうして弔えましょう。我らだけが祝うのではなく、やがて天下がまことに祝いましょう」と答えた。
昭公十年(前532年)
- 春正月、星が婺女に出た。鄭の裨竈は子産に「七月戊子、晉君はやがて死ぬだろう。今年、歳星は顓頊の虚にあり、姜氏と任氏がまことにその地を守る。その維の首に居って妖星がある。邑姜に告げているのだ。邑姜は晉の妣である。天は七をもって紀とする。戊子は逢公が星とともに登った日で、それゆえここに出た。私はそれで譏るのだ」と言った。
- 秋七月、平子が莒を討って郠を取った。
- 戊子、晉の平公が卒した。鄭伯が晉へ行き河に至ると晉人が断ったので、游吉がそのまま晉へ行った。
- 九月、叔孫婼・齊の國弱・宋の華定・衞の北宮喜・鄭の罕虎・許人・曹人・莒人・邾人・滕人・薛人・杞人・小邾人が晉へ行き、平公を葬った。鄭の子皮は幣を持って行こうとしたが、子産は「喪に幣を何に用いる」と言った。子皮は固く請うて持って行った。
- 葬儀が済み、諸侯の大夫はついでに新君に会おうとした。叔孫昭子が「礼ではない」と言ったが聴かなかった。叔向が断って言った。「大夫の事は終わりました。そのうえ孤に命ぜられる。孤は喪服の中にあって心を断たれております。もし嘉服で会えば喪礼が終わっておらず、喪服で会えば重ねて弔いを受けることになる。大夫はどうされますか」。みな返す言葉なく会えなかった。子皮はその幣をすべて使った。
昭公十二年(前530年)
- 齊侯・衞侯・鄭伯が晉へ行った。嗣君に朝したのである。
- 昭公が晉へ行こうとして河に至って引き返した。郠を取った役のことで莒人が晉に訴えたが、晉は平公の喪でまだ処理していなかったので昭公を断ったのである。公子憖はそのまま晉へ行った。
- 晉侯が諸侯を饗応した。子産が鄭伯の相として饗を辞退し、喪を終えてから命を聴くことを請うた。晉人は許した。礼にかなう。
- 晉侯が齊侯と宴し、中行穆子が相となって投壺をした。晉侯が先に「酒は淮のごとく、肉は坻のごとし。寡君これに中れば諸侯の師とならん」と唱えて中てた。齊侯は矢を挙げて「酒は澠のごとく、肉は陵のごとし。寡人これに中れば君と代わって興らん」と唱え、これも中てた。
- 伯瑕は穆子に「あなたは辞を失った。我らはもとより諸侯の師である。壺が何になろう。それが中ったから優れているというのか。齊君は弱いが、我が君が帰れば来なくなるだろう」と言った。穆子は「我が軍帥は強禦で、卒乗は競い励んでいる。いまなお古のごとし。齊が何をしよう」と言った。公孫傁が小走りに進んで「日が暮れました。君はお疲れです。退出されてよろしい」と言い、齊侯を伴って出た。
昭公十三年(前529年)
- 晉が虒祁を完成させたが、諸侯で朝して帰った者はみな二心を抱いた。郠を取った件で晉は諸侯を率いて討とうとした。叔向は「諸侯には威を示さぬわけにいかぬ」と言い、そこで併せて会を徴し、呉に告げた。
- 秋、晉侯が呉子と良で会そうとしたが、水路が通れず呉子が断ったので、場所を移した。七月丙寅、邾の南で兵を整えた。甲車四千乗、羊舌鮒が司馬を代行した。そのまま諸侯を平丘に集めた。
- 子産と子大叔が鄭伯の相として会に加わった。子産は幄幕九張で行き、子大叔は四十張であった。まもなく後悔し、宿営のたびに減らした。会に至っても同じであった。
