左傳紀事本末晉と楚の覇権争い(靈公から厲公まで/楚の莊王の覇図を付す)(晉楚爭伯(靈公至厲公附/楚莊王圖霸))
晉の靈公・成公・景公と楚の穆王・莊王が中原の覇を争った時期を、文公九年(前618年)から宣公十八年(前591年)まで扱う篇。編者は晉を内、楚を外として題を立てる。鄭・陳・宋が晉と楚の間で去就を繰り返し、楚の莊王は雒で鼎の軽重を問い、陳の夏氏の乱に乗じて陳を県としながら申叔時の諫めで復した。宣公十二年(前597年)、鄭を降した楚と晉が邲で戦い、荀林父の中軍は舟を争って大敗した。莊王は京観を築くことを退け、武の七徳を説いた。続く宋の囲みでは、華元が夜に子反の牀に登って「子を交換して食う」窮状を告げ、三十里退かせて和を結んだ。
年表(25件)
- 篇目の題意(按語)晉を内・楚を外として「晉楚爭伯」と題した理由を述べる
- 文公九年前618年楚が鄭を討ち陳を侵し、晉の救援は間に合わない
- 文公十年前617年厥貉の会で宋が楚に従い、孟諸の狩で宋公の御者が鞭打たれる
- 文公十一年前616年楚が麇を討ち、承匡の会で楚に従う諸侯のことを謀る
- 文公十三年前614年文公が晉に朝し、衞侯と鄭伯のために晉との和を成立させる
- 文公十四年前613年新城で同盟し、楚に従っていた者が服する
- 文公十五年前612年郤缺が蔡を討って城下の盟を結び、扈の盟は齊の賄賂で果たせない
- 文公十六年前611年宋人がその君の杵臼を弑する
- 文公十七年前610年鄭の子家が趙宣子に書を送り、小国の苦衷を訴える
- 宣公元年前608年鄭が楚から盟を受け、趙盾が陳と宋を救って北林で解揚を失う
- 宣公二年前607年大棘の戦いで華元が捕らえられ、羊斟の私憤が宋軍を敗らせる
- 宣公三年前606年楚子が雒で兵を観閲し、王孫滿が鼎の軽重は問うべきでないと答える
- 宣公四年前605年楚子が鄭を討つ
- 宣公五年前604年楚子が鄭を討ち、晉の荀林父が鄭を救って陳を討つ
- 宣公六年前603年晉と衞が陳を侵し、楚人が鄭を討って和を結ぶ
- 宣公七年前602年鄭が晉と和睦し、黒壤で盟って睦まじからぬ者を謀る
- 宣公八年前601年陳が晉と和睦し、楚軍が陳を討って和を結ぶ
- 宣公九年前600年陳の靈公らが夏姫と通じ、諫めた洩冶が殺される
- 宣公十年前599年夏徴舒が陳の靈公を射殺し、孔寧と儀行父が楚へ亡命する
- 宣公十一年前598年楚子が夏徴舒を車裂きにして陳を県とし、申叔時の諫めで復す
- 宣公十二年前597年楚が鄭を降し、邲で晉軍を大敗させ、莊王が京観を退けて武の七徳を説く
- 宣公十三年前596年楚子が宋を討ち、清丘の盟で宋だけが咎を免れる
- 宣公十四年前595年衞の孔達が縊れて釈明とし、申舟が宋に殺されて楚子が宋を囲む
- 宣公十五年前594年解揚が命を守って宋に告げ、華元が子反と盟って楚が三十里退く
- 宣公十八年前591年七月甲戌、楚の莊王が卒する
篇目の題意(按語)
- 春秋の世で楚だけが王を僭称した。春秋の志は尊王にあり、それゆえ覇を認める。覇を認めるのは尊王のためであり、楚を攘えるからである。春秋は始めから終わりまで晉に覇を認めるので、楚の莊王は賢であっても晉の成公・景公を蔑ろにして覇を認めるわけにはいかない。まして覇は楚を攘わなければ成らぬ以上、楚に覇を認められようか。
- ゆえに文公・襄公の後、悼公の前、晉の靈公・成公・景公・厲公と楚の穆王・莊王の世を「晉楚爭伯」と題した。晉を内とし楚を外とするのである。ああ、靈公・成公以下が悼公のようであったなら、楚は争うことすらできなかったであろう。綱目が南北朝を分けて書くのに倣い、ひそかにその例を取った。
文公九年(前618年)
- 春、范山が楚子に「晉君は幼く諸侯を掌握していない。北方は図れます」と言った。楚子は狼淵に軍を出して鄭を討ち、公子堅・公子尨・樂耳を捕らえた。鄭は楚と和睦した。公子遂が晉の趙盾・宋の華耦・衞の孔達・許の大夫と会して鄭を救ったが、楚軍に間に合わなかった。卿を書かないのは遅れたからで、恪しくなかったことを懲らしめたのである。
- 夏、楚が陳を侵して壺丘を落とした。陳が晉に服したからである。
- 秋、楚の公子朱が東夷から陳を討ったが、陳人が破って公子茷を捕らえた。陳は懼れて楚と和睦した。
文公十年(前617年)
- 秋、陳侯と鄭伯が楚子と息で会した。冬、そのまま蔡侯とともに厥貉に陣し、宋を討とうとした。宋の華御事は「楚は我らを弱めようとしている。先んじて弱く出よう。なぜ誘わせるまで待つのか。我らがまことに至らぬのだ。民に何の罪があろう」と言い、楚子を迎えて労い命に従った。
- そのまま案内して孟諸で狩をした。宋公が右の陣、鄭伯が左の陣を担い、期思公の復遂が右司馬、子朱と文之無畏が左司馬となった。早朝に車を出し火種を載せよと命じたが、宋公が命に違ったので、無畏はその御者を鞭打って軍中に示した。ある者が子舟(無畏)に「国君は辱めてはならぬ」と言うと、子舟は「官に当たって行うのに、何の強さがあろう。詩に『剛きも吐かず、柔らかきも茹らわず、詭随を縦にせず、罔極を謹め』とある。これも強きを避けぬということだ。どうして死を惜しんで官を乱そうか」と答えた。
- 厥貉の会で麇子が逃げ帰った。
文公十一年(前616年)
- 春、楚子が麇を討ち、成大心が防渚で麇軍を破り、潘崇が改めて麇を討って錫穴まで至った。
- 夏、叔仲惠伯が晉の郤缺と承匡で会し、楚に従う諸侯のことを謀った。
- 秋、襄仲が宋を聘問し、あわせて楚軍の害がなかったことを祝った。
文公十三年(前614年)
