左傳紀事本末晉、戎狄を併せる(文公襄公の覇業に詳しいものは重ねて載せず/長狄を付す)(晉并戎狄(詳文襄伯業者不/復重載 長狄附))
晉が四方の戎狄——赤狄・長狄(鄋瞞)・陸渾・肥・鼓・鮮虞——を併呑していく過程を、僖公八年(前652年)から定公五年(前505年)まで集めた篇。采桑の役で里克が追撃を控えて翌年また狄が来たことから始まり、宣公十五年(前594年)に酆舒の五罪を数えて潞を滅ぼし、士會が甲氏・留吁・鐸辰を滅ぼした。昭公元年(前541年)には魏舒が車を毀って歩兵の陣を作り、大原で群狄を破った。荀呉は肥・鼓・陸渾を次々に滅ぼす。史論は、鼓を囲んだ役での穆子の義を称え、陸渾を詐術で襲ったことと車戦の法を失わせたことを咎める。
年表(20件)
- 僖公八年前652年里克が采桑で狄を破り追撃せず、夏に狄が報復に来る
- 僖公十六年前644年狄が晉を侵して狐廚と受鐸を取り、昆都に至る
- 僖公二十二年前638年秦と晉が陸渾の戎を伊川へ移す
- 文公十一年前616年叔孫得臣が鹹で狄を破り、長狄の僑如を捕らえる
- 宣公六年前603年赤狄が晉を討ち、中行桓子がその悪の満ちるのを待つよう説く
- 宣公七年前602年赤狄が晉を侵して向陰の禾を取る
- 宣公十一年前598年郤成子が衆狄と和し、欑函で会して衆狄が晉に服する
- 宣公十三年前596年先縠が招いて赤狄が晉を討ち、清に至る
- 宣公十五年前594年伯宗が狄の五罪を数え、荀林父が赤狄を破って潞を滅ぼす
- 宣公十六年前593年士會が赤狄の甲氏・留吁・鐸辰を滅ぼす
- 成公三年前588年郤克と孫良夫が赤狄の残りの廧咎如を討ち、潰える
- 昭公元年前541年魏舒が車を毀って歩兵の陣を作り、大原で無終と群狄を破る
- 昭公十二年前530年荀呉が鮮虞に道を借りて昔陽に入り、肥を滅ぼす
- 昭公十三年前529年荀呉が備えなき鮮虞を侵し、中人まで駆け入って帰る
- 昭公十五年前527年荀呉が鼓を囲み、叛いた者を受け入れず力尽きるのを待って取る
- 昭公十七年前525年祭を口実に荀呉が陸渾を滅ぼし、捕虜を文宮に献ずる
- 昭公二十一年前521年鼓が晉に叛き、晉は鮮虞討伐のため昭公の来訪を断る
- 昭公二十二年前520年荀呉が兵を穀物商に装わせて鼓を襲い、滅ぼす
- 定公三年前507年鮮虞人が平中で晉軍を破り、晉の觀虎を捕らえる
- 定公五年前505年士鞅が鮮虞を囲み、觀虎の役に報いる
僖公八年(前652年)
- 晉の里克が軍を率い、梁由靡が御し虢射が右に立って、采桑で狄を破った。梁由靡は「狄には恥がない。追えば必ず大勝できる」と言ったが、里克は「懼れさせるだけでよい。多くの狄を招くな」と言った。虢射は「一年で狄は必ず来る。弱みを示したのだ」と言った。
- 夏、狄が晉を討った。采桑の役に報いたのである。また一年で来た。
僖公十六年(前644年)
- 秋、狄が晉を侵して狐廚と受鐸を取り、汾を渡って昆都に至った。晉の敗戦に乗じたのである。
僖公二十二年(前638年)
- はじめ平王が東遷したとき、辛有が伊川へ行き、髪を振り乱して野で祭る者を見て「百年たたぬうちにここは戎の地となろう。その礼が先に亡んだ」と言った。
- 秋、秦と晉が陸渾の戎を伊川へ移した。
文公十一年(前616年)