- 衞の地に陣したとき、叔鮒(羊舌鮒)が衞に賄を求め、草刈りの者に乱暴させた。衞人は屠伯に叔向へ羹と錦一篋を届けさせ、「諸侯が晉に仕えて、あえて二心を抱きません。まして衞は君の軒下にあって、どうして異志を持ちましょう。草刈りの者が平生と違います。あえてお願いします」と言わせた。叔向は羹を受けて錦を返し、「晉に羊舌鮒という者があり、貨を汚して飽くことを知らぬ。やがて及ぶだろう。この役のためにあなたが君命として与えられれば、それでやむ」と言った。客が従うと、まだ退かぬうちに禁じさせた。
- 晉人が盟を継ごうとしたが齊人が承知しなかった。晉侯は叔向を遣わして劉獻公に告げさせ、「齊人が盟わぬならどうすべきか」と言わせた。劉獻公は「盟は信を定めるためのもの。君にまことに信があって諸侯が二心を抱かねば、何を患えましょう。文辞をもって告げ、武師をもって督する。齊が許さずとも君の功は多い。天子の老は王賦を率い、元戎十乗をもって先んじて道を啓くことを請う。遅速はただ君のままに」と答えた。
- 叔向は齊に告げた。「諸侯が盟を求めてすでにここにおります。いま君はそれを利とされぬ。寡君はそれを請います」。「諸侯が二心ある者を討つときは盟を継ぐ。もしみな命を用いるなら、何の盟を継ぐことがあろう」と答えた。
- 叔向は言った。「国家の敗れるのは、事があって業がなければ事は経とならず、業があって礼がなければ経は序とならず、礼があって威がなければ序は共とならず、威があって明らかでなければ共は明とならぬ。明らかでなければ共を棄て、百事が終わらぬ。傾き覆る所以です。それゆえ明王の制は、諸侯に歳ごとの聘問で業を志させ、間を置いて朝させて礼を講じ、再び朝して会し威を示し、再び会して盟い明らかさを顕わす。業を好誼に志し、礼を等級に講じ、威を衆に示し、明らかさを神に昭かにする。古来これを失ったことがない。存亡の道は常にこれによって興ります。晉は礼をもって盟を主り、治まらぬことを懼れて齊の犠牲を奉じて君に布き、事を終えることを求めております。君が『余は必ずこれを廃する。何の齊があろう』と言われるなら、ただ君がお図りください。寡君は命を承りました」。
- 齊人は懼れて「小国が言い、大国が制する。あえて聴き従わぬわけがありません。すでに命を承りました。敬んで供して参りましょう。遅速はただ君のままに」と答えた。
- 叔向は「諸侯に隙がある。衆に示さぬわけにいかぬ」と言った。八月辛未、兵を整えて旗を立てながら靡かせず、壬申に改めて靡かせた。諸侯は畏れた。
- 邾人と莒人が晉に「魯は朝な夕なに我らを討ち、ほとんど滅びかけている。我らが務めを果たせぬのは魯のせいだ」と訴えた。晉侯は昭公に会わず、叔向を遣わして断らせ、「諸侯は甲戌に盟います。寡君は君にお仕えできぬことを知りました。君は労されますな」と言わせた。
- 子服惠伯は「君が蛮夷の訴えを信じて兄弟の国を絶ち、周公の後を棄てられる。ただ君のままに。寡君は命を承りました」と答えた。
- 叔向は「寡君には甲車四千乗がある。無道をもって行っても必ず畏るべきものだ。まして道に率えば、何の敵がありましょう。牛は痩せていても豚の上に倒れれば、豚は死なずにおれぬ。南蒯と子仲の憂いを、どうして棄て置けましょう。もし晉の衆を奉じ諸侯の軍を用い、邾・莒・杞・鄫の怒りに因って魯の罪を討ち、その二つの憂いに乗ずれば、何を求めて得られぬことがありましょう」と言った。魯人は懼れて命を聴いた。
- 甲戌、平丘で同盟した。齊が服したからである。諸侯に正午に除(祭壇の場)へ来るよう命じた。癸酉に退朝すると、子産は外僕に急いで除で幕を張らせた。子大叔は止めて翌日を待たせた。夕方になって子産は幕がまだ張られていないと聞き、急いで行かせたが、もう張る場所がなかった。
