左傳紀事本末晉の文公の覇業(晉文公之伯)
公子重耳の十九年に及ぶ亡命から、帰国して覇となり、その死後の襄公の代までを追う篇。僖公二十三年(前637年)から文公八年(前619年)まで。狄・衞・齊・曹・宋・鄭・楚・秦を経て秦伯の力で入国し、寺人披の言を容れて呂氏・郤氏の乱を免れ、介之推には緜上を祭田とした。僖公二十五年(前635年)に襄王を復位させて南陽の田を得、原を討って信を示し、大蒐で礼を示してから、僖公二十八年(前632年)の城濮の戦いで楚を破り、踐土で侯伯に策命された。その死後も殽で秦軍を破り、箕で狄を破って、晉の覇業は襄公に受け継がれた。
年表(18件)
- 僖公二十三年前637年重耳が狄・衞・齊・曹・宋・鄭・楚を経て秦に至り、三舍退くことを約す
- 僖公二十四年前636年秦伯が重耳を入国させ、寺人披の言で呂氏・郤氏の乱を免れる
- 僖公二十五年前635年襄王を王城に復して南陽の田を得、原を囲んで一舍退き信を示す
- 僖公二十六年前634年展喜が齊軍を犒って引き返させ、楚が宋を討って緡を囲む
- 僖公二十七年前633年被廬で蒐して三軍を編成し、郤縠を元帥として宋救援を謀る
- 僖公二十八年前632年城濮で楚軍を大敗させ、踐土で王に捕虜を献じて侯伯に策命される
- 僖公二十九年前631年翟泉で盟い、踐土の盟を継いで鄭討伐を謀る
- 僖公三十年前630年晉侯と秦伯が鄭を囲む
- 僖公三十一年前629年曹の地を分けて濟西の田を取り、清原で蒐して五軍を編成する
- 僖公三十二年前628年楚の鬬章が和を請うて晉楚が初めて通じ、冬に文公が卒する
- 僖公三十三年前627年殽で秦軍を破って三帥を捕らえ、箕で狄を破って先軫が死ぬ
- 文公元年前626年襄公が衞を討って戚を囲み、孫昭子を捕らえる
- 文公二年前625年彭衙で秦軍を破り、狼瞫が死をもって勇を示す
- 文公三年前624年諸侯の軍が沈を討ち、晉が僖公と盟を改める
- 文公四年前623年晉人が孔達を衞に返し、曹伯が晉へ行って貢の額を定める
- 文公六年前621年襄仲が晉へ行って襄公を葬る
- 文公七年前620年郤缺が趙宣子に、衞の地を返して徳を示すよう説く
- 文公八年前619年晉侯が匡と戚の田を衞に返し、公壻池の封の境を定める
僖公二十三年(前637年)
- 晉の公子重耳が難に遭ったとき、晉人は蒲城で討った。蒲城の人は戦おうとしたが、重耳は許さず、「君父の命を守ってその生禄を享け、そこで人を得た。人を得て刃向かうなら、これ以上の罪はない。私は亡命しよう」と言い、そのまま狄へ亡命した。従者は狐偃・趙衰・顛頡・魏武子・司空季子であった。
- 狄人が廧咎如を討ってその二人の娘、叔隗と季隗を得、公子に納れた。公子は季隗を娶って伯鯈と叔劉を生み、叔隗を趙衰に嫁がせて盾を生んだ。齊へ行こうとして季隗に「私を二十五年待て。来なければ嫁げ」と言うと、「私はもう二十五です。さらにそれだけ経って嫁いだのでは棺に入ってしまいます。お待ちいたします」と答えた。狄に十二年いて去った。
- 衞を通ると衞の文公は礼遇しなかった。五鹿を出て野人に食を乞うと、野人は土塊を与えた。公子は怒って鞭打とうとしたが、子犯が「天の賜物です」と言い、稽首して受けて車に載せた。
- 齊に着くと齊の桓公が娘を娶らせ、馬二十乗を与えた。公子はそこに安んじた。従者はよくないと考えて出発しようとし、桑の下で謀った。蚕を飼う下女がその上にいて姜氏に告げた。姜氏はその女を殺し、公子に「あなたには四方への志がある。それを聞いた者は私が殺しました」と言った。公子は「そんなものはない」と言った。姜は「行かれよ。懐かしみと安逸はまことに名を敗ります」と言ったが、公子は承知しなかった。姜は子犯と謀って酔わせて送り出した。醒めた公子は戈で子犯を追った。
- 曹に着くと、曹の共公はその肋骨が一枚につながっていると聞き、裸で浴びるのを見ようとして、薄い幕越しに見た。僖負羈の妻は「私が晉の公子の従者を見るに、みな国の相となるに足ります。あの人を相として輔ければ必ず国に帰り、国に帰れば必ず諸侯に志を得ましょう。諸侯に志を得て無礼な者を誅せば、曹はその筆頭です。あなたはなぜ早く自ら別に構えぬのですか」と言った。そこで盤に食事を贈り、璧を添えた。公子は食事を受けて璧は返した。
- 宋に着くと、宋の襄公は馬二十乗を贈った。
- 鄭に着くと鄭の文公も礼遇しなかった。叔詹が諫めた。「臣は聞いております、天が啓く者に人は及ばぬと。晉の公子には三つあります。男女が同姓なら子孫は栄えぬのに、晉の公子は姫の出でありながら今日まで生きている。一つ。国外の患いに遭いながら天が晉国を安んじない。おそらく彼を啓こうとしている。二つ。三人の士があって人の上に立つに足り、しかも彼に従っている。三つ。晉と鄭は同輩であり、その子弟が通れば礼遇すべきです。まして天の啓く者においては」。聴かなかった。