- 鄋瞞が齊を侵し、そのまま魯を討った。文公が叔孫得臣に追撃させることを卜すると吉と出た。侯叔夏が莊叔の車を御し、緜房甥が右に立ち、富父終甥が四人目に乗った。
- 冬十月甲午、鹹で狄を破り、長狄の僑如を捕らえた。富父終甥がその喉を戈で突いて殺し、その首を子駒の門に埋め、それを宣伯の名とした。
- はじめ宋の武公の代、鄋瞞が宋を討った。司徒の皇父が軍を率いて防ぎ、耏班が皇父充石の車を御し、公子穀甥が右に立ち、司寇の牛父が四人目に乗って、長丘で狄を破り、長狄の緣斯を捕らえた。皇父の二子が戦死した。宋公はそこで耏班に門を賞してその関税を食ませ、これを耏門と呼んだ。晉が潞を滅ぼしたとき、僑如の弟の焚如を捕らえた。齊の襄公二年、鄋瞞が齊を討ち、齊の王子成父がその弟の榮如を捕らえ、その首を周首の北門に埋めた。衞人はその末弟の簡如を捕らえた。鄋瞞はこれによってついに滅んだ。
宣公六年(前603年)
- 秋、赤狄が晉を討ち、懷を囲んで邢丘に至った。晉侯は討とうとしたが、中行桓子は「その民を苦しめさせてその悪の升目を満たさせれば、殪せましょう。周書に『戎殷を殪す』とあるのは、この類をいうのです」と言った。
宣公七年(前602年)
- 夏、赤狄が晉を侵して向陰の禾を取った。
宣公十一年(前598年)
- 晉の郤成子が衆狄と和を求めた。衆狄は赤狄の使役を苦しんでおり、そのまま晉に服した。秋、欑函で会した。衆狄が服したのである。
- この行事で、諸大夫は狄を召そうとした。郤成子は「私は聞いている、徳でなければ勤めるに如くはなく、勤めずして何をもって人を求めよう。よく勤めれば継ぐ者がある。こちらから行くべきだ。詩に『文王すでに勤めたり』とある。文王でさえ勤めた。まして徳の寡ない者は」と言った。
宣公十三年(前596年)
- 秋、赤狄が晉を討って清に至った。先縠が招いたのである。
宣公十五年(前594年)
- 潞子嬰兒の夫人は晉の景公の姉であった。酆舒が政を執って夫人を殺し、また潞子の目を傷つけた。晉侯が討とうとすると、諸大夫はみな「なりません。酆舒には三つの優れた才がある。その後の人を待つに如きません」と言った。
- 伯宗は言った。「必ず討つべきです。狄には五つの罪がある。優れた才が多くとも何の補いになりましょう。祀らぬのが一、酒に耽るのが二、仲章を棄てて黎氏の地を奪ったのが三、我が伯姫を虐げたのが四、その君の目を傷つけたのが五。その優れた才を恃んで徳を茂らせぬのは、いよいよ罪を増すもの。後の人はあるいは徳義を敬み奉って神と人に仕え、その命を申べ固めるかもしれません。どうして待てましょう。罪ある者を討たずに『後を待つ』と言い、後が言い分を持ってから討つのでは、よろしくないのでは。才と衆を恃むのは滅びの道です。商の紂がそれによって滅びました。天が時に反すれば災、地が物に反すれば妖、民が徳に反すれば乱。乱れれば妖と災が生じる。だから文字で正に反するのを乏という。すべて狄にあります」。晉侯は従った。
- 六月癸卯、晉の荀林父が曲梁で赤狄を破り、辛亥、潞を滅ぼした。酆舒は衞へ亡命したが、衞人は晉へ送り返し、晉人が殺した。
- 秋七月壬午、晉侯が稷で兵を整えて狄の地を掠め、黎侯を立てて引き上げた。