- 盟に至って子産は貢の等級を争って言った。「昔、天子は貢の軽重を班に応じて定められた。班が尊ければ貢が重いのが周の制です。しかし卑しくとも貢の重いのは甸服です。鄭伯は男の爵でありながら公侯の貢に従わされている。供しきれぬことを懼れます。あえてお願いします。諸侯が兵を靖んじ好誼を事とし、使者の命が来ぬ月とてない。貢に定めがなく、小国が欠ければ罪を得る所以です。諸侯が盟を修めるのは小国を存続させるため。貢献に際限がなければ滅亡を待つだけです。存亡の分かれ目は今にかかっております」。正午から日暮れまで争って、晉人は許した。
- 盟が済んで子大叔が咎めて「諸侯がもし討てば、汚してよいものか」と言うと、子産は「晉の政は多門で、二心と怠りに手一杯である。どうして討つ暇があろう。国が競わなければ陵がれる。何の国であろう」と言った。
- 昭公は盟に加わらず、晉人は季孫意如を捕らえて帰った。
昭公十四年(前528年)
- 春、意如が晉から帰った。
昭公十五年(前527年)
- 昭公が晉へ行った。平丘の会のためである。
昭公十六年(前526年)
- 春正月、昭公は晉にいた。晉人が昭公を留めたが経に書かない。憚ったのである。
- 齊侯が徐を討った。
- 二月丙申、齊軍が蒲隧に至り、徐人が和を結んだ。徐子と郯人・莒人が齊侯と会して蒲隧で盟い、甲父の鼎を賄賂とした。
- 叔孫昭子は「諸侯に覇者がないのは害である。齊君は無道である。軍を興して遠方を討ち、会して和を成して帰ったのに、誰も抗しない。覇者がないからだ。詩に『宗周すでに滅び、止まり定まる所なし。正大夫は離れ居り、我が労を知る者なし』とあるのは、このことか」と言った。
昭公三十年(前512年)
- 夏六月、晉の頃公が卒した。秋八月に葬った。鄭の游吉が弔い、あわせて送葬した。魏獻子は士景伯に詰らせて「悼公の喪では子西が弔い子蟜が送葬した。いまあなたは二人でない。なぜか」と言わせた。
- 游吉は答えた。「諸侯が晉に帰するのは礼のゆえです。礼とは、小が大に事え大が小を字むことをいう。大に事えるのはその時々の命に供することにあり、小を字むのはその無いところを憐れむことにある。我が国は大国の間にあってその職貢に供し、不慮の患いに備えております。どうして命に供することを忘れましょう。先王の制では、諸侯の喪に士が弔い大夫が送葬する。ただ嘉好の聘享と三軍の事にだけ卿を遣わします。晉の喪事に我が国が暇であれば、先君は紼を執るのを助けたこともあります。もし暇でなければ、士大夫でも数を揃えられぬことがある。大国の恵みは、その加えられたものを慶び、その乏しきを咎めず、その実情を明らかにして備わるだけを取るのを礼とされる。靈王の喪では我が先君簡公が楚におり、我が先の大夫印段がまことに行きました。我が国の少卿です。王の吏は咎めなかった。無いところを憐れんだのです。いま大夫は『お前はなぜ旧例に従わぬのか』と言われる。旧例には豊かなものと省いたものがあり、どちらに従うか分かりません。豊かなほうに従えば寡君は幼弱で供しきれず、省いたほうに従えば吉がここにおります。ただ大夫がお図りください」。晉人は詰れなかった。
定公三年(前507年)
- 蔡の昭侯が楚へ行き、三年留められた。蔡侯は帰って漢に至り、玉を執って沈め、「余がもし漢を渡って南へ行くことがあれば、この大川のごとくあれ」と誓った。
- 蔡侯は晉へ行き、その子の元とその大夫の子を人質として楚討伐を請うた。