- 楚に着くと、楚子が饗応して「公子がもし晉国に帰られたら、何をもって不榖に報いられる」と言った。「子女や玉帛は君がお持ちです。羽毛・歯・革は君の地に産します。晉国に及ぶのは君の余りものです。何をもって君に報いられましょう」と答えた。「とはいえ、何をもって私に報いる」と言うと、こう答えた。「もし君の霊によって晉国に帰り、晉と楚が兵を交えて中原で遭うことになれば、君を避けて三舎退きましょう。それでも許されぬなら、左に鞭と弓を執り右に矢筒と弓袋を負って、君と渡り合いましょう」。
- 子玉が殺すことを請うたが、楚子は言った。「晉の公子は広くして倹しく、文があって礼にかない、その従者は粛やかで寛やか、忠にして力がある。晉侯には親しむ者がなく内外が憎んでいる。私は聞いている、姫姓のうち唐叔の後が最も遅く衰えると。それは晉の公子によるのではないか。天が興そうとしているのに、誰が廃せよう。天に背けば必ず大きな咎がある」。そこで秦へ送った。
- 秦伯は女五人を納れ、懷嬴もその中にいた。匜を捧げて手を洗わせ、終わって手を振って水を払うと、懷嬴は怒って「秦と晉は対等です。なぜ私を卑しめるのですか」と言った。公子は懼れて礼服を脱ぎ囚人の姿になった。
- 後日、公が饗応した。子犯は「私は衰の文才に及びません。衰を従わせてください」と言った。公子が河水を賦し、公は六月を賦した。趙衰は「重耳よ、賜物に拝せられよ」と言い、公子は堂を降りて拝し稽首した。公が一段降りて辞退すると、衰は「君は天子を輔ける道をもって重耳に命じられました。重耳が拝さぬわけがありません」と言った。
僖公二十四年(前636年)
- 春正月、秦伯が重耳を入国させた。経に書かないのは、入国を告げてこなかったからである。
- 河に至ると、子犯が璧を公子に授けて「臣は手綱を負って君に従い天下を巡りました。臣の罪は甚だ多い。臣でさえ知っているのですから、まして君は。ここからお暇をいただきたい」と言った。公子は「舅氏と心を同じくせぬなら、この白い水のごとくあれ」と言い、その璧を河に投じた。
- 河を渡って令狐を囲み、桑泉に入り、臼衰を取った。二月甲午、晉軍が廬柳に陣した。秦伯が公子縶を晉軍へ遣わすと軍は退いて郇に陣した。辛丑、狐偃が秦・晉の大夫と郇で盟った。壬寅、公子は晉軍に入り、丙午、曲沃に入り、丁未、武宮に朝し、戊申、懷公を高梁で殺させた。経に書かないのも告げてこなかったからである。
- 呂氏と郤氏は圧迫を懼れ、公宮を焼いて晉侯を弑そうとした。寺人披が謁見を請うと、公は使者に責めさせ、あわせて断らせた。「蒲城の役で、君は一夜のうちに来いと命じたのに、お前はすぐ来た。その後、私が狄君に従って渭のほとりで狩をしたとき、お前は惠公のために私を殺しに来た。三夜のうちにと命じられたのに、お前は二夜で来た。君命があったとはいえ、なぜあれほど速かったのか。あの袖はまだある。お前は去れ」。
- 披は答えた。「臣は君が入国されたからには、そのあたりのことはご存じかと思っておりました。まだお分かりでないなら、また難に遭われましょう。君命に二つはないのが古の制です。君の憎むものを除くのは力の限りを尽くすまで。蒲の人、狄の人など私に何の関わりがありましょう。いま君は即位された。蒲も狄もないのではありませんか。齊の桓公は鉤を射られたことを措いて管仲を相としました。君がそれを変えられるなら、命を辱めるまでもありません。去る者は甚だ多くなりましょう。刑を受けた臣だけではありますまい」。公は会い、難を告げられた。
- 三月、晉侯はひそかに秦伯と王城で会した。己丑の晦、公宮が焼けた。瑕甥と郤芮は公を得られず河上へ行き、秦伯が誘い出して殺した。晉侯は夫人嬴氏を迎えて帰り、秦伯は三千人を晉へ送って護衛とした。まことに紀綱の僕である。
- はじめ晉侯の豎である頭須は蔵を守る者であったが、公が出奔したとき蔵を盗んで逃げ、それをすべて使って公の帰国を図った。公が入国してから謁見を求めたが、公は髪を洗っているからと断った。頭須は僕人に言った。「髪を洗えば心が逆さになる。心が逆さになれば考えも逆になる。私が会えぬのも当然だ。留まった者は社稷の守り、出た者は手綱を執る僕。それでよいではないか。なぜ留まった者を罪とするのか。国君でありながら匹夫を仇とするなら、懼れる者は甚だ多くなる」。僕人が告げると、公は急いで会った。
- 晉侯は亡命に従った者に賞を与えたが、介之推は禄を口にせず、禄も及ばなかった。推は言った。「獻公の子は九人あったが、いま君だけがおられる。惠公・懷公には親しむ者がなく内外が棄てた。天はまだ晉を絶やさず、必ず主を立てる。晉の祀を主る者が君でなくて誰であろう。まことに天が置かれたのに、あの人たちは自分の力と思っている。誣いではないか。人の財を盗むのを盗というのに、まして天の功を貪って自分の力とするのは。下はその罪を義とし、上はその姦を賞する。上下が互いに欺いている。ともに居りがたい」。