- 晉侯は桓子(荀林父)に狄の臣千室を賞し、また士伯に瓜衍の県を賞して「私が狄の土地を得たのはあなたの功である。あなたがいなければ、私は伯氏を失っていた」と言った。
宣公十六年(前593年)
- 春、晉の士會が軍を率いて赤狄の甲氏および留吁・鐸辰を滅ぼした。
成公三年(前588年)
- 晉の郤克と衞の孫良夫が廧咎如を討った。赤狄の残りを討ったのである。廧咎如は潰えた。上が民を失ったからである。
昭公元年(前541年)
- 晉の中行穆子が無終および群狄を大原で破った。歩兵を重んじたのである。
- 戦おうとするとき、魏舒は「彼らは歩兵で我らは車。しかも遭遇した地は狭い。十人で一車に当たれば必ず勝てましょう。狭い所で苦しめてなお勝つ。みな歩兵とすることを請う。私から始めます」と言った。そこで車を毀って隊列とし、五乗を三伍とした。荀呉の寵臣が歩兵につくのを肯んじなかったので、斬って軍に示した。
- 五つの陣を作って互いに離し、両を前に、伍を後に、専を右角、参を左角、偏を前拒として誘った。翟人は笑った。まだ陣を敷かぬうちに迫り、大いに破った。
昭公十二年(前530年)
- 晉の荀呉が齊軍と会するふりをして鮮虞に道を借り、そのまま昔陽に入った。秋八月壬午、肥を滅ぼし、肥子の緜臯を連れ帰った。
- 晉が鮮虞を討った。肥の役に因るものである。
昭公十三年(前529年)
- 鮮虞人は晉軍がことごとく起こったと聞きながら辺境を警めず、備えも修めなかった。晉の荀呉は著雍から上軍で鮮虞を侵し、中人に至り、駆けて突入し、大いに獲物を得て帰った。
昭公十五年(前527年)
- 晉の荀呉が軍を率いて鮮虞を討ち、鼓を囲んだ。鼓の人のある者が城をもって叛くことを請うたが、穆子は許さなかった。左右は「軍を労せずに城を得られるのに、なぜなさらぬのか」と言った。
- 穆子は言った。「私は叔向から聞いている、好悪が違わなければ民は行くべき所を知り、事は成らぬことがないと。誰かが我が城をもって叛くのは、私の甚だ憎むところだ。人が城を持って来たからといって、私だけがどうして好もう。甚だ憎むものに賞すれば、好むものはどうなる。もし賞さなければ信を失う。何をもって民を庇おう。力が能くすれば進み、そうでなければ退く。力を量って行う。私は城を欲して姦に近づくわけにいかぬ。失うものが多くなる」。
- 鼓の人に叛いた者を殺させて守備を繕わせた。鼓を囲むこと三か月、鼓の人のある者が降ることを請うた。その民に会わせると、なお食の色があったので「ひとまずお前の城を修めよ」と言った。軍吏は「城を得ながら取らず、民を労し兵を疲れさせて、何をもって君に仕えるのか」と言った。
- 穆子は「私はこれで君に仕えるのだ。一邑を得て民に怠りを教えては、邑を何に用いよう。邑によって怠りを買うのは、旧来のものを完うするに如かぬ。怠りを買えば終わりを全うできず、旧きを棄てるのは不祥である。鼓の人がよくその君に仕えられるなら、我らもまたよく我が君に仕えられる。義に率って違わず好悪が違わなければ、城は得られて民は義を知る。命に死んで二心なき者がある。よいではないか」と言った。鼓の人が食尽き力尽きたと告げてから取った。鼓に克って帰り、一人も戮さず、鼓子の䳒鞮を連れ帰った。
昭公十七年(前525年)