定公四年(前506年)
- 春三月、劉文公が諸侯を召陵に集め、楚討伐を謀った。
- 晉の荀寅が蔡侯に賄を求めたが得られず、范獻子に言った。「国家はまさに危うく、諸侯はまさに二心を抱いている。それで敵を襲おうというのは難しいのではないか。長雨がまさに降り、瘧がまさに起こり、中山は服さぬ。盟を棄て怨みを取って、楚に損なうところなく中山を失う。蔡侯を断るに如くはない。我らは方城以来、楚に志を得られぬ。ただ労を取るだけだ」。そこで蔡侯を断った。
- 晉人が鄭に羽旄を借り、鄭人は与えた。翌日、ある者がそれを旗にして会に臨んだ。晉はここにおいて諸侯を失った。
- 衞と会そうとしたとき、子行敬子が靈公に「会同は難しく、口やかましい議論が起こって誰も処理できません。祝佗を従わせられよ」と言った。公は「よろしい」と言い、そこで子魚を遣わそうとした。
- 子魚は辞退して「臣は四体を伸ばして旧職を果たすだけでも供しきれず刑書を煩わせることを懼れております。そのうえ二つを兼ねれば大罪を招きます。しかも祝は社稷の常なる隷です。社稷が動かねば祝は境を出ぬのが官の制です。君が軍で行かれるときは社を祓い鼓に血を塗り、祝が奉じて従う。そこで境を出ます。嘉好の事なら、君が行けば師が従い、卿が行けば旅が従う。臣には事がありません」と言った。公は「行け」と言った。
- 皋鼬に至って蔡を衞より上位にしようとした。衞侯は祝佗にひそかに萇弘へ言わせた。「道路に聞いたことですが、信かどうか分かりません。蔡が衞より先になると聞きましたが、まことでしょうか」。萇弘は「まことだ。蔡叔は康叔の兄である。衞より先でよいではないか」と言った。
- 子魚は言った。「先王をもって観れば、徳を尚ぶのです。昔、武王が商に勝ち成王が定めたとき、明徳ある者を選び建てて周の藩屏とした。だから周公は王室を輔けて天下を治め、周において睦まじかった。魯公には大路・大旂、夏后氏の璜、封父の繁弱、殷民の六族すなわち条氏・徐氏・蕭氏・索氏・長勺氏・尾勺氏を分かち、その宗氏を率い分族を集め類醜を将いて周公に法り則って周で命を受けさせ、魯で職事に就かせて周公の明徳を昭かにした。土田・陪敦、祝宗卜史、備物典策、官司彝器を分かち、商奄の民に因って伯禽と命じ、少皥の虚に封じた。
- 康叔には大路・少帛・綪茷・旃旌・大呂、殷民の七族すなわち陶氏・施氏・繁氏・錡氏・樊氏・饑氏・終葵氏を分かち、封畛と土略は武父から南、圃田の北の境まで、有閻の土を取って王の職に供させ、相土の東都を取って王の東蒐に会させた。聃季が土を授け陶叔が民を授け、康誥をもって命じて殷の虚に封じた。いずれも商政をもって啓き、周の縄をもって疆した。
- 唐叔には大路・密須の鼓・闕鞏・沽洗、懐姓の九宗、職官の五正を分かち、唐誥をもって命じて夏の虚に封じ、夏正をもって啓き、戎の縄をもって疆した。三人はみな叔でありながら令徳があった。だから物を分かってこれを昭かにした。そうでなければ、文王・武王・成王・康王の兄はなお多いのに、この分与を得られなかった。ただ年を尚ばなかったからです。
- 管叔と蔡叔は商を啓いて王室を害し離間した。王はそこで管叔を殺し、蔡叔を放って車七乗・徒七十人とした。その子の蔡仲は行いを改めて徳に率い、周公が挙げて自らの卿士とし、王に会わせて蔡を命じた。その命書に『王曰く、胡よ、お前の父のように王命に違うな』とある。どうして蔡を衞より先にできましょう。