- 母が「求めてみてはどうか。死ねば誰を怨もう」と言うと、「咎めながらそれに倣えば、罪はさらに重い。しかも怨み言を出した以上、その禄は食べぬ」と答えた。母が「せめて知らせてはどうか」と言うと、「言葉は身の飾りです。身を隠そうというのに、どうして飾りましょう。それは顕われを求めることです」と答えた。母が「そうできるか。ならばお前と一緒に隠れよう」と言い、そのまま隠れて死んだ。晉侯は探したが得られず、緜上をその祭田とし、「私の過ちを記し、あわせて善人を旌すためだ」と言った。
- 狄の軍が周を討ち、王は鄭へ行って汜に留まり、簡師父を晉へ、左鄢父を秦へ遣わした。
僖公二十五年(前635年)
- 春、秦伯が河上に軍を出して王を復位させようとした。狐偃は晉侯に「諸侯の心を求めるには勤王に如くはありません。諸侯は信じ、しかも大義です。文侯の業を継いで信を諸侯に宣べるには、いまこそその時です」と言った。
- 卜偃に卜させると吉と出、黄帝が阪泉で戦った兆に遇った。公が「私には堪えられぬ」と言うと、「周礼はまだ改まっておりません。いまの王は古の帝です」と答えた。公が「筮せよ」と言うと、大有の睽に変ずるのを得た。「吉です。『公用いて天子に享せらる』の卦に遇いました。戦って勝ち王が饗される。これ以上の吉がありましょうか。しかもこの卦は、天が沢となって日に当たる。天子が心を降して公を迎える形です。よろしいではありませんか。大有が睽に去ってまた復るのも、その所を得るということです」と答えた。
- 晉侯は秦軍を辞退して南下し、三月甲辰、陽樊に陣し、右軍が温を囲み、左軍が王を迎えた。
- 夏四月丁巳、王は王城に入り、太叔を温で捕らえて隰城で殺した。戊午、晉侯が王に朝すると、王は醴を饗して宥を命じた。晉侯は隧を請うたが許されず、「王の章である。徳に代わる者がいないのに二王があるのは、叔父の憎むところでもあろう」と言われ、陽樊・温・原・攢茅の田を与えられた。晉はここから南陽へ進出した。
- 陽樊は服さず、囲むと倉葛が叫んだ。「徳は中国を柔らげ、刑は四夷を威すもの。我らが服さぬのも当然です。ここに王の親姻でない者がありましょうか。それを捕虜にされるのか」。そこでその民を出した。
- 冬、晉侯が原を囲み、三日分の糧を命じた。原が降らぬので撤退を命じた。斥候が出て「原は降ろうとしています」と言い、軍吏が「待ちましょう」と請うた。公は「信は国の宝であり、民の庇うところである。原を得て信を失って、何をもって庇おう。失うものが多くなる」と言い、一舍退くと原は降った。原伯貫を冀へ移し、趙衰を原の大夫、狐溱を温の大夫とした。
僖公二十六年(前634年)
- 夏、齊の孝公が魯の北境を討った。衞人が齊を討ったのは洮の盟によるものである。
- 僖公は展喜を遣わして軍を犒わせ、展禽から言葉を受けさせた。齊侯がまだ国境に入らぬうちに展喜は追いつき、「寡君は君が自ら玉趾をお運びになり我が国へお越しになると聞き、下臣を遣わして執事を犒わせました」と言った。齊侯が「魯人は懼れているか」と問うと、「小人は懼れておりますが、君子はそうではありません」と答えた。齊侯が「家は磬を掛けたように空っぽ、野に青草もない。何を恃んで懼れぬのか」と問うと、こう答えた。
- 「先王の命を恃んでおります。昔、周公と太公は周室の股肱として成王を輔けました。成王は労って盟を賜り、『世々子孫、互いに害するなかれ』と誓われた。その盟書は盟府にあり、太師が司っております。桓公はそれゆえ諸侯を糾合し、和さぬ者を謀り、欠けを繕い災を匡し救って、旧職を明らかにされた。君が即位されると諸侯は『桓公の功を継がれよう』と望みました。我が国はそれゆえ籠城の備えをせず、『どうして九年で継いだ君が命を棄て職を廃せよう。先君に対してどうなろう。君は必ずそうはなさるまい』と言っております。これを恃んで懼れぬのです」。齊侯は引き返した。
- 東門襄仲と臧文仲が楚へ行って出兵を乞うた。臧孫は子玉に会い、齊と宋を討つよう導いた。彼らが臣たらぬからである。
- 宋は晉侯と善かったので楚に叛いて晉についた。冬、楚の令尹子玉と司馬子西が軍を率いて宋を討ち、緡を囲んだ。
- 僖公が楚軍を率いて齊を討ち、榖を取った。およそ軍を自在に動かせる場合を「以」という。桓公の子の雍を榖に置き、易牙が補佐して魯の後ろ盾とし、楚の申公叔侯が守備した。桓公の子七人が楚で七大夫となった。
僖公二十七年(前633年)
- 楚子が宋を囲もうとして子文に睽で兵を整えさせた。一朝で終わり、一人も戮さなかった。子玉が改めて蒍で兵を整えると、一日かかり、七人を鞭打ち三人の耳を貫いた。国老はみな子文を祝った。子文が酒を振る舞ったところ、蒍賈はまだ幼く、後から来て祝わなかった。子文が問うと、こう答えた。
- 「何を祝うのか分かりません。あなたが子玉に政を伝えたのは『国を靖んじるため』と言われた。内を靖んじて外で敗れては、得るところがどれほどありましょう。子玉の敗北はあなたの推挙によるものです。推挙して国を敗るのに、何を祝いましょう。子玉は剛で礼がない。民を治められません。三百乗を越えれば、無事に帰ることはできますまい。無事に帰ってから祝っても遅くはありません」。
