左傳紀事本末陳氏、齊を傾ける(陳氏傾齊)
陳(田)氏が齊へ亡命してから国を傾けるまでを、桓公五年(前707年)から哀公十四年(前481年)まで追う篇。莊公二十二年(前672年)、陳の公子完(敬仲)が齊へ亡命して工正となり、周の史の筮と懿氏の繇が、その子孫が異国で国を持つことを予言していた。桓子は欒氏・高氏を討った家財を公に返し、禄なき公子・公孫に邑を分けて人心を集めた。晏子は豆区釜鍾の量目を挙げて、民が陳氏に帰していることを叔向に語る。陳乞が高氏・國氏を除いて悼公を立て、その子の陳恒(成子)が闞止を除き、哀公十四年(前481年)に簡公を舒州で弑した。
年表(13件)
- 桓公五年前707年陳に乱があり、陳侯鮑の訃報が二度出される
- 莊公二十二年前672年陳の公子完が齊へ亡命して工正となり、その子孫の昌えることが筮に出る
- 襄公二十九年前544年高止が北燕へ追われ、高豎の叛の後、敬仲の曾孫の酀が高氏を継ぐ
- 襄公三十一年前542年子尾が閭丘嬰を殺し、公子たちが国外へ出される
- 昭公二年前540年韓宣子が子旗と彊を見て家を保つ主でないと言い、晏子だけが信じる
- 昭公三年前539年晏子が叔向に、豆区釜鍾の量目を挙げて齊が陳氏のものとなると語る
- 昭公八年前534年子旗と子良の争いを陳の桓子が和解させ、史趙が陳氏の齊での興隆を説く
- 昭公十年前532年陳氏・鮑氏が欒氏・高氏を破り、桓子が家財を公に返して人心を得る
- 昭公二十六年前516年晏子が景公に、陳氏の施しを止められるのは礼だけだと説く
- 哀公五年前490年景公が卒し、荼が立てられて諸公子が衞と魯へ亡命する
- 哀公六年前489年陳乞が高氏・國氏を除き、公子陽生を迎えて立て、荼を殺す
- 哀公八年前487年齊が魯を討って讙と闡を取り、悼公が鮑牧を潞で殺す
- 哀公十四年前481年陳成子が闞止を除き、簡公を捕らえて舒州で弑する
桓公五年(前707年)
- 春正月甲戌と己丑、陳侯鮑が卒したとある。訃報が二度出されたからである。このとき陳に乱があり、文公の子の佗が太子免を殺して代わった。公が病んだところへ乱が起こり、国人が離散したので訃が二度出された。
莊公二十二年(前672年)
- 春、陳人がその太子御寇を殺し、陳の公子完と顓孫が齊へ亡命した。顓孫は齊から魯へ来た。
- 齊侯は敬仲(完)を卿にしようとしたが、辞退して言った。「旅寓の臣が、幸いにも寛大な政に許され、教訓に馴れぬのを赦されて罪を免れ、荷を下ろせるのは君の恵みです。得るものはすでに多うございます。高位を辱めて官の謗りを招くことはできません。死をもって申し上げます。詩に『高くそびえる車に、弓で我を招く。行きたくないわけではないが、我が友を憚る』とあります」。そこで工正とした。
- 桓公に酒を供して楽しくなり、公が「火を灯して続けよう」と言うと、辞退して「臣は昼を卜しましたが夜は卜しておりません。あえていたしません」と言った。君子は「酒は礼を成すもので、続けて淫らにならぬのが義である。君のために礼を成し、淫らに陥れぬのが仁である」と評した。
- はじめ懿氏が娘を敬仲に嫁がせることを卜した。その妻が占って「吉です。これを『鳳凰飛びて、和して鳴くこと鏘鏘たり。媯の後、姜に育たん。五世にして昌え、正卿に並ぶ。八世の後、これに京ぶものなし』といいます」と言った。