- 冬、文公が晉へ行って朝し、あわせて盟を継いだ。衞侯が沓で文公と会し、晉との和を請うた。文公が帰る途中、鄭伯が棐で会し、これも晉との和を請うた。文公はいずれも成立させた。
- 鄭伯が棐で文公と宴した。子家が鴻雁を賦すと、季文子は「寡君もこの憂いを免れておりません」と言い、四月を賦した。子家が載馳の第四章を賦すと、文子は采薇の第四章を賦した。鄭伯は拝し、文公は答拝した。
文公十四年(前613年)
- 夏六月、新城で同盟した。楚に従っていた者が服したので、あわせて邾のことを謀った。
- 齊の商人が舎を弑し、齊人は懿公を定めた。
文公十五年(前612年)
- 新城の盟に蔡人が加わらなかった。晉の郤缺が上軍・下軍で蔡を討ち、「君は幼い。怠るわけにはいかぬ」と言った。戊申、蔡に入り、城下の盟を結んで帰った。およそ国に勝つのを「滅」といい、大城を得るのを「入」という。
- 秋、齊人が魯の西境を侵したので、季文子が晉に告げた。
- 冬十一月、晉侯・宋公・衞侯・蔡侯・陳侯・鄭伯・許男・曹伯が扈で盟い、新城の盟を継ぎ、あわせて齊討伐を謀った。齊人が晉侯に賄賂を贈ったので、果たせずに引き上げた。このとき齊の難があったので文公は会に出なかった。経に「諸侯が扈で盟う」と書いたのは、何もできなかったからである。およそ諸侯の会に公が加わらなければ書かない。君の悪を憚るのである。加わって書かないのは遅れたからである。
- 齊侯が魯の西境を侵した。諸侯は何もできまいと考えたのである。
文公十六年(前611年)
- 冬十一月、宋人がその君の杵臼を弑した。
文公十七年(前610年)
- 春、晉の荀林父・衞の孔達・陳の公孫寧・鄭の石楚が宋を討ち、「なぜ君を弑したのか」と責めたが、なお文公を立てて引き上げた。卿を書かないのは、その職分を失ったからである。
- 夏四月、晉侯が黄父で蒐を行い、そのまま改めて諸侯を扈に集めて宋を平定した。文公は会に加わらなかった。齊の難のためである。経に「諸侯」と書いたのは功がなかったからである。
- このとき晉侯は鄭伯に会わなかった。楚に二心を抱いていると考えたからである。鄭の子家は使者に書を持たせて趙宣子に告げた。
- 「寡君は即位して三年、蔡侯を招いてともに君にお仕えしました。九月、蔡侯が我が国に入って同行しようとしましたが、我が国は侯宣多の難のため、寡君は蔡侯と同行できませんでした。十一月に侯宣多を抑えて蔡侯に従い執事に朝しました。十二年六月、歸生が寡君の嫡子夷を補佐して楚に陳侯のことを請い、君に朝しました。十四年七月、寡君はまた朝して陳の件を仕上げました。十五年五月、陳侯が我が国から君のもとへ朝しました。昨年正月、燭之武が夷を伴って朝し、八月に寡君がまた朝しました。陳と蔡が楚に近接しながら二心を抱かぬのは我が国のはたらきです。それなのに我が国が君に仕えて、なぜ咎めを免れぬのでしょう。在位の間に一度襄公に朝し、二度君に謁見し、夷と孤の二三の臣が次々と絳に至りました。小国とはいえ、これ以上のことはできません。いま大国は『お前はまだ我が志を満たしていない』と言われる。我が国は滅びるほかに加えるものがありません。古人の言に『首を畏れ尾を畏れれば、身に残るものはいくらもない』とあり、また『鹿は死ぬとき音を選ばぬ』とあります。小国が大国に仕えるのに、徳があればその人となり、徳がなければその鹿となる。急いで険しい所へ走るのに、急いでどうして選べましょう。命が果てしなければ、滅びを知るだけです。我が国の兵をすべて挙げて鯈で待ちましょう。ただ執事の命次第です。文公二年六月壬申に齊へ朝し、四年二月壬戌に齊のために蔡を侵し、楚とも和を結びました。大国の間にあって強い命令に従うのが、どうして罪でありましょう。大国が図られぬなら、命から逃れる所はありません」。
- 晉の鞏朔が鄭と和を結び、趙穿と公壻池が人質となった。
- 冬十月、鄭の太子夷と石楚が晉の人質となった。
宣公元年(前608年)
- 宋人が昭公を弑したとき、晉の荀林父が諸侯の軍で宋を討ち、宋は晉と和睦して宋の文公が晉から盟を受けた。また諸侯と扈で会し、魯のために齊を討とうとしたが、いずれも賄賂を取って引き上げた。鄭の穆公は「晉は与するに足りぬ」と言い、そのまま楚から盟を受けた。
- 陳の共公が卒したとき楚人が礼を欠いたので、陳の靈公は晉から盟を受けた。秋、楚子が陳を侵し、そのまま宋を侵した。晉の趙盾が軍を率いて陳と宋を救い、棐林で会して鄭を討った。楚の蒍賈が鄭を救い、北林で遭遇して晉の解揚を捕らえた。晉人は引き上げた。
- 晉は秦と和を結ぼうとした。趙穿は「我らが崇を侵せば秦は急ぎ必ず崇を救う。それで和を求めましょう」と言った。冬、趙穿が崇を侵したが、秦は和を結ばなかった。
- 晉人が鄭を討って北林の役に報いた。このとき晉侯は奢侈で、趙宣子が政を執り、しきりに諫めたが受け入れられなかった。それで楚に対して張り合えなかった。
宣公二年(前607年)
- 春、鄭の公子歸生が楚から命を受けて宋を討った。宋の華元と樂呂が防いだ。二月壬子、大棘で戦って宋軍は大敗し、華元は捕らえられ樂呂も捕らえられ、甲車四百六十乗、捕虜二百五十人、馘百を取られた。狂狡が鄭人と組み打ちし、鄭人が井戸に落ちたので戟を逆さにして引き上げたところ、その鄭人に捕らえられた。君子は「礼を失い命に背いた。捕らえられるのも当然だ。戦において果と毅を明らかにして命に従うのを礼という。敵を殺すのを果、果を貫くのを毅という。それを逆にすれば戮される」と評した。