- 冬、楚子と諸侯が宋を囲んだ。宋の公孫固が晉へ行って急を告げた。先軫は「施しに報い患いを救い、威を取り覇を定めるのはここにあります」と言った。狐偃は「楚は曹を得たばかりで衞と新たに婚を結んだ。曹と衞を討てば楚は必ず救う。そうすれば齊と宋は免れます」と言った。
- そこで被廬で蒐を行い三軍を編成し、元帥を謀った。趙衰は「郤縠がよろしい。臣はしばしばその言を聞きました。礼楽を喜び詩書に篤い。詩書は義の府、礼楽は徳の則、徳義は利の本です。夏書に『言をもって納れ、功をもって試し、車服をもって用いる』とあります。君は試されよ」と言った。そこで郤縠に中軍を率いさせ郤溱が補佐し、狐偃に上軍を率いさせようとすると狐毛に譲って補佐となり、趙衰を卿に命じると欒枝と先軫に譲ったので、欒枝に下軍を率いさせ先軫が補佐した。荀林父が戎車を御し、魏犨が右に立った。
- 晉侯は入国して二年その民を教え、用いようとした。子犯は「民はまだ義を知らず、その居に安んじておりません」と言った。そこで出て襄王を定めた。入って民を利することに務めると、民は生に安んじた。用いようとすると、子犯は「民はまだ信を知らず、その用い方が行き渡っておりません」と言った。そこで原を討って信を示すと、民は物を交易するのに多くを求めず、その言葉を明らかに守った。公が「もうよいか」と言うと、子犯は「民はまだ礼を知らず、恭しさが生じておりません」と言った。そこで大蒐を行って礼を示し、執秩の官を作ってその官を正した。民は聴いて惑わず、その後で用いた。榖の守備兵を追い出し宋の囲みを解き、一戦して覇となったのは、文公の教えによる。
僖公二十八年(前632年)
- 春、晉侯が曹を討とうとして衞に道を借りたが、衞人は許さなかった。南河から引き返して渡り、曹を侵し衞を討った。正月戊申、五鹿を取った。二月、晉の郤縠が卒し、原軫が中軍を率い、胥臣が下軍を補佐した。徳を上としたのである。
- 晉侯と齊侯が斂盂で盟った。衞侯が盟を請うたが晉人は許さなかった。衞侯は楚に与しようとしたが国人が望まず、その君を追い出して晉に釈明した。衞侯は出て襄牛に居した。
- 公子買が衞を守っていた。楚人が衞を救ったが果たせず、僖公は晉を懼れて子叢(買)を殺して釈明し、楚人には「守備を全うしなかった」と言った。
- 晉侯が曹を囲み、門を攻めて多くの死者を出した。曹人はその屍を城上に晒した。晉侯はこれを患え、輿人の謀りに従って「墓に宿営する」と触れさせた。軍が移ると曹人は懼れ、捕らえた者の屍を棺に入れて出した。その恐慌に乗じて攻め、三月丙午、曹に入った。僖負羈を用いず軒に乗る者が三百人いることを数え立て、あわせて「功績を挙げてみよ」と言った。僖負羈の家に入らずその一族を免ずるよう命じた。施しに報いたのである。
- 魏犨と顛頡は怒り、「労に報いることを図られぬ。報いなど何になろう」と言い、僖負羈の家に火を放った。魏犨は胸を傷めた。公は殺そうとしたがその才を惜しみ、使者に様子を見させ、重ければ殺すつもりであった。魏犨は胸を縛って使者に会い、「君の霊によって安らかにしてはおれません」と言い、跳び上がること三百、身を屈めて踊ること三百をしてみせた。そこで赦し、顛頡を殺して軍に示し、舟之僑を立てて戎右とした。
- 宋人が門尹般を晉軍へ遣わして急を告げた。公は「宋人が急を告げてきた。放っておけば絶交となる。楚に告げても許すまい。私は戦いたいが、齊と秦がまだ承知せぬ。どうしたものか」と言った。
- 先軫は答えた。「宋に我らを措いて齊と秦に賄賂を贈らせ、それを介して楚に告げさせなさい。我らが曹君を捕らえ曹・衞の田を分けて宋人に賜れば、楚は曹と衞を愛して必ず許しません。賄賂を喜び頑なさに怒れば、戦わずにいられましょうか」。公は喜び、曹伯を捕らえ、曹・衞の田を分けて宋人に与えた。
- 楚子は申へ入り、申叔に榖を去らせ、子玉に宋を去らせて言った。「晉軍に従うな。晉侯は国外に十九年いて果たして晉国を得た。険阻艱難をすべて嘗め、民の情と偽りをことごとく知っている。天が年を与えその害を除いた。天の置くものを廃せようか。軍志に『ちょうどよければ帰れ』とあり、また『難を知って退け』とあり、また『徳ある者には敵せぬ』とある。この三つの志は晉のことである」。
- 子玉は伯棼を遣わして戦いを請い、「あえて必ず功を立てるというのではありません。讒言する者の口を塞ぎたいのです」と言った。王は怒って与える軍を少なくし、ただ西広・東宮と若敖の六卒だけが従った。