- 武王の同母弟八人のうち、周公は太宰、康叔は司寇、聃季は司空で、五叔は官がなかった。どうして年を尚びましょう。曹は文王の昭、晉は武王の穆です。曹が伯甸となったのは年を尚んだのではありません。いまそれを尚ぶのは先王に反することです。
- 晉の文公が踐土の盟を行ったとき、衞の成公はおらず、夷叔はその同母弟でありながら、なお蔡より先でした。その盟書に『王かくのごとく曰く、晉の重、魯の申、衞の武、蔡の甲午、鄭の捷、齊の潘、宋の王臣、莒の期』とあり、周の府に蔵されていて見返せます。あなたは文王・武王の略を復そうとされながらその徳を正さぬ。どうされるのか」。
- 萇弘は喜び、劉子に告げ、范獻子と謀って、盟では衞侯を上位とした。
- 沈人が召陵に来なかった。晉人は蔡にこれを討たせ、夏、蔡が沈を滅ぼした。
定公五年(前505年)
- 夏、蔡に粟を送った。急を助け、資のない者を憐れんだのである。
定公六年(前504年)
- 二月、定公が鄭を侵して匡を取った。晉のために鄭が胥靡を討ったことを咎めたのである。
- 夏、季桓子が晉へ行って鄭の捕虜を献じた。
- 秋八月、宋の樂祁が景公に「諸侯のうち我らだけが晉に仕えております。いま使いを出さねば晉は恨みましょう」と言った。樂祁は家宰の陳寅に告げた。陳寅は「必ずあなたを行かせるでしょう」と言った。後日、公は樂祁に「ただ寡人はあなたの言を喜ぶ。あなたは必ず行かれよ」と言った。陳寅は「あなたは後嗣を立ててから行かれよ。そうすれば我が家も滅びません。君にもまた、我らが難を知って行ったと思わせられます」と言った。溷(後嗣)に会わせてから出発した。
- 趙簡子が迎えて綿上で酒を飲ませた。楊の楯六十を簡子に献じた。陳寅は「昔、我が主は范氏であった。いまあなたは趙氏を主としている。そのうえ献じ物がある。楊の楯で禍を買うのは、どうにもならぬ。しかしあなたが晉国で死ねば、子孫は必ず宋で志を得よう」と言った。
- 范獻子は晉侯に「君命をもって境を越えて使いしながら、使いを果たさずに私に酒を飲んだ。二君に不敬である。討たぬわけにいかぬ」と言い、そこで樂祁を捕らえた。
定公七年(前503年)
- 秋、齊侯と鄭伯が鹹で盟い、衞に会を徴した。衞侯は晉に叛こうとしたが諸大夫が承知しなかった。北宮結を齊へ遣わし、ひそかに齊侯に「結を捕らえて我らを侵されよ」と言わせた。齊侯は従い、そこで瑣で盟った。
定公八年(前502年)
- 春正月、定公が齊を侵して陽州の門に迫った。
- 二月、定公が齊を侵して廩丘の外郭を攻めた。
- 趙鞅が晉侯に「諸侯のうち宋だけが晉に仕えております。よく迎えてもその使者が来なくなることを懼れるべきなのに、いままた捕らえられた。これは諸侯を絶つことです」と言い、樂祁を帰そうとした。士鞅は「三年留めておいて理由なく帰せば、宋は必ず晉に叛く」と言った。
- 獻子はひそかに子梁(樂祁)に「寡君は宋君に仕えられなくなることを懼れ、それであなたを留めております。あなたはひとまず溷にあなたの代わりをさせられよ」と言った。子梁が陳寅に告げると、陳寅は「宋はやがて晉に叛く。これは溷を棄てることです。留まって待つに如きません」と言った。
- 樂祁は帰る途中、大行で卒した。士鞅は「宋は必ず叛く。その屍を留めて和を求めるに如くはない」と言い、そこで州に留めた。
- 夏、齊の國夏と髙張が魯の西境を討った。晉の士鞅・趙鞅・荀寅が魯を救った。定公は瓦で晉軍と会した。范獻子は羔を執り、趙簡子と中行文子はみな雁を執った。魯はこれから羔を尚ぶようになった。
