左傳紀事本末曲沃、晉を併せる(曲沃併晉)

晉の分家である曲沃が本家の翼を併呑して晉侯となるまでと、その後、獻公が桓叔・莊伯の一族を除くまでを扱う篇。隱公五年(前718年)から莊公二十六年(前668年)まで。穆侯が次子を「成師」と名づけたとき、師服はすでに乱の兆しを見た。桓叔が曲沃に封じられてから、莊伯・武公と三代にわたって翼の孝侯・哀侯・小子侯を殺し、桓公八年(前704年)に翼を滅ぼした。莊公十六年(前678年)、王は宝器の賄賂を受けて曲沃伯に一軍をもって晉侯となることを命じた。その後、獻公は士蒍の謀によって富子・游氏を除き、聚に群公子を集めて一挙に殲滅した。

年表(13件)

隱公五年(前718年)

  • 春、曲沃の莊伯が鄭人・邢人とともに翼を討ち、王は尹氏と武氏を遣わして助けた。翼侯は隨へ逃れた。
  • 夏六月、曲沃が王に叛いた。秋、王は虢公に命じて曲沃を討たせ、哀侯を翼に立てた。

隱公六年(前717年)

  • 春、翼の九宗五正である頃父の子の嘉父が隨に晉侯を迎え、鄂に入れた。晉人はこれを鄂侯と呼んだ。

桓公二年(前710年)

  • はじめ晉の穆侯の夫人姜氏が、条の役のときに太子を生み、「仇」と名づけた。その弟は千畝の戦いのときに生まれ、「成師」と名づけた。師服は言った。「異なことだ。君の子の名づけ方は。名は義を制し、義は礼を生み、礼は政を体し、政は民を正す。だから政が成れば民は聴く。逆になれば乱が生じる。よい連れ合いを妃といい、怨む連れ合いを仇という。古の命名である。いま君は太子を仇、弟を成師と名づけられた。乱の兆しが始まった。兄は退けられるだろう」。
  • 惠公の二十四年、晉に乱が始まったので、桓叔を曲沃に封じ、靖侯の孫の欒賓が傅となった。師服は言った。「私は聞いている、国家が立つには本が大きく末が小さいから固いのだと。だから天子は国を建て、諸侯は家を立て、卿は側室を置き、大夫は貳宗を持ち、士には隷たる子弟があり、庶人・工・商にはそれぞれ分の親があって、みな等級がある。だから民は上に服事し、下に分不相応な望みがない。いま晉は甸侯でありながら国を建てた。本がすでに弱い。長く保てようか」。
  • 惠公の三十年、晉の潘父が昭侯を弑して桓叔を入れようとしたが果たせず、晉人は孝侯を立てた。惠公の四十五年、曲沃の莊伯が翼を討って孝侯を弑し、翼人はその弟の鄂侯を立てた。鄂侯が哀侯を生んだ。哀侯が陘庭の田を侵し、陘庭の南の辺境が曲沃を導いて翼を討たせた。

桓公三年(前709年)

  • 春、曲沃の武公が翼を討ち、陘庭に陣した。韓萬が戎車を御し、梁𢎞が右に立った。翼侯を汾隰まで追ったが、驂馬が絡まって止まり、夜になって捕らえた。あわせて欒共叔も捕らえた。

桓公七年(前705年)

  • 冬、曲沃伯が晉の小子侯を誘い出して殺した。

桓公八年(前704年)

  • 春、翼を滅ぼした。
  • 冬、王は虢仲に命じて晉の哀侯の弟である緡を晉に立てさせた。

桓公九年(前703年)

  • 秋、虢仲・芮伯・梁伯・荀侯・賈伯が曲沃を討った。

莊公十六年(前678年)

  • 冬、王は虢公を遣わし、曲沃伯に一軍をもって晉侯となるよう命じた。

莊公十八年(前676年)

  • 春、虢公と晉侯が王に朝した。王は醴を饗して宥を命じ、いずれにも玉五㲄と馬三匹を賜った。礼に反する。王が諸侯に命ずるとき、名位が異なれば礼の等数も異なる。礼を人に貸してはならない。