- 子玉は宛春を晉軍へ遣わして「衞侯を復し曹を封じてくださるなら、臣もまた宋の囲みを解きましょう」と告げさせた。子犯は「子玉は無礼だ。君は一つを取り臣は二つを取る。この機を逃せぬ」と言った。先軫は言った。「与えて定めなさい。人を定めるのを礼という。楚は一言で三国を定め、我らは一言でそれを滅ぼす。我らこそ無礼だ。何をもって戦おう。楚の言を許さねば宋を棄てることになる。救っておいて棄てては、諸侯に何と言おう。楚に三つの施しがあり我らに三つの怨みがある。怨みと仇が多くては何をもって戦おう。ひそかに曹と衞の復位を許して離間し、宛春を捕らえて楚を怒らせ、戦ってから図るに如くはない」。
- 公は喜び、宛春を衞に拘束し、ひそかに曹と衞の復位を許した。曹と衞は楚に絶交を告げ、子玉は怒って晉軍を追った。晉軍は退いた。軍吏が「君が臣を避けるのは辱めです。しかも楚軍は疲れている。なぜ退くのか」と言うと、子犯は答えた。「軍は理があれば壮んで、理がなければ疲れる。日数の問題ではない。楚の恵みがなければここまで来られなかった。三舍退いて避けるのが報いである。恵みに背き言を食んで仇に立ち向かえば、我らが曲で楚が直となる。彼らの衆は元来満ち足りており、疲れているとはいえぬ。我らが退いて楚が帰るなら、我らは何を求めよう。帰らぬなら、君は退き臣が犯すのだから、曲は彼らにある」。三舍退くと、楚の衆は止まろうとしたが子玉は聴かなかった。
- 夏四月戊辰、晉侯・宋公・齊の國歸父・崔夭・秦の小子憗が城濮に陣した。楚軍は酅を背にして陣した。晉侯はこれを患えたが、輿人が「原の田は青々と茂る。旧きを捨てて新たに謀ろう」と誦するのを聴いて疑った。子犯は「戦いなさい。戦って勝てば必ず諸侯を得ます。勝てなくとも表裏に山河があり、必ず害はありません」と言った。公が「楚の恵みをどうする」と言うと、欒貞子は「漢陽の諸姫は楚がことごとく滅ぼしました。小さな恵みを思って大きな恥を忘れるより、戦うに如くはありません」と言った。
- 晉侯は楚子と組み打ちする夢を見た。楚子が自分に伏さり脳を吸った。それで懼れたが、子犯は「吉です。我らは天を得、楚はその罪に伏す。我らはこれを柔らげるのです」と言った。
- 子玉は鬬勃を遣わして戦いを請い、「君の士と戯れることをお許しください。君は軾に凭れて観られよ。得臣も見物いたします」と言った。晉侯は欒枝に答えさせた。「寡君は命を承りました。楚君の恵みをまだ忘れておりません。それゆえここにおります。大夫のために退いたのに、どうして君に当たれましょう。命が得られぬ以上、あえて大夫を煩わせます。二三の者に告げよ。汝の車乗を戒め、汝の君事を敬み、明朝お目にかかろう」。
- 晉の車は七百乗、韅・靷・鞅・靽を整えていた。晉侯は有莘の墟に登って軍を観て「少壮も年長も礼にかなっている。用いられる」と言い、そのままその木を伐って兵器を増した。
- 己巳、晉軍は莘の北に陣した。胥臣が下軍の佐として陳・蔡に当たった。子玉は若敖の六卒で中軍を率い、「今日こそ晉はなくなろう」と言った。子西が左を、子上が右を率いた。胥臣は馬に虎の皮をかぶせて先に陳・蔡を犯し、陳・蔡は敗走して楚の右師は潰えた。狐毛は二本の旗を立てて退き、欒枝は車に柴を曳かせて偽って逃げた。楚軍が馳せかかると、原軫と郤溱が中軍の公族で横から撃ち、狐毛と狐偃が上軍で子西を挟み撃ちにして、楚の左師が潰え、楚軍は大敗した。子玉はその兵を収めて止まったので敗れずに済んだ。晉軍は三日間その糧を食べ、癸酉に引き上げた。
- 甲午、衡雍に至り、踐土に王宮を造った。この役の三か月前、鄭伯は楚へ行って軍を出していたが、楚軍が敗れて懼れ、子人九を遣わして晉と和を結ばせた。晉の欒枝が入って鄭伯と盟った。五月丙午、晉侯は鄭伯と衡雍で盟った。丁未、楚の捕虜を王に献じた。四頭立ての甲車百乗、歩兵千人。鄭伯が王を輔けて礼を行った。平王が晉の文侯を饗した礼を用いたのである。
- 己酉、王は醴を饗して晉侯に宥を命じ、尹氏と王子虎・内史叔興父に策命させて晉侯を侯伯とし、大輅の服・戎輅の服、彤弓一・彤矢百・玈弓矢千、秬鬯一卣、虎賁三百人を賜り、「王は叔父に言う。敬んで王命に服し、四国を安んじ、王を害する者を糾し遠ざけよ」と告げた。晉侯は三たび辞退してから命に従い、「重耳、あえて再拝稽首して天子の大いなる休命を奉じ揚げます」と言い、策を受けて退出し、都合三度謁見した。
- 衞侯は楚軍が敗れたと聞いて懼れ、楚へ亡命し、そのまま陳へ行き、元咺に叔武を奉じて盟を受けさせた。
- 癸亥、王子虎が諸侯と王庭で盟い、「みな王室を助け、互いに害するなかれ。この盟に背く者は明神が誅し、その軍を斃し、国を保てず、その子孫に至るまで老幼を問わず及ぼす」と誓わせた。君子はこの盟を信といい、晉はこの役において徳をもって攻めたと評した。
- はじめ楚の子玉は自分のために瓊の弁と玉の纓を作ったが、まだ用いていなかった。開戦前、河の神が「私にくれ。私は汝に孟諸の沢を与えよう」と言う夢を見た。子玉は献じなかった。大心と子西が榮黄に諫めさせたが聴かなかった。榮季は「死んで国を利するなら人はそれさえ行う。まして瓊玉においては。それは糞土のようなものだ。それで軍を成せるなら、何を惜しまれるのか」と言ったが聴かなかった。退いて二人に「神が令尹を敗るのではない。令尹が民に勤めぬから自ら敗れるのだ」と告げた。