- 戦の前、華元は羊を殺して士に食べさせたが、その御者の羊斟には与えなかった。戦になると羊斟は「昨日の羊はあなたが差配した。今日の事は私が差配する」と言い、鄭軍に突入したので敗れた。君子は「羊斟は人ではない。私憤で国を敗り民を絶やした。これ以上の刑はない。詩にいう『人の良からざる者』とは羊斟のことか。民を損なって思いを遂げた」と評した。
- 宋人は兵車百乗と文馬四百頭で華元を鄭から贖おうとし、その半分を送ったところで華元が逃げ帰り、門外に立って報告してから入った。叔牂(羊斟)に会って「あなたの馬のせいか」と言うと、「馬ではありません。人です」と答え、話を終えると魯へ亡命した。
- 宋が城を築き、華元が監督として工事を巡った。城を築く者はこう謡った。「その目をむき、その腹をふくらませ、甲を棄てて帰ってきた。ひげもじゃもじゃ、甲を棄ててまた来た」。華元は陪乗の者に「牛には皮がある。犀や兕もまだ多い。甲を棄てても何ほどのことか」と言わせた。役夫は「皮があっても、丹漆はどうする」と返した。華元は「去れ。彼らは口が多く我らは寡ない」と言った。
- 秦軍が晉を討って崇の件に報い、そのまま焦を囲んだ。
- 夏、晉の趙盾が焦を救い、そのまま隂地から諸侯の軍とともに鄭を侵して大棘の役に報いた。楚の鬬椒が鄭を救い、「諸侯を欲しがりながらその難を厭えようか」と言い、そのまま鄭に陣して晉軍を待った。趙盾は「あの一族は楚で勢いを競っている。やがて斃れよう。しばらくその病を増してやろう」と言い、そこで引き上げた。
宣公三年(前606年)
- 晉侯が鄭を討って郔に至り、鄭は晉と和睦して士會が入って盟った。
- 楚子が陸渾の戎を討ち、そのまま雒に至って周の境で兵を観閲した。定王が王孫滿を遣わして楚子を労うと、楚子は鼎の大小軽重を問うた。王孫滿は答えた。
- 「徳にあって鼎にはありません。昔、夏がまさに徳を持っていたとき、遠方が物を図に写し、九牧が金を貢いで鼎を鋳て物をかたどり、百物を備えて民に神と姦を知らせました。だから民は川沢山林に入っても不吉なものに遭わず、螭魅罔両も遭うことができなかった。それで上下が和し天の恵みを承けられたのです。桀に昏い徳があって鼎は商へ移り、六百年祀られました。商の紂が暴虐で鼎は周へ移りました。徳が美しく明らかなら小さくとも重く、姦邪昏乱なら大きくとも軽い。天は明徳を祚し、行き着く所があります。成王が鼎を郟鄏に定めたとき、卜して三十世、七百年と出ました。天の命ずるところです。周の徳は衰えたとはいえ天命はまだ改まっておりません。鼎の軽重は問うべきことではありません」。
- 夏、楚人が鄭を侵した。鄭が晉についたからである。
宣公四年(前605年)
- 冬、楚子が鄭を討った。鄭がまだ服さなかったからである。
宣公五年(前604年)
- 冬、楚子が鄭を討ち、陳は楚と和睦した。晉の荀林父が鄭を救い、陳を討った。
宣公六年(前603年)
- 春、晉と衞が陳を侵した。陳が楚についたからである。
- 冬、楚人が鄭を討ち、和を結んで帰った。
宣公七年(前602年)
- 鄭が晉と和睦した。公子宋の謀りである。それで鄭伯の相として会に出た。
- 冬、黒壤で盟った。王叔桓公が臨席し、睦まじからぬ者を謀った。
宣公八年(前601年)
- 冬、陳が晉と和睦した。楚軍が陳を討ち、和を結んで帰った。
宣公九年(前600年)
- 秋、扈で会した。睦まじからぬ者を討つためである。陳侯が会に来なかったので、晉の荀林父が諸侯の軍で陳を討った。晉侯が扈で卒したので引き上げた。
- 冬、宋人が滕を囲んだ。その喪に乗じたのである。
- 陳の靈公が孔寧・儀行父とともに夏姫と通じ、みなその肌着を身につけて朝廷でふざけた。洩冶が「公卿が淫らを広めては民に手本がありません。しかも評判はよくない。君はそれを収められよ」と諫めた。公は「私は改められる」と言い、二人に告げた。二人が殺すことを請い、公は禁じなかったので、洩冶を殺した。孔子は「詩に『民に邪が多いとき、自ら邪を立てるな』とある。洩冶のことか」と言った。
- 楚子が厲の役のことで鄭を討った。
- 晉の郤缺が鄭を救い、鄭伯が柳棼で楚軍を破った。国人はみな喜んだが、子良だけは憂えて「これは国の災いだ。私が死ぬ日も遠くない」と言った。
宣公十年(前599年)
- 夏、陳の靈公が孔寧・儀行父とともに夏氏の家で酒を飲んだ。公が行父に「徴舒はお前に似ている」と言うと、「君にも似ております」と答えた。徴舒はこれを恨み、公が出るところをその厩から射て殺した。二人は楚へ亡命した。
- 滕人が晉を恃んで宋に仕えなかったので、六月、宋軍が滕を討った。
- 鄭が楚と和睦した。諸侯の軍が鄭を討ち、和を結んで帰った。
- 冬、楚子が鄭を討った。晉の士會が鄭を救い、潁の北で楚軍を追い、諸侯の軍が鄭を守った。
宣公十一年(前598年)
- 春、楚子が鄭を討って櫟に至った。子良は「晉も楚も徳に務めず兵で争っている。来た者につけばよい。晉にも楚にも信はない。我らがどうして信を持てよう」と言い、そこで楚に従った。夏、辰陵で盟った。陳と鄭が服したのである。
- 楚の左尹子重が宋を侵し、王は郔で待った。
- 令尹の蒍艾獵が沂に城を築いた。封人に工事を計らせて司徒に授け、工数を量り日を定め、財用を分け、板と榦を平らげ、畚を数え、築く土と材を程り、遠近を議し、基礎の跡を粗く定め、糧食を用意し、有司の職務を度った。三十日で完成し、予定より遅れなかった。
- 冬、楚子は陳の夏氏の乱のゆえに陳を討ち、陳人に「動くな。少西氏を討つ」と告げた。そのまま陳に入り、夏徴舒を殺して栗門で車裂きにし、そのまま陳を県とした。