- 晉軍が鄟澤で衞侯と盟おうとした。趙簡子が「群臣で誰が衞君と盟えるか」と言うと、涉佗と成何が「私にできます」と言った。衞人が牛の耳を執ることを請うと、成何は「衞は我らの温や原のようなもの。どうして諸侯並みに見られよう」と言った。血をすすろうとすると、涉佗が衞侯の手を押さえて腕まで押し込んだ。衞侯は怒った。
- 王孫賈が小走りに進んで「盟は礼を信とするもの。衞君ならば、どうして礼だけを事とせずにこの盟を受けられましょうか」と言った。
- 衞侯は晉に叛こうとしたが諸大夫を患えた。王孫賈は郊に宿らせた。大夫が理由を問うと、公は晉の辱めを語り、あわせて「寡人は社稷を辱めた。改めて嗣を卜されよ。寡人は従う」と言った。大夫は「これは衞の禍です。どうして君の過ちでありましょう」と言った。公が「またもう一つ患いがある。寡人に必ずお前の子と大夫の子を人質にせよという」と言うと、大夫は「もし益があるなら公子は行かせましょう。群臣の子も、あえてみな手綱を負って従わぬはずがありません」と言った。
- 出発の日、王孫賈は「もし衞国に難があれば、工商が患いとならなかったためしがない。みな行かせてからにされよ」と言った。公が大夫に告げると、みな行かせることにした。出発の日が決まると、公は国人を朝に集め、賈に問わせて「もし衞が晉に叛き、晉が五たび我らを討てば、どれほど苦しいか」と言わせた。みな「五たび討たれても、なお戦える」と言った。賈は「では叛いて、苦しくなってから人質を出せばよい。何を遅らせることがあろう」と言った。そこで晉に叛いた。晉人は盟を改めることを請うたが許さなかった。
- 秋、晉の士鞅が成桓公と会して鄭を侵し、蟲牢を囲んだ。伊闕に報いたのである。そのまま衞を侵した。
- 九月、魯軍が衞を侵した。晉のためである。
定公九年(前501年)
- 秋、齊侯が晉の夷儀を討った。敝無存の父が妻を娶らせようとすると、辞退して弟に譲り、「この役で死なずに帰れば、必ず髙氏・國氏から娶る」と言った。先に城壁に登り、自ら門から出ることを求め、霤の下で死んだ。
- 東郭書が先に登るのを譲り、犂彌が従って「あなたが譲って左へ行かれるなら、私は譲って右へ行こう」と言った。登る者が絶えてから降りることにした。書が左、彌が先に降りた。書は王猛と休んだ。猛が「私が先に登った」と言うと、書は甲を収めて「先ほどの難儀に、また難儀を重ねるのか」と言った。猛は笑って「私はあなたに従うこと、驂馬が靳に従うようなものだ」と言った。
- 晉の車千乗が中牟にあった。衞侯が五氏へ行こうとして、通ることを卜すると亀が焦げた。衞侯は「よろしい。衞の車がその半ばに当たり、寡人が半ばに当たれば敵する」と言い、そこで中牟を通った。中牟の人が討とうとすると、衞の褚師圃が亡命して中牟にいて、「衞は小さいがその君がおられる。まだ勝てぬ。齊軍は城に克って驕り、その帥もまた賤しい。遭えば必ず破れる。齊に従うに如くはない」と言った。そこで齊軍を討って破った。齊侯は禚・媚・杏を衞に贈った。
- 齊侯が犂彌に賞そうとすると、犂彌は辞退して「先に登った者があり、臣は従ったのです。白い幘に貍の製の衣を着ておりました」と言った。公が見させると東郭書であった。「あの方だ。私はあなたに譲る」と言い、公は東郭書に賞した。書は辞退して「彼は賓客の旅人です」と言い、そこで犂彌に賞した。
- 齊軍が夷儀にいたとき、齊侯は夷儀の人に「敝無存の屍を得た者は五家を免ずる」と言い、そこでその屍を得た。公は三たび襚を献じ、犀の軒車と直の蓋を与えて先に帰し、車を引く者に座って軍とともに哭させ、自ら三たび押した。