- 敗れてから王は使者に「大夫がもし帰れば、申と息の老人たちに何と言おう」と言わせた。子西と孫伯は「得臣は死のうとしましたが、二臣が止めて『君は必ずこれを戮されよう』と言いました」と言った。連榖に至って死んだ。晉侯はこれを聞いて喜色が隠せず、「もう私を害する者はない。蒍呂臣が令尹となるが、己を奉ずるだけで民のことは眼中にない」と言った。
- 城濮の戦いで、晉の中軍が沢で風に遭い、大旆の左の旃を失った。祁瞞が命に背いたので司馬が殺し、諸侯に示した。茅茷を代わりに立てた。
- 軍が帰り、壬午、河を渡った。舟之僑は先に帰り、士會が右を代行した。秋七月丙申、凱歌を上げて晉に入り、捕虜を献じ馘を授け、廟に飲至し、大いに賞を行い、会を徴し二心ある者を討ち、舟之僑を殺して国に示した。民はここで大いに服した。君子は「文公はよく刑を用いた。三つの罪を罰して民が服した。詩に『この中国を恵み、四方を安んず』とあるのは、賞と刑を失わぬことをいう」と評した。
- 冬、温で会した。服さぬ者を討ったのである。
- この会で晉侯は王を召して諸侯に会わせ、あわせて王に狩をさせた。仲尼は「臣が君を召すのは訓とできぬ」と言った。だから経に「天王河陽に狩す」と書いた。その地でないことをいい、あわせて徳を明らかにしたのである。壬申、僖公が王のもとに朝した。
- 丁丑、諸侯が許を囲んだ。晉侯が病んだ。曹伯の豎である侯獳は筮史に賄賂を贈り、「曹のことを理由に言え」と言わせた。「齊の桓公は会を開いて異姓を封じました。いま君は会を開いて同姓を滅ぼしておられる。曹の叔振鐸は文王の昭、先君の唐叔は武王の穆です。しかも諸侯を集めて兄弟を滅ぼすのは礼ではありません。衞とともに命じながらともに復さぬのは信ではありません。同じ罪に異なる罰を与えるのは刑ではありません。礼は義を行い、信は礼を守り、刑は邪を正す。この三つを捨てて、君はどうなさいますか」。公は喜び、曹伯を復させ、そのまま諸侯と会して許を囲んだ。
- 晉侯が三行を編成して狄に備えた。荀林父が中行を、屠擊が右行を、先蔑が左行を率いた。
僖公二十九年(前631年)
- 夏、僖公が王子虎・晉の狐偃・宋の公孫固・齊の國歸父・陳の轅濤塗・秦の小子憗と翟泉で盟った。踐土の盟を継ぎ、あわせて鄭討伐を謀ったのである。卿を書かないのは罪としたからである。礼では卿は公侯と会せず、伯・子・男となら会してよい。
僖公三十年(前630年)
- 春、晉人が鄭を侵し、攻められるかどうかを観た。狄は晉が鄭に気を取られている隙をついた。夏、狄が齊を侵した。
- 九月甲午、晉侯と秦伯が鄭を囲んだ。晉に無礼であり、しかも楚に二心を抱いたからである。
僖公三十一年(前629年)
- 春、濟西の田を取った。曹の地を分けたのである。臧文仲を遣わすとき、重に宿ると、重の館の人が「晉は新たに諸侯を得た。必ずその恭しい者を親しむ。速やかに行かねば間に合わなくなります」と告げ、これに従った。曹の地を分け、洮から南、東は濟に接するまで、曹の地をすべて得た。
- 襄仲が晉へ行き、曹の田を謝した。
- 秋、晉が清原で蒐を行い、五軍を編成して狄に備えた。趙衰を卿とした。
僖公三十二年(前628年)
- 春、楚の鬬章が晉に和を請い、晉の陽處父が返礼した。晉と楚が初めて交わりを通じた。
- 冬、晉の文公が卒した。庚辰、曲沃に殯しようとして絳を出るとき、柩が牛のような声を発した。卜偃は大夫に拝させて「君が大事を命じられた。西の軍が我らを通り過ぎよう。撃てば必ず大勝する」と言った。
僖公三十三年(前627年)
- 秦軍が滑を滅ぼして帰った。晉の原軫は「秦は蹇叔に背き、貪りによって民を労した。天が我らに与えたのだ。与えられたものは失えず、敵は放てぬ。敵を放てば患いが生じ、天に背けば不祥である。必ず討つべきだ」と言った。欒枝は「秦の施しに報いぬままその軍を討つのでは、亡き君を思っているといえましょうか」と言った。先軫は「秦は我らの喪を哀しまず我らの同姓を討った。秦こそ無礼だ。何の施しがあろう。私は聞いている、一日敵を放てば数代の患いとなると。子孫のために謀るのが、亡き君を思わぬことになろうか」と言った。
- そこで命を発して急ぎ姜戎を起こし、喪服を黒く染め、梁弘が戎車を御し、萊駒が右に立った。夏四月辛巳、殽で秦軍を破り、百里孟明視・西乞術・白乙丙を捕らえて帰り、そのまま黒衣で文公を葬った。晉はここから喪服を黒くするようになった。
- 狄が齊を侵した。晉の喪に乗じたのである。
- 狄が晉を討って箕に至った。八月戊子、晉侯が箕で狄を破り、郤缺が白狄子を捕らえた。先軫は「匹夫が君に対して志を遂げながら討たれなかった。自ら討たずにおれようか」と言い、兜を脱いで狄の陣に入って死んだ。狄人がその首を返すと、生けるがごとくであった。
- 晉・陳・鄭が許を討った。楚に二心を抱いたことを討ったのである。