- 陳の厲公は蔡の出であり、それゆえ蔡人が五父を殺して立てた。厲公が敬仲を生んだ。その幼いころ、周の史で周易を携えて陳侯に会った者があり、陳侯は筮させた。観の否に変ずるのを得、こう言った。「これを『国の光を観る。用いて王に賓たるに利あり』といいます。この人が陳に代わって国を持つのでしょうか。ここではなく異国においてでしょう。この人自身ではなくその子孫でしょう。光は遠く、他から輝くものです。坤は土、巽は風、乾は天。風が天となって土の上にあるのは山です。山の材があってそれを天の光が照らす。そして土の上にいるので『国の光を観る、王に賓たるに利あり』というのです。庭には百の贄が並び、玉帛をもって奉じ、天地の美が備わる。だから『王に賓たるに利あり』という。なお『観』とあるので『後にあるか』というのです。風が行き渡って土に著くので『異国にあるか』という。異国にあるなら必ず姜姓でしょう。姜は太嶽の後裔で、山嶽は天に配せられる。物は二つながら大きくはなれません。陳が衰えるとき、この家が昌えるのでしょう」。
- 陳が初めて滅んだころ、陳の桓子が齊で大きくなり始めた。陳が再び滅んだ後、成子が政を得た。
襄公二十九年(前544年)
- 秋九月、齊の公孫蠆と公孫竈がその大夫の高止を北燕へ追放した。乙未に出た。経に「出奔」と書いたのは高止を罪としたのである。高止は好んで事を自分の功とし、また専断であったので、難が及んだ。
- 高氏の難のため、高豎が盧に拠って叛いた。十月庚寅、閭丘嬰が軍を率いて盧を囲んだ。高豎は「高氏に後嗣を立ててくださるなら邑を返します」と言った。齊人は敬仲の曾孫の酀を立てた。敬仲を良しとしたのである。十一月乙卯、高豎は盧を返して晉へ亡命した。晉人は緜に城を築いて住まわせた。
襄公三十一年(前542年)
- 齊の子尾は閭丘嬰を害と見て殺そうとし、軍を率いて陽州を討たせた。魯が出兵の理由を問うと、夏五月、子尾は閭丘嬰を殺して魯軍に釈明した。工僂灑・渻竈・孔虺・賈寅は莒へ亡命し、公子たちは国外へ出された。
昭公二年(前540年)
- 韓宣子が魯に聘問に来、そのまま齊へ行って納幣した。子雅に会うと、子雅は子旗を呼んで宣子に会わせた。宣子は「家を保つ主ではない」と言い、臣従しなかった。子尾に会うと、子尾は彊を会わせた。宣子は子旗のときと同じことを言った。大夫の多くは笑ったが、晏子だけが信じて「あの方は君子だ。君子には信がある。分かる何かがあるのだろう」と言った。
昭公三年(前539年)
- 齊侯が晏嬰を遣わして晉に後添えの妻を請わせた。婚が成って晏子が礼を受け、叔向が従って宴となり、語り合った。叔向が「齊はどうか」と問うと、晏子は答えた。
- 「これは末の世です。私には分かりませんが、齊は陳氏のものとなりましょう。公は民を棄て、民は陳氏に帰しております。齊には古くから四つの量、豆・区・釜・鍾があり、四升が豆、それぞれ四倍して釜に至り、釜の十倍が鍾です。陳氏は三つの量をみな一つずつ増したので、鍾は大きくなりました。自家の量で貸し、公の量で取り立てる。山の木は市で山と同じ値、魚・塩・貝は海と同じ値です。民は力の三分の二を公に入れ、残る一で衣食する。公の蓄えは朽ち虫が湧くのに、三老は凍え飢える。国の市では履は安く踊(足斬りの者の義足)は高い。民は痛み苦しんでおり、それを温めいたわる者がある。民が父母のように愛し、流れる水のように帰すのだから、民を得まいとしても、どうして避けられましょう。箕伯・直柄・虞遂・伯戲、その相たる胡公・大姫は、すでに齊にいるのです」。