- 陳侯は晉にいた。申叔時が齊へ使いして帰り、復命して退いた。王は使者に責めさせ、「夏徴舒は不道にもその君を弑した。寡人は諸侯とともに討って戮した。諸侯も県公もみな寡人を祝ったのに、お前だけが祝わぬのはなぜか」と言わせた。申叔時は「申し上げてよろしいでしょうか」と言い、王が「よい」と言うと、こう答えた。
- 「夏徴舒がその君を弑したのは大罪です。討って戮したのは君の義です。しかし人の言に『牛を牽いて人の田を踏み、その牛を奪う』とあります。牛を牽いて踏んだ者はまことに罪がありますが、その牛を奪うのは罰が重すぎます。諸侯が従ったのは『罪ある者を討つ』と言われたからです。いま陳を県としたのはその富を貪ることです。討伐をもって諸侯を召し、貪りをもって帰るのは、よろしくないのではありませんか」。
- 王は「よい言葉だ。私はまだ聞いたことがない。返してよいか」と言った。「よろしい。我ら小人のいう『懐から取り出して与える』というものです」と答えた。そこで陳を改めて封じ、郷ごとに一人ずつ取って帰り、その地を夏州と名づけた。だから経に「楚子陳に入る」と書いた。公孫寧と儀行父を陳に納れたことを書いたのは、礼があったからである。
- 厲の役で鄭伯が逃げ帰り、それ以来、楚は志を得ていなかった。鄭は辰陵で盟を受けながら、また晉に仕えようとした。
宣公十二年(前597年)
- 春、楚子が鄭を囲むこと十七日。鄭人は和を結ぶことを卜すると不吉、大宮で哭し街路に車を出すことを卜すると吉と出た。国人は大いに哭し、城壁を守る者もみな哭した。楚子は軍を退いたが、鄭人が城を修めたので、進んで再び囲み、三か月で落とした。皇門から入って大路に至った。
- 鄭伯は肌脱ぎで羊を牽いて迎え、「孤は天に恵まれず君にお仕えできず、君に怒りを抱かせて我が国に至らせました。孤の罪です。命に従わぬわけがありません。江南へ捕虜として移し海浜を実たすのも命のまま。切り取って諸侯に賜り臣妾とされるのも命のまま。もし前の好誼を顧み、厲王・宣王・桓公・武公に福を求めてその社稷を絶やさず、改めて君にお仕えさせ、九県と同じ扱いにしてくださるなら、それは君の恵みであり孤の願いですが、あえて望むところではありません。あえて腹心を申し述べます。君がお図りください」と言った。
- 左右は「許してはなりません。国を得たら赦さぬものです」と言ったが、王は「その君が人に下れるなら、必ずその民を信じて用いられよう。望むべくもない」と言い、三十里退いて和を許した。潘尫が入って盟い、子良が人質に出た。
- 夏六月、晉軍が鄭を救った。荀林父が中軍を率い先縠が補佐し、士會が上軍を率い郤克が補佐し、趙朔が下軍を率い欒書が補佐した。趙括と趙嬰齊が中軍大夫、鞏朔と韓穿が上軍大夫、荀首と趙同が下軍大夫、韓厥が司馬であった。
- 河に至って鄭がすでに楚と和睦したと聞き、桓子(荀林父)は引き返そうとして「鄭に間に合わぬのに民を疲れさせても何になろう。楚が帰ってから動けばよい」と言った。
- 隨武子(士會)は言った。「よろしい。會は聞いております、軍を用いるには釁を観て動くと。徳・刑・政・事・典・礼が変わらぬ国には敵せません。それを征するのではありません。楚軍が鄭を討ったのは、その二心を怒りながらその卑下を哀れんだのです。叛けば討ち、服せば許した。徳と刑が成っております。叛く者を討つのが刑、服する者を柔らげるのが徳。二つが立っている。昨年は陳に入り今年は鄭に入ったが、民は疲れず君に怨みの声もない。政に常法があります。荊尸の陣で兵を挙げても、商・農・工・賈はその業を損なわず、卒と乗は睦まじく、事は互いを侵しません。蒍敖が宰となって楚国の良い典を択び、軍が行けば右は轅に、左は草を刈り、前は斥候が不慮に備え、中軍は権を握り、後軍は精鋭で、百官は旗印に応じて動く。軍政は戒めずとも備わっている。よく典を用いております。その君の登用は、同姓は親から択び、異姓は旧臣から択ぶ。挙げて徳を失わず、賞して労を失わない。老には恵みを加え、旅人には施しがある。君子と小人には身分に応じた服章があり、貴い者に常の尊さがあり、賤しい者に等級に応じた威がある。礼に逆らうところがありません。徳が立ち刑が行われ、政が成り事が時にかない、典に従い礼が順である。どうして敵せましょう。可を見て進み、難を知って退くのが軍の善政です。弱きを兼ね昧きを攻めるのが武の善き常道です。あなたはひとまず軍を整え武を経められては。なお弱く昧い者がおります。なぜ楚でなければならぬのですか。仲虺の言に『乱を取り亡を侮る』とあり、弱きを兼ねることです。汋に『ああ盛んなる王師、遵い養いてこの晦きを』とあり、昧きを討つことです。武に『競うものなきはこの烈』とあり、弱きを撫し昧きを討って烈に務めるのは、なし得ることです」。
- 彘子(先縠)は言った。「なりません。晉が覇となったのは軍が武く臣が力あったからです。いま諸侯を失うのは力があるとはいえず、敵がありながら向かわぬのは武とはいえぬ。我らのせいで覇を失うくらいなら死ぬに如くはない。しかも軍を成して出ながら敵が強いと聞いて退くのは丈夫ではない。軍帥を命じられながら結局丈夫でないというのは、皆さんにはできても私にはできぬ」。そして中軍の佐として河を渡った。
- 知莊子(荀首)は言った。「この軍は危うい。周易にある。師の臨に変ずるのに『師出づるに律をもってす。臧からざれば凶』とある。事を執って順であれば臧、逆であれば否。衆が散れば弱、川が塞がれば沢となる。律があって己に従うがごとくである。だから律という。臧からずして、しかも律が尽きる。満ちていて尽きれば、若死にし整わぬ。それが凶の所以です。行かぬのを臨という。帥がありながら従わぬ。これ以上の臨があろうか。まさにこのことです。実際に遭遇すれば必ず敗れる。彘子がその責を負う。免れて帰っても必ず大きな咎がある」。