- 楚の令尹子上が陳と蔡を侵した。陳と蔡が和を結び、そのまま鄭を討った。
- 晉の陽處父が蔡を侵し、楚の子上が救って、晉軍と泜水を挟んで陣した。陽子はこれを患え、子上に「私は聞いている、文は順を犯さず、武は敵を避けぬと。あなたが戦いたければ私が一舍退こう。あなたが渡って陣を敷かれよ。遅速は命のままに。そうでなければ我らを引き延ばして軍を疲れさせ財を費やすだけで、益はない」と言わせ、車を出して待った。
- 子上が渡ろうとすると、大孫伯は「なりません。晉人に信はない。半ば渡ったところで迫れば、敗れて悔いても及びません。引き延ばすに如くはない」と言い、そこで一舍退いた。陽子は「楚軍が逃げた」と触れてそのまま帰り、楚軍も帰った。太子商臣は子上を讒言して「晉の賄賂を受けて避けた。楚の恥です。これ以上の罪はない」と言い、王は子上を殺した。
文公元年(前626年)
- 晉の文公の晩年、諸侯が晉に朝したが、衞の成公は朝せず、孔達に鄭を侵させ、緜訾と匡を討たせた。
- 晉の襄公は祥祭を終えると諸侯に告げて衞を討ち、南陽に至った。先且居は「悪に倣うのは禍です。君は王に朝され、臣が軍に従いましょう」と請うた。晉侯は温で王に朝し、先且居と胥臣が衞を討った。五月辛酉朔、晉軍が戚を囲み、六月戊戌、孫昭子を捕らえた。
- 衞人が陳に告げると、陳の共公は「改めて討て。私が取りなそう」と言った。衞の孔達が軍を率いて晉を討った。君子はこれを古風だとした。古は国を越えて謀ったのである。
- 秋、晉侯が戚の田の境を定めたので、公孫敖が会した。
文公二年(前625年)
- 春、秦の孟明視が軍を率いて晉を討ち、殽の役に報いた。二月、晉侯が迎え撃った。先且居が中軍を率い趙衰が補佐し、王官無地が戎車を御し、狐鞫居が右に立った。甲子、秦軍と彭衙で戦い、秦軍は大敗した。晉人はこれを「賜物に拝する軍」と呼んだ。
- 殽で戦ったとき、晉の梁弘が戎車を御し、萊駒が右に立った。戦いの翌日、晉の襄公は秦の捕虜を縛り、萊駒に戈で斬らせようとしたが、捕虜が叫んだので萊駒は戈を落とした。狼瞫が戈を取って捕虜を斬り、萊駒を捕らえて公に従わせた。そこで狼瞫を右とした。
- 箕の役で先軫は狼瞫を退けて続簡伯を立てた。狼瞫は怒り、その友が「死んでみせぬのか」と言うと、瞫は「私はまだ死に場所を得ていない」と答えた。友が「私とあなたで難を起こそう」と言うと、瞫はこう答えた。「周志に『勇は上を害せば明堂に登れず、死んで義にかなわねば勇ではない』とある。用を共にするのを勇という。私は勇によって右を求めた。勇がないから退けられたのも当然だ。上が私を知らぬというが、退けたのが妥当なら、まさに私を知っていたことになる。あなたはしばらく待たれよ」。
- 彭衙で陣が整うと、その配下を率いて秦軍に馳せ入って死んだ。晉軍が続いて秦軍を大敗させた。君子は狼瞫をここにおいて君子と評した。詩に「君子もし怒れば、乱はほとんど速やかに止む」とあり、また「王は赫として怒り、そこでその旅を整える」とある。怒って乱を起こさず軍に従ったのは君子といえる。
- 晉人は僖公が朝さなかったことを咎めて討ちに来た。僖公は晉へ行った。夏四月己巳、晉人は陽處父に僖公と盟わせて恥をかかせた。経に「晉の處父と盟う」と書いたのはそれを咎めたのである。晉へ行ったことを書かないのは憚ったのである。
- 僖公がまだ帰らぬ六月、穆伯が諸侯および晉の司空士縠と垂隴で盟った。晉が衞を討ったからである。「士縠」と書いたのは、その事に堪えたからである。陳侯が衞のために晉に和を請い、孔達を捕らえて釈明した。
文公三年(前624年)
- 春、莊叔が諸侯の軍と会して沈を討った。楚に服したからである。沈は潰えた。およそ民が上から逃げるのを「潰」、上にある者が逃げるのを「逃」という。
- 衞侯が陳へ行き、晉との和を謝した。
- 楚軍が江を囲み、晉の先僕が楚を討って江を救った。
- 冬、晉が江のことを周に告げた。王叔桓公と晉の陽處父が楚を討って江を救い、方城の門に迫ったが、息公子朱に出会って引き返した。
- 晉人は僖公に無礼であったことを懼れ、盟を改めることを請うた。僖公が晉へ行き、晉侯と盟った。晉侯が饗応して菁菁者莪を賦すと、莊叔は僖公を降ろして拝させ、「小国が大国から命を受けるのに、どうして儀を慎まぬことがありましょう。君が大礼を賜った。これ以上の楽しみがありましょうか。小国の楽しみは大国の恵みです」と言った。晉侯は降りて辞退し、登って拝を受け、僖公は嘉樂を賦した。
文公四年(前623年)
- 春、晉人が孔達を衞に返した。衞の良臣であるとして赦したのである。
- 夏、衞侯が晉へ行って謝した。
- 曹伯が晉へ行き、貢の額を定めた。
文公六年(前621年)
- 冬十月、襄仲が晉へ行って襄公を葬った。
文公七年(前620年)