- 晉侯が屠蒯を周へ遣わし、雒と三塗で祭を行うことを請うた。萇𢎞は劉子に「客の容が猛々しい。祭ではない。戎を討つのだろう。陸渾氏は甚だ楚と睦まじい。必ずそのためだ。君は備えられよ」と言い、そこで戎への備えを警めた。
- 九月丁卯、晉の荀呉が軍を率いて棘津から渡り、祭史に先に雒で犠牲を用いさせた。陸渾人は気づかず、軍が続いた。庚午、そのまま陸渾を滅ぼし、楚に二心を抱いたことを数え立てた。陸渾子は楚へ亡命し、その衆は甘鹿へ逃げ、周は大いに獲物を得た。
- 宣子は文公が荀呉を連れて陸渾を授ける夢を見た。それゆえ穆子に軍を率いさせ、捕虜を文宮に献じさせた。
昭公二十一年(前521年)
- 昭公が晉へ行き、河に至ったとき鼓が晉に叛いた。晉は鮮虞を討とうとしたので昭公を断った。
昭公二十二年(前520年)
- 晉が鼓を取ったとき、献じてから鼓子を返した。それがまた鮮虞に叛いた。六月、荀呉が東陽を掠め、兵に穀物を買う者を装わせ甲を負って昔陽の門外で休ませ、そのまま鼓を襲って滅ぼし、鼓子の䳒鞮を連れ帰り、涉佗に守らせた。
定公三年(前507年)
- 秋九月、鮮虞人が平中で晉軍を破り、晉の觀虎を捕らえた。その勇を恃んだからである。
定公五年(前505年)
- 晉の士鞅が鮮虞を囲んだ。觀虎の役に報いたのである。
史論(士奇)
- 晉は四面みな狄であった。ただ姜戎だけが晉に隷属して侵さず犯さぬ臣であった。赤狄はその北、すなわち潞氏である。陸渾はその南、秦と晉が伊川へ移した者である。鮮虞はその東、いわゆる中山で服さなかった者である。白狄はその西、かつて秦とともに晉を討った者である。だから「狄の広莫、晉の土を啓くも宜ならずや」というのは、群狄を兼ねて領土としたからである。
- そもそも狄は信義では服させられぬ。大きく痛めつけなければその魂を震わせて数年の安らぎを望むことはできない。だから里克の「懼れさせるだけでよい」という言は虢射の言に及ばない。采桑で破って一年で再び来たのは、戎を防ぐ者の明らかな鑑とできる。
- 長狄はある説では赤狄の潞氏だという。兄弟三人が中国を渡り歩き、矢石も傷つけられなかった。おそらく防風氏の類で、鄋瞞に国したのであろう。潞を滅ぼして捕らえたのは、たまたま流れて潞に来た者であって潞の種族ではない。
- 酆舒は伯姫を殺し、また嬰兒の目を傷つけた。優れた才があっても討たぬわけにいかぬ。しかしその罪人を戮すれば法として十分である。その土地を貪って滅ぼし尽くしたのは、あまりに酷である。
- 肥と鮮虞はみな晉が呑もうとした国である。しかし鼓を囲んだ役では叛いた者を受け入れず、城をもって降ることを請われても、なお食の色があるのを見て城を修めさせ、食尽き力尽きるのを待ってから取った。義を勧め怠りを懲らすためであり、鼓の人のためだけでなく晉国のためでもある。䳒鞮を捕らえてまた帰したのに、ついに不義をなして自ら滅亡を招いた。晉の罪ではない。
- 陸渾は王都に迫り、南は楚と親しんだ。これは門庭の寇であって除かぬわけにいかぬ。晉が王命を請い王師を総べて臨めば、志を得られぬはずがない。それなのにあえて詐りの術を用いて天子を欺いた。陸渾の土地を利として王室が分け持つことを懼れたのである。
- 中行穆子は大鹵の勝利を貪り、車を毀って歩兵を重んじ、ついに車戦の法を失わせた。これもまた嘆かわしいことである。