- 韓獻子は桓子に言った。「彘子が偏師で陥れば、あなたの罪は大きい。あなたは元帥であり、軍が命に従わぬのは誰の罪でしょう。属国を失い軍を失えば罪はすでに重い。進むに如くはありません。事がうまくいかずとも悪は分かたれる。一人で罪を負うより、六人で同じくするほうがましではありませんか」。そこで軍は河を渡った。
- 楚子は北へ進んで郔に陣した。沈尹が中軍、子重が左軍、子反が右軍を率い、河で馬に水を飲ませてから帰ろうとしていた。晉軍が渡ったと聞いて王は引き返そうとした。嬖人の伍參は戦いたがり、令尹の孫叔敖は望まず、「昨年は陳に入り今年は鄭に入った。事がないわけではない。戦って勝てねば、參の肉など食うに足りようか」と言った。參は「もし勝てば孫叔は謀りがなかったことになる。勝てねば參の肉は晉軍にある。食えるものか」と言った。
- 令尹が轅を南へ向けて旗を返すと、伍參は王に言った。「晉の執政は新任で令を行えず、その佐の先縠は剛愎で不仁、命に従おうとしない。三人の帥は専断できず、聴かれても上がない。衆は誰に従えばよいのか。この行軍で晉軍は必ず敗れます。しかも君でありながら臣から逃げるのでは、社稷をどうされますか」。王はこれを気にして令尹に告げ、轅を改めて北へ向け、管に陣して待った。
- 晉軍は敖と鄗の間にあった。鄭の皇戍が晉軍へ使いして「鄭が楚に従ったのは社稷のためで、二心はありません。楚軍はしきりに勝って驕り、軍は疲れて備えを設けておりません。あなたが撃たれ、鄭軍が続けば楚軍は必ず敗れます」と言った。
- 彘子は「楚を敗り鄭を服させるのはここにかかっている。必ず許すべきだ」と言った。欒武子は言った。「楚は庸に勝って以来、その君は日々国人を戒めて、生きることの容易でないこと、禍の至る日の知れぬこと、戒め懼れて怠ってはならぬことを教えてきた。軍中にあっては日々軍の実を戒めて、勝ちは保てぬこと、紂は百度勝ってついに後がなかったことを訓し、若敖・蚡冒が粗末な車と破れ衣で山林を開いたことを説き、『民の生は勤にあり。勤なれば乏しからず』と箴めている。驕っているとはいえぬ。先の大夫子犯の言に『軍は直であれば壮、曲であれば老いる』とある。我らは徳がなく楚に怨みを求めた。我らが曲で楚が直である。老いているとはいえぬ。その君の戎車は二広に分かれ、広に一卒、卒は偏の両を備える。右広は朝に駕して正午まで、左がそれを受けて日暮れまで。内官が順に夜を当てて不慮に備える。備えがないとはいえぬ。子良は鄭の良臣、師叔は楚の重臣である。師叔が入って盟い、子良は楚にいる。楚と鄭は親しい。我らに戦いを勧め、我らが勝てば来て、勝てねばそのまま楚へ行く。我らで卜をしているのだ。鄭には従えぬ」。
- 趙括と趙同は「軍を率いて来た以上、ただ敵を求めるだけだ。敵に勝ち属国を得られる。何を待つのか。必ず従うべきだ」と言った。彘子は「よろしい」と言った。知季(荀首)は「原と屏(趙同・趙括)は咎の徒だ」と言い、趙莊子は「欒伯はよい。まことにその言のとおりなら、必ず晉国を長く保とう」と言った。
- 楚の少宰が晉軍へ来て「寡君は幼くして憂いに遭い、文を能くしません。二人の先君が出入りしたのを聞いております。この行軍は鄭を訓すためで、どうして晉に罪を求めましょう。皆さんは長居されますな」と言った。隨季(士會)は「昔、平王は我が先君文侯に『鄭とともに周室を夾輔し、王命を廃するな』と命じられました。いま鄭が従わぬので、寡君は群臣に鄭を問わせているのです。どうして候人を辱められましょう。君命の辱めに拝します」と答えた。彘子はこれを諂いとし、趙括を遣わして言い直させた。「行人が言葉を誤りました。寡君は群臣に大国の跡を鄭から移させ、『敵を避けるな』と申されました。群臣は命から逃れる所がありません」。
- 楚子はまた晉に和を求め、晉人は許して盟の日も決まった。
- 楚の許伯が御し、樂伯が乗り、攝叔が右に立って晉軍に挑戦した。許伯は「私は聞いている、挑戦する者は御して旌を靡かせ、塁に迫って帰ると」と言った。樂伯は「私は聞いている、挑戦する者は左が良い矢で射て、御者に代わって轡を執り、御者が降りて二頭の馬の鞅を整えて帰ると」と言った。攝叔は「私は聞いている、挑戦する者は右が塁に入って馘を取り捕虜を執って帰ると」と言った。みなその聞いたところを行って帰った。
- 晉人が追い、左右から挟んだ。樂伯は左の馬を射右の人を射たので、挟めずに進めなかった。矢は一本しか残らなかった。麋が前に現れ、麋を射て背に当てた。晉の鮑癸が後ろに迫っていたので、攝叔にその麋を献じさせ、「季節外れで獲物の時期ではありませんが、あえて従者にお膳立てを」と言わせた。鮑癸は追撃を止めて「その左は射に善く、その右は言葉がある。君子である」と言った。こうして免れた。
- 晉の魏錡は公族大夫を求めて得られず怒り、晉軍を敗らせようとして挑戦を請うたが許されず、使者に立つことを請うて許された。そのまま行って戦いを請うて帰った。楚の潘黨が追い、滎澤に至って六頭の麋を見、一頭を射て振り返って献じ、「あなたは軍事中で、獣人が鮮肉を供しきれぬでしょう。あえて従者に献じます」と言った。叔黨(潘黨)は追撃をやめさせた。