- 晉の郤缺が趙宣子に言った。「先に衞が睦まじくなかったのでその地を取りました。いまは睦まじくなっている。返してよいでしょう。叛いて討たねば何をもって威を示し、服して柔らげねば何をもって懐けを示しましょう。威でも懐けでもなければ何をもって徳を示し、徳がなければ何をもって盟を主りましょう。あなたは正卿として諸侯を主りながら徳に務めぬ。どうされるのか。夏書に『これを戒めるに休をもってし、これを督するに威をもってし、これを勧めるに九歌をもってして、壊れさせるな』とあります。九功の徳はみな歌えるので九歌といい、六府と三事を九功といいます。水・火・金・木・土・穀を六府、正徳・利用・厚生を三事という。義をもってこれを行うのを徳礼といい、礼がなければ楽しまず、叛く所以となります。もしあなたの徳に歌えるものがなければ、誰が来ましょう。睦まじい者にあなたを歌わせてはいかがか」。宣子は喜んだ。
文公八年(前619年)
- 春、晉侯が解揚を遣わして匡と戚の田を衞に返し、あわせて公壻池の封を、申から虎牢の境まで改めて定めさせた。
史論(士竒)
- 晉の文公は驪姫の乱を避け、狄・鄭・衞・齊・宋・曹・楚・秦の諸国を経て険阻を嘗め尽くし、その才を練り、十九年にしてついに晉国に帰った。負債を棄て税を薄くし、寡なき者に分かち乏しきを救い、滞る者を振るい困る者を匡し、善を挙げ能に授け、官に方法を与え物を定めるなど、諸々の大政によって晉国の常度は一変した。原を討って信を示し、大蒐で礼を示し、王を定めて義を示した。それゆえ榖の守備兵を追い出し宋の囲みを解き、一戦して館穀の功を収めた。齊の桓公以後、これほど赫々たる功烈はない。
- しかし晉の覇の基は、ただ王を定めた一挙にある。当時、天子は塵をかぶり、簡師父を晉へ、左鄢父を秦へ遣わした。秦伯は河上に軍を集めて王を入れようとしていた。もし秦が王を定める美を専らにしていたら、天下の望みは秦へ走り、晉の大事は去っていた。曹操が先に獻帝を得て袁紹が争えず、朱梁が乗輿を奪って李克用が抗せなかったのは、名分の在るところ形勢が制するという自然の理である。だから狐偃が晉侯に「諸侯を求めるには勤王に如くはない」と言ったところに、威を取り覇を定める謀があり、文公がそれを聴けたのは賢というべきである。
- ただ南陽の賞を受けたとき陽樊が服さず、軍を用いて囲み、王の姻親を危うく捕虜にしかけた。妄りに隧を請うて王の章を汚し乱し、天子を翼戴するのが諸侯の常職であることを知らなかった。純臣のすることではない。
- 城濮の功は高いが、先軫の詭謀を信じて曹・衞の復位を許し宛春を拘留し、ひたすら楚を破ることだけを考えて、兵を按じ礼を修める風がなかった。召陵に比べれば、まさに「譎にして正しからず」というものであろう。
- おおよそ文公の人となりは齊の桓公にはるかに及ばず、その臣である子犯・趙衰・先軫の輩にも、管夷吾のように大体を知る者がなかった。だから桓公は死に瀕した怨みを忘れ剣を手にされた辱めを忍べたが、文公は帰国後ひたすら報復に努めた。裸を覗かれた恨みには衞君を襄牛へ追い出し、土塊を与えられた憤りには曹君に「功績を挙げてみよ」と責めた。ついに晉陽で繋がれ深室で辱められるに至り、衞の受けた禍はことに烈しく、君臣がともに獄に下り兄弟が相食んだ。人道の常を拂い上下の分を乱してまで、そうしなければ心が晴れなかった。鄭の小さな行き違いも捨てられず、秦伯と組んで討ち、釁を結び民を損ない、兵端が絶えなかった。文公の行いを辿れば、まさに睚眦にも必ず報いる人である。子犯が璧を授け、子推が身を焼いたのも、文公の狭い心を見抜き、功を録し過ちを略すことができぬと考えたからであろう。世人はただ豎の頭須や里鳧須に対して忍べたことを見て称えるが、それは考察が足りない。
- 踐土に宮を作ったことは三たび謁見した美を伝えるが、河陽に王を召したのは功が咎を塞がない。聖人が情を原ねてその罪を文らなかったのは、まさにこのためであろう。
- 襄公が覇を継いだが、温で王に会った一事だけが家声を落とさなかった。そう導いたのは先且居である。その他は威を誇り力を恃み、挙動が礼にかなわぬことが多く、殽で秦を破った役はことに甚だしい。
- 秦の穆公は手ずから文公を提げて晉へ帰した。その徳は最も深い。襄公はまた秦から出た甥である。秦伯が軍を労して遠くを襲ったのは、乗ずべき利があったとはいえ、大きな恵みはまだ消えていない。どうして墨の絰で戈を興し、牛の鳴き声を偽って命とし、先君の死を忍んで一撃に心を快くする必要があったのか。父から言えば不孝、甥舅の親から言えば不義、施しに報いる点から言えば不恕、喪中に兵革の事に与らぬ点から言えば不懐、人を険阻で待ち伏せる点から言えば不仁である。殽で破って止まず彭衙が続き、彭衙で止まず汪を取るに至った。秦がもとより晉を怨んだのなら、晉はなぜ秦に対して死に物狂いになったのか。
- 楚軍が江に迫ったときは、総力を尽くして急を救う義を果たせず、わずかに陽處父一人の軍で方城の門に迫っただけで、江の患いはかえって激しくなった。襄公の覇業は、その父に恥じることが遠くないとはいえまい。