莊公二十三年(前671年)

  • 夏、晉の桓叔・莊伯の一族が獻公を圧迫した。獻公はこれを患えた。士蒍は「富子を除けば群公子は謀れましょう」と言った。公は「お前が試みよ」と言い、士蒍は群公子と謀って富子を讒言して除いた。

莊公二十四年(前670年)

  • 秋、晉の士蒍はまた群公子と謀り、游氏の二子を殺させた。士蒍は晉侯に「これでよろしい。二年を出ずして君に憂いはなくなりましょう」と告げた。

莊公二十五年(前669年)

  • 秋、晉の士蒍は群公子に游氏の一族をことごとく殺させ、聚に城を築いて住まわせた。冬、晉侯は聚を囲み、群公子をことごとく殺した。

莊公二十六年(前668年)

  • 春、晉の士蒍が大司空となった。
  • 夏、士蒍が絳に城を築き、その宮を奥深くした。

史論(士竒)

  • 晉の穆侯が千畝の戦いにちなんで次子を成師と名づけたときから、すでに太子仇と嫡を並べる勢いがあった。師服が乱の兆しに嘆息したのはそのためである。
  • 魯の惠公二十四年、晉国が安らがず、別に桓叔を曲沃に建てた。本が大きく末が小さくあるべしという戒めに背いたとはいえ、これを公室の輔けとして緩急に頼ろうとしたのであろう。ところが桓叔は禍心を包蔵し、たちまち併呑の志を抱いた。
  • 潘父が昭侯を弑して桓叔を入れようとして果たせず、孝侯が立った。桓叔が死んで子の鱓が継ぎ、これが曲沃の莊伯である。孝侯の十五年、莊伯が翼で孝侯を弑し、晉人は鄂侯を立てた。六年で卒し、莊伯が翼を討つと平王は虢公に討たせ、晉人は哀侯を立てた。哀侯二年に莊伯が死んで子の稱が継ぎ、これが曲沃の武公である。
  • 魯の桓公三年、武公が翼を討って哀侯を殺し、晉人はその子の小子を立てた。これが小子侯である。七年、武公が小子侯を誘い殺し、翌年に翼を滅ぼすと、王は虢仲に命じて哀侯の弟の緡を立てさせた。莊公十六年、武公が晉侯緡を討って滅ぼし、周はその賄賂を受けて、初めて曲沃に一軍をもって諸侯となるよう命じ、都を晉国へ移した。子の獻公に伝わって強宗を剪り除き諸小国を呑み、晉はここから大きくなった。しかしみな成師の裔であり、晉の大宗は血食を絶たれた。これが曲沃と翼が勢力を争った始末である。
  • 平王は弱かったが、莊伯が哀侯を討ったときはなお一軍でその罪を鳴らせた。ところが釐王は翼を滅ぼした宝器を貪り、ついに武公を立てて諸侯の列に加えた。曲沃を命じたことで五覇が引き連れて討つ端が開き、趙籍・韓虔・魏斯を命じたことで七国戦争の禍が起こった。王の鉞が振るわれなかったことに腕を扼して三たび嘆かずにはいられない。
  • 師服の老練な深慮に当時果たして懲りていれば、大都が国に匹敵する害は防げたであろう。欒共子は三つに仕える義を明らかにし、首を失っても曲沃に屈しなかった。後世、人臣でありながら二心を抱く者を恥じ入らせるに足りる。
  • 士蒍は獻公のために群公子を除く謀をした。はじめは群公子とともに富子を讒言して殺し、次に游氏の二子を殺すことを謀り、まもなく游氏の一族をことごとく殺し、その後で聚に城を築いて群公子を住まわせ、一挙に殲滅した。患いはすべて除かれたとはいえ、桓叔・莊伯の一族に何の罪があって戮されたのか。葛藟が根を庇うように、彼らを全うする道はなかったのか。これほど残忍で陰険なのだから、蒍はまことに国を傾ける士である。