- 趙旃は卿を求めて得られず、しかも楚の挑戦者を取り逃がしたことを怒り、挑戦を請うたが許されず、盟を呼びかけに行くことを請うて許された。魏錡とともに命を受けて行った。郤獻子は「二人の不満を抱く者が行った。備えねば必ず敗れる」と言った。彘子は「鄭人が戦いを勧めても従おうとせず、楚人が和を求めても好しみを結べぬ。軍に定まった命がないのに、備えを多くして何になろう」と言った。士季は「備えるほうがよい。もしあの二人が楚を怒らせ、楚人が我らに乗じれば、軍を失う日も遠くない。備えるに如くはない。楚に悪意がなければ備えを解いて盟えばよい。好しみに何の損がありましょう。悪意で来ても、備えがあれば敗れません。しかも諸侯が相見えるときでさえ軍衛を解かぬのは警めです」と言った。彘子は承知しなかった。
- 士季は鞏朔と韓穿に敖の前へ七つの伏兵を置かせた。それで上軍は敗れなかった。趙嬰齊はその配下に先に河へ舟を用意させた。それで敗れても先に渡れた。
- 潘黨が魏錡を追った後、趙旃が夜に楚軍に至り、軍門の外に席を敷き、配下を中へ入れた。楚子は乗広三十乗を左右に分けていた。右広は鶏鳴に駕して正午に解き、左広がそれを受けて日没に解く。許偃が右広を御し養由基が右、彭名が左広を御し屈蕩が右であった。乙卯、王は左広に乗って趙旃を追った。趙旃は車を棄てて林へ走り、屈蕩が組み打ちしてその甲の裳を得た。
- 晉人は二人が楚軍を怒らせるのを懼れ、軘車を出して迎えさせた。潘黨がその塵を望み見て、人を走らせて「晉軍が来た」と告げさせた。楚人もまた王が晉軍に入ることを懼れ、そこで陣を出した。孫叔は「進め。我らが人に迫るほうがよい。人に迫られてはならぬ。詩に『元戎十乗、もって先んじて道を啓く』とあるのは人に先んじることだ。軍志に『人に先んずれば人の心を奪う』とあるのは迫ることだ」と言い、そのまま軍を急進させた。車は馳せ卒は走って晉軍に乗りかかった。
- 桓子はどうしてよいか分からず、軍中に鼓を打って「先に渡った者に賞がある」と言った。中軍と下軍が舟を争い、舟中の指が掬えるほどであった。晉軍は右へ移り、上軍は動かなかった。工尹の齊が右拒を率い、卒をもって下軍を追った。楚子は唐狡と蔡鳩居を遣わして唐の惠侯に「不穀は不徳にして貪り、大敵に遭った。不穀の罪である。しかし楚が勝てぬのは君の恥でもある。あえて君の霊を借りて楚軍を助けたい」と告げさせ、潘黨に遊軍四十乗を率いて唐侯に従わせ左拒として上軍に当たらせた。
- 駒伯(郤克)が「待ちましょうか」と言うと、隨季は「楚軍はまさに盛んだ。我らに集中すれば我が軍は必ず全滅する。収めて去り、謗りを分かち民を生かすほうがよいではないか」と言い、その卒の殿を務めて退き、敗れなかった。
- 王が右広を見て乗り換えようとすると、屈蕩が制して「君はこれで始められた。必ずこれで終えられよ」と言った。これ以来、楚の乗広は左を先とした。
- 晉人のある者は車が穴に落ちて進めなかった。楚人が教えて横木を外させると少し進んだ。馬が回ってしまうと、また教えて旗を抜き軛に投げさせ、そこで出られた。振り返って「我らは大国のように何度も逃げた経験がなくてね」と言った。
- 趙旃は自分の良馬二頭で兄と叔父を渡らせ、他の馬で戻ったが、敵に遭って去れず、車を棄てて林へ走った。逢大夫がその二子とともに乗っていて、二子に「振り返るな」と言った。振り返って「趙のおじが後ろにおります」と言うと、怒って降ろし、木を指して「お前たちの屍をここに」と言い、そこで趙旃に綏を授けて免れさせた。翌日、印をつけて屍を捜すと、二人とも重なってその木の下にいた。
- 楚の熊負羈が知罃を捕らえた。知莊子(荀首)はその一族を率いて引き返し、魏武子が下軍の車を御し、士の多くが従った。射るたびに良い矢を抜いて魏武子の矢筒に納めるので、武子は怒って「あなたの子を求めずに蒲の矢を惜しむのか。董澤の蒲が尽きることがあろうか」と言った。知季は「他人の子でなければ我が子は得られぬ。私はいい加減に射るわけにいかぬのだ」と答え、連尹の襄老を射て捕らえ、その屍を車に載せ、公子穀臣を射て捕虜とし、二つを持って帰った。
- 日暮れに楚軍は邲に陣した。晉の残兵は軍を成せず、夜のうちに渡ったが、一晩中物音が絶えなかった。
- 丙辰、楚の輜重が邲に至り、そのまま衡雍に陣した。潘黨は「君は武軍を築いて晉の屍を集め京観とされてはいかがか。臣は聞いております、敵に勝てば必ず子孫に示して武功を忘れさせぬと」と言った。楚子は答えた。
- 「お前の知るところではない。文字において戈を止めるのを武という。武王が商に勝って頌を作り、『干戈を戢め、弓矢を櫜に納む。我は懿徳を求めて、この夏に肆ぶ。まことに王これを保つ』と言った。また武を作り、その卒章に『汝の功を耆め定む』とあり、その三章に『この繹思を鋪く。我が徂くは惟だ定を求む』とあり、その六章に『万邦を綏んじ、屢しば年を豊かにす』とある。武とは暴を禁じ兵を戢め、大を保ち功を定め、民を安んじ衆を和し、財を豊かにするものだ。だから子孫にその章を失わせぬ。いま私は二国の骨を野に晒した。暴である。兵を観閲して諸侯を威した。兵は戢まっていない。暴にして戢めず、どうして大を保てよう。なお晉がある。どうして功を定められよう。民の欲に背くことがなお多い。民が何を安んじよう。徳なくして強いて諸侯を争い、どうして衆を和せよう。人の危機を利し人の乱に安んじて自らの栄えとする。どうして財を豊かにできよう。武に七つの徳があるが、私には一つもない。何を子孫に示そう。先君の宮を作って成事を告げるだけだ。武は私の功ではない。古の明王は不敬を伐ち、その鯨鯢を取って封じ、大いなる戮とした。そこで京観があり、淫らな悪を懲らした。いま罪の帰する所がなく、民はみな忠を尽くして君命に死んだ。どうして京観にできようか」。