定公十年(前500年)
- 春、齊と和睦した。
- 夏、定公が齊侯と祝其で会した。実は夾谷である。
- 晉の趙鞅が衞を囲んだ。夷儀に報いたのである。
- はじめ衞侯が邯鄲の午を寒氏で討ち、その西北に城を築いて守ったが、夜のうちに火が消えた。晉が衞を囲んだとき、午は徒七十人で衞の西門を攻め、門中で人を殺して「寒氏の役に報いることを請う」と言った。涉佗は「あの方は勇である。しかし私が行けば必ず門を開けまい」と言い、やはり徒七十人で朝に門へ迫った。左右に歩いて至り、植えたように立った。正午まで門は開かず、そこで退いた。
- 役から帰り、晉人は衞の叛いた理由を糺し、「涉佗と成何による」と言った。そこで涉佗を捕らえて衞に和を求めたが、衞人は許さなかった。晉人はついに涉佗を殺し、成何は燕へ亡命した。
- 君子は「これを礼を棄てれば必ず均しからずというのだ。詩に『人にして礼なくば、なんぞ速やかに死せざる』とある。涉佗もまた速やかであった」と評した。
定公十一年(前499年)
- 冬、鄭と和睦した。初めて晉に叛いたのである。
定公十二年(前498年)
- 夏、衞の公孟彄が曹を討って郊に克って帰った。滑羅が殿を務め、まだ出ぬうちに隊列から退かなかった。その御者が「殿でありながら隊列にいるのは、勇がないことになりませんか」と言った。羅は「かねてより厲しくするより、むしろ勇なきほうがよい」と言った。
定公十三年(前497年)
- 春、齊侯と衞侯が垂葭、実は郹氏に陣し、軍に晉を討たせようとした。河を渡ろうとすると諸大夫はみな「なりません」と言った。邴意兹は「できます。精鋭で河内を討てば、伝令は必ず数日かかって絳に至り、絳は三か月かからねば出られません。河なら我らはすでに渡っております」と言った。そこで河内を討った。齊侯は諸大夫の軒車をみな取り上げ、ただ邴意兹だけが軒車に乗った。
- 齊侯は衞侯と同乗しようとして宴を設け、その間に乗広を駕して甲を載せ、使いに「晉軍が来た」と告げさせた。齊侯は「君が車を出されるまで、寡人が代わりを務めよう」と言い、甲を着けてともに乗って駆けた。ある者が「晉軍はおりません」と告げたので、そこでやめた。
哀公七年(前488年)
- 春、宋軍が鄭を侵した。鄭が晉に叛いたからである。
- 晉軍が衞を侵した。衞が服さなかったからである。
哀公九年(前486年)
- 鄭の武子賸の寵臣である許瑕が邑を求めたが、与えるものがなかった。外から取ることを請い、許した。それで宋の雍丘を囲んだ。宋の皇瑗が鄭軍を囲み、日ごとに宿営を移し、塁が合わさった。鄭軍は哭した。子姚が救ったが大敗した。二月甲戌、宋は雍丘で鄭軍を捕らえ、有能な者は殺さず、郟張と鄭羅を連れ帰った。
- 宋公が鄭を討った。晉の趙鞅が鄭を救うことを卜すると、水が火に適う卦を得た。史趙・史墨・史龜に占わせた。史龜は「これを沈陽といい、兵を興せる。姜を討つに利あり、子・商には利がない。齊を討つならよいが、宋に敵するのは不吉」と言った。史墨は「盈は水の名、子は水の位。名と位が敵しており犯せません。炎帝は火師で姜姓、その後です。水は火に勝つので姜を討つならよい」と言った。史趙は「これを川の満ちるがごとしといい、游げません。鄭にはまさに罪がある。救えません。鄭を救えば不吉。その他は分かりません」と言った。
- 陽虎が周易で筮すると泰の需に変ずるのを得、「宋はまさに吉で、与するわけにいかぬ。微子啓は帝乙の元子であり、宋と鄭は甥舅である。祉は禄。もし帝乙の元子が妹を嫁がせて吉禄があるなら、我らがどうして吉を得よう」と言った。そこでやめた。