- 河で祀り、先君の宮を作って成事を告げて帰った。
- この役で鄭の石制がまことに楚軍に内応し、鄭を分けて公子魚臣を立てようとした。辛未、鄭は僕叔(魚臣)と子服(石制)を殺した。君子は「史佚のいう『乱を頼むな』とはこの類だ。詩に『乱離は病めり。いずくにか適き帰せん』とある。乱を頼む者に帰するのだ」と評した。
- 鄭伯と許男が楚へ行った。
- 秋、晉軍が帰り、桓子が死を請うた。晉侯は許そうとしたが、士貞子が諫めた。「なりません。城濮の役で晉軍は三日その糧を食べましたが、文公はなお憂色がありました。左右が『喜ばしいことがあって憂えられる。憂わしいことがあれば喜ばれるのですか』と言うと、公は『得臣がまだ生きている。憂いは終わっていない。窮した獣でさえ闘う。まして国の相においては』と言われた。楚が子玉を殺すと、公は喜色を隠さず『もう私を害する者はない』と言われた。これは晉が二度勝ち楚が二度敗れたことになります。楚はそれで二代にわたって振るいませんでした。いま天はあるいは大いに晉を警めているのかもしれません。それなのに林父を殺して楚の勝ちを重くしては、長く振るわぬことにならぬでしょうか。林父が君に仕えるや、進んでは忠を尽くすことを思い、退いては過ちを補うことを思う。社稷の守りです。どうして殺せましょう。その敗北は日月の食のようなもの。その明るさに何の損がありましょう」。晉侯はその位に復させた(公羊伝の記す事は左伝と同じなので載せない)。
- 冬、楚子が蕭を討った。宋の華椒が蔡人とともに蕭を救い、蕭人が熊相宜僚と公子丙を捕らえた。王は「殺すな。私が退く」と言ったが、蕭人は殺した。王は怒ってそのまま蕭を囲み、蕭は潰えた。
- 申公巫臣が「兵に寒がる者が多い」と言うと、王は三軍を巡って労い励ました。三軍の士はみな綿入れを着たように感じた。そのまま蕭に迫った。
- 還無社は司馬卯を通じて申叔展を呼び出した。叔展が「麦麴はあるか」と言うと「ない」と答え、「山鞠窮はあるか」と言うと「ない」と答えた。「川魚の腹の病はどうする」と言うと、「枯れ井戸に目を向けて助けよ」と答えた。「茅の絰を目印にして井戸で哭せばよい」と言った。翌日、蕭が潰え、申叔がその井戸を見ると茅の絰があった。呼びかけて引き出した。
- 晉の原縠・宋の華椒・衞の孔達・曹人が清丘で同盟し、「病める者を憐れみ、二心ある者を討つ」と誓った。このとき卿を書かないのは、その言を実行しなかったからである。
- 宋は盟のゆえに陳を討ち、衞人が救った。孔達は「先君に約束の言葉がある。大国が我らを討つなら私が死のう」と言った。
宣公十三年(前596年)
- 夏、楚子が宋を討った。宋が蕭を救ったからである。君子は「清丘の盟では宋だけが咎を免れる」と評した。
- 清丘の盟で、晉は衞が陳を救ったことを咎め、使者に人を去らせぬよう命じ、「罪の帰する所がなければ、お前の軍に加えるぞ」と言った。孔達は「もし社稷の利になるなら、私で釈明されよ。罪は私による。私が政を執って大国の討伐に抗した。誰に負わせられよう。私が死のう」と言った。
宣公十四年(前595年)
- 春、孔達が縊れて死んだ。衞人はそれで晉に釈明して免れ、そのまま諸侯に告げた。「寡君に不埒な臣がおり、達が我が国を大国と構えさせた。すでにその罪に服しました」。衞人はこれを成し遂げた功労として、その子に妻を娶らせその位に復させた。
- 夏、晉侯が鄭を討った。邲の役のためである。諸侯に告げ、蒐を行って帰った。中行桓子の謀りで、「整った様子を示して考えさせ、来させる」というものであった。鄭人は懼れ、子張を楚へ遣わして子良と交代させた。鄭伯は楚へ行き、晉のことを謀った。鄭は子良に礼があるとして召したのである。
- 楚子は申舟を齊へ聘問に遣わし、「宋に道を借りるな」と言い、また公子馮を晉へ聘問に遣わして鄭に道を借りさせなかった。申舟は孟諸の役で宋と悪かったので、「鄭は明るいが宋は聾い。晉への使者は害されぬだろうが、私は必ず死ぬ」と言った。王は「お前を殺せば私が討つ」と言った。犀(子の申犀)に会わせてから出発した。
- 宋に至ると宋人が留めた。華元は「我らを通りながら道を借りぬのは、我らを辺鄙扱いすることだ。辺鄙扱いされれば滅びる。その使者を殺せば必ず我らを討つ。討たれてもまた滅びる。滅びるのは同じだ」と言い、そこで殺した。
- 楚子はこれを聞いて袂を払って立ち上がり、履は窒皇で、剣は寝門の外で、車は蒲胥の市で追いついた。秋九月、楚子が宋を囲んだ。
- 冬、孟獻子が宣公に言った。「臣は聞いております、小国が大国に免れるのは、聘問して物を献ずればそこで庭に百の贄が並び、朝して功を献ずればそこで容貌・采章・嘉淑があって加えて贈物をすると。免れぬことを謀ってから誅を受けて賄賂を薦めても間に合いません。いま楚が宋におります。君はお考えください」。公は喜んだ。
宣公十五年(前594年)
- 春、公孫歸父が宋で楚子と会した。
- 宋人が樂嬰齊を遣わして晉に急を告げた。晉侯は救おうとしたが、伯宗が言った。「なりません。古人の言に『鞭が長くとも馬の腹には及ばぬ』とあります。天がまさに楚に与えている。まだ争えません。晉が強くとも天に背けましょうか。諺に『高きも低きも心にあり。川沢は汚れを納れ、山藪は害虫を蔵し、瑾瑜も瑕を匿す』とあります。国君が垢を含むのは天の道です。君はお待ちください」。そこでやめた。