哀公十年(前485年)
- 夏、趙鞅が軍を率いて齊を討った。大夫が卜することを請うと、趙孟は「私はこれについて卜した。兵事は二度令せず、卜は吉を重ねぬ。行くのみだ」と言った。そこで犂と轅を取り、髙唐の外郭を毀ち、賴まで侵して引き返した。
哀公十七年(前478年)
- 哀公が齊侯と会して蒙で盟った。孟武伯が相となった。齊侯が稽首すると哀公は拝しただけであった。齊人が怒ると、武伯は「天子でなければ寡君は稽首する所がありません」と言った。
- 武伯が髙柴に「諸侯の盟では誰が牛の耳を執るのか」と問うと、季羔は「鄫衍の役では呉の公子姑曹、發陽の役では衞の石魋でした」と答えた。武伯は「では彘(自分)だな」と言った。
哀公二十年(前475年)
- 春、齊人が来て会を徴した。夏、廩丘で会した。鄭のために晉討伐を謀ったのである。鄭人が断り、秋、軍は引き上げた。
史論(士竒)
- 晉は悼公が没してから覇業が再び衰え、諸侯は二心を抱いた。その理由はいくつかある。
- 平公は杞の女の出であり、恩を母の家に及ぼして諸侯を興し杞に城を築かせながら、宗周の欠けを憂えなかった。失の一である。
- 少姜という寵姫のために一時の公卿を奔走させ、大義によって諸侯を勤めさせるのでなかった。無宇を怒って捕らえ、魯公を留めて受け入れず、閨房の私に溺れて親を親しむ道に暗かった。失の二である。
- 虒祁の宮を築き、下には鐘鼓を並べ上には千の兵を出せるほどにした。怨みの声が並び起こり石の妖異が現れ、内には四姫が侍って族姓が分かれず、淫らに溺れ惑い乱れて、まことに蠱疾を生じた。失の三である。
- 邾と莒の訴えを信じて兄弟の歓を絶った。羽毛と骨肉、順序が違うのではないか。まして郠と鄆の一件は昭公の意でもなかった。失の四である。
- 衞侯は晉の同姓であり、天子の藩を守る国である。晉が強くとも、どうして無礼を加えられよう。涉佗が何者であってその手を押さえ、しかも「衞は我らの温や原のようなもの。どうして諸侯並みに見られよう」と言うのか。侮り慢ること甚だしいではないか。失の五である。
- この五つの不当のうち一つでもあれば諸侯を失うに足りる。まして政が多門から出て賄賂に従い、草刈りの者に乱暴させて羊舌鮒が衞から錦を取った。子産が貢の等級を争って小国の誅求は困窮を極めた。羽旄を借りて谷のような欲を恣にした。楊の楯が届かぬからと使臣を客館に繋いだ。意如を捕らえたり放したり、喜怒がみな利によって動き、覇者の威は頓挫した。
- ことに異なことは、蔡侯が一つの裘と一つの佩玉のことで囊瓦に三年留められ、漢を渡って誓い、覇者の廷に頓首して愛子を人質に出したことである。晉が荊楚を打ち懲らして憤懣を晴らしてくれると思ったのだ。ところが召陵の役で十八国の軍を合わせ、その勢いは「これを滅ぼしてから朝飯にする」ほどであったのに、ついに一人の悪しき荀寅に阻まれた。覇政の壊れがここまで至って、天下が旧きを捨てて新しきを図らずにいられようか。
- だから投壺には「代わって興る」の思いがこめられ、鼎を献じては蒲隧の盟に従った。晉の号令は故絳から出ず、中原の伯叔は人それぞれに政を執るようになった。それでも晉は悟らず、兵甲の威を恃み恫喝の術を逞しくし、力による征伐で経営しようとしてやまなかった。行き過ぎではないか。ああ、叔向ほどの賢者でありながら見識がここに及ばなかったのは惜しいことである。