- 解揚を宋へ遣わし、楚に降らぬよう「晉軍がすべて起こって、まもなく至る」と告げさせた。鄭人が捕らえて楚に献じた。楚子は厚く賄賂を贈って言葉を逆に言わせようとした。三度断ってから承知した。楼車に登らせて宋人に呼びかけさせると、そのまま自国の君命を伝えた。楚子が殺そうとして、人を遣わして言わせた。「お前は不穀に承知しておきながら逆のことをした。なぜだ。我らに信がないのではない。お前が棄てたのだ。速やかに刑に就け」。
- 解揚は答えた。「臣は聞いております、君がよく命を制するのを義といい、臣がよく命を承けるのを信といい、信が義を載せて行うのを利という。謀って利を失わず社稷を守るのが民の主です。義に二つの信はなく、信に二つの命はない。君が臣に賄賂されたのは命をご存じないからです。命を受けて出た以上、死ぬことはあっても失うことはありません。まして賄賂されましょうか。臣が君に承知したのは命を成すためです。死んで命を成すのは臣の禄です。寡君に信ある臣があり、下臣は全うして死ねる。ほかに何を求めましょう」。楚子は赦して帰した。
- 夏五月、楚軍が宋を去ろうとした。申犀が王の馬前に稽首して「毋畏(申舟)は死を知りながら王命を廃しませんでした。王は言を棄てられるのですか」と言った。王は答えられなかった。申叔時が御していて、「家を建てて耕作者を帰せば、宋は必ず命に従いましょう」と言い、これに従った。
- 宋人は懼れ、華元を夜に楚軍へ潜り込ませ、子反の牀に登って起こして言った。「寡君は元に苦しみを告げさせ、『我が国は子を交換して食い、骸を割いて炊いている。とはいえ城下の盟は、国が斃れても従えぬ』と申されました。我らから三十里退かれるなら、命のままに従います」。子反は懼れて盟い、王に告げて三十里退いた。宋は楚と和睦し、華元が人質となり、「我らは汝を欺かず、汝は我らを謀らず」と盟った。
宣公十八年(前591年)
- 秋七月甲戌、楚子旅(莊王)が卒した。
史論(士竒)
- 晉は文公・襄公以来、中夏の盟を主宰し、もとより楚の匹敵するところではなかった。しかし靈公・成公・景公・厲公と昏庸が相継ぎ、先君の明がなかった。趙盾が国政を執ったのもかなり専恣であり、荀林父は忠実であったが将略は得意でなく、趙穿・先縠・魏錡・趙旃の輩が進み出て参与しても、先の大夫のような粛やかさがなかった。
- 楚はたまたま莊王の賢に恵まれた。大鳥の諷諫を用い、鐘鼓を退けて楽しまず、子佩の招きを退けて強臺に登らず、賢を求めて及ばぬかのようであり、食膳を前に嘆じ、危うくならぬうちに国を保とうとして天に過ちを求めた。美人の纓を切らせては闘士が奮い立ち、沈尹の綱を用いては賢相が登った。まことに一時の名君である。しかもその臣である蒍敖・伍舉・申叔時の輩がみな忠を尽くし智を竭くして輔けた。それゆえ上国と勢力を争い、盟主の座を狎れ取り、晉はかえってその下に置かれた。
- そもそも覇主が中原の頼りとなり得るのは、勤めて撫し、患いを思って予め備えるからである。そうしてこそ敵は恐れて我らを軽んずる心を抱かない。いま范山の言に「晉君は幼く諸侯を掌握していない。北方は図れる」とあり、そこで楚に狼淵の出兵があった。ああ、晉君は幼くとも趙盾大夫はどこにいたのか。釁を未然に消せず、そのうえ武の震えもなく、四国の兵を合わせて鄭を救っても楚軍に間に合わなかった。天下がざわめかずにいられようか。伝が「恪しからぬことを懲らしめた」というのは、晉の覇が振るわなくなった原因として、これほどの失策はないということである。
- しかも晉が楚に対しては、力を争うより智を争うほうがよく、智を争うより義を争うほうがよい。義は乱臣を誅し賊子を討つより大きなものはない。厥貉の陣以来、二三の同盟国が半ば折れて楚に入った。晉が楚を攘うのに他の奇策はなく、ただ新城の一盟で鬼神に霊を乞うただけであった。恃んで恐れずにいられる堂々たる大義があるのに、それを取ることを知らなかった。
- 舎には威がなかったとはいえ齊の君である。商人がどうして弑せようか。六国を合わせて齊を討つべきなのに、結局は賄賂を取って引き上げた。一つの失である。宋に杵臼の変があり、天地の容れぬところであった。宣子が討伐を請うと「国の急務ではない」と言った。靈公はすでに君らしくない。その後、兵を整え軍を振るい鐘鼓を鳴らして宋に至ったのは快挙となるはずだったが、また利によって挫いた。二つの失である。陳の靈公が淫らを広めたのはまことに不道だが、人臣は企ててはならぬ。徴舒があえて一矢を報いたのは、汚池にされても罪を覆えぬ。晉は覇主でありながら聞かぬふりをして、罪を問う名声を荊楚に譲った。三つの失である。
- この三つはみな大義に関わる。晉ができず楚がやった。何をもって諸侯を服させ天下の望みを繋げよう。だから賄賂を取って宋を釈放してから、鄭の穆公は「与するに足りぬ」と薄く見て楚から盟を受けた。人心が離れ覇の勢いが衰えたのは、まさにこのためである。
- 鬬椒が鄭を救ったとき、趙盾は策の立てようがなく「やがて斃れる」に託して「しばらくその病を増してやろう」と言い逃れた。何と考えの足りぬことか。陳を県としながらまもなくその封を復し、鄭に入りながらまた退いた。楚は事ごとに義にかない、晉は事ごとに義を毀ち、難を知りながら冒して進み、自ら舟中の指という恥を招いた。誰を怨めよう。蕭を滅ぼされながら清丘の盟に加わり、宋を囲まれながら虚しい声の使者を走らせた。晉が何もできなかったことも知れる。
- その根は君臣が緩み諸侯を掌握できなかったことにあり、そのうえ義をもって人を服させることを知らなかった過ちにある。とはいえ、晉は弱くとも覇である。楚は強くとも、どうして覇と認められよう。鼎を問い兵を観閲したことが春秋に退けられた所以である。