- はじめ景公は晏子の宅を替えようとし、「あなたの宅は市に近く、じめじめして狭く、騒がしく埃っぽい。住むには向かぬ。乾いて明るい所へ替えられよ」と言った。晏子は辞退して「君の先の臣がここに住まいました。臣にはそれを継ぐだけの徳がなく、臣には過分でございます。しかも小人は市に近ければ朝夕に求めるものが得られる。小人の利です。どうして里の人々を煩わせましょう」と言った。
- 公が笑って「あなたは市に近い。物の高い安いが分かるか」と問うと、「利を得ておりますから、分からぬわけがありません」と答えた。公が「何が高く何が安いか」と問うた。このとき景公は刑罰が多く、義足を売る者があったので、「踊が高く履が安い」と答えた。すでに君に告げていたので、叔向との話でもそれを挙げたのである。景公はこれによって刑を省いた。君子は「仁人の言は利するところが広い。晏子の一言で齊侯は刑を省いた。詩に『君子もし喜べば、乱はほとんど速やかに已む』とあるのは、このことであろう」と評した。
- 晏子が晉へ行っている間に景公はその宅を替え、帰ったときには出来上がっていた。晏子は拝謝してから毀ち、里の家々を元通りに造り、住人を戻して言った。「諺に『宅を卜するのではなく隣を卜するのだ』とある。皆さんは先に隣を卜されている。卜に背くのは不祥です。君子は非礼を犯さず、小人は不祥を犯さぬのが古の制です。私がどうして背けましょう」。ついに元の宅に戻した。公は許さなかったが、陳の桓子を通じて請い、ようやく許された。
- 齊の公孫竈が卒した。司馬竈が晏子に会って「また子雅を失いました」と言うと、晏子は「惜しいことだ。子旗は免れまい。危うい。姜の族は弱まり、媯が昌え始めよう。二人の惠が張り合っていればまだよかったが、また一人減った。姜は危うい」と言った。
昭公八年(前534年)
- 七月甲戌、齊の子尾が卒した。子旗はその家を治めようとし、丁丑、梁嬰を殺した。八月庚戌、子成・子工・子車を追い出し、みな魯へ亡命した。そして子良氏の家宰を立てた。
- 子良の臣は「孺子はもう大きい。それなのに我らの家を執ろうとするのは、併呑するつもりだ」と言い、甲を配って攻めようとした。陳の桓子は子尾と親しく、やはり甲を配って助けようとした。
- ある者が子旗に告げたが信じなかった。数人が告げてようやく行こうとし、また数人が道で告げた。そのまま陳氏の家へ行った。桓子は出ようとしていたが、それを聞いて戻り、平服で迎えて指示を仰いだ。子旗は「彊氏が甲を配ってあなたを攻めると聞いた。あなたは聞かれたか」と言った。「聞いておりません」と答えると、「あなたも甲を配られては」と言った。無宇(桓子)が従うことを願うと、子旗は言った。「あなたはなぜそんなことを。彼は子供だ。私が教えてもうまくいかぬのを懼れているのに、そのうえ寵し秩を与えては、先人に対してどうなろう。あなたから彼に言ってやってくれ。周書に『恵まぬ者に恵み、勤めぬ者に勤めさせる』とある。康叔が大いなるものを服させた所以だ」。桓子は額を地につけて「頃公と靈公の霊があなたに福を与えられよう。私にはなお望みがある」と言い、そのまま元通りに和解させた。
- 九月、楚軍が陳を囲んだ。晉侯が史趙に「陳はついに滅ぶのか」と問うと、「まだです」と答えた。理由を問うと、こう答えた。「陳は顓頊の族です。歳星が鶉火にあるとき、ついに滅びましょう。陳もそうなります。いま歳星は析木の津にあり、なお一巡します。しかも陳氏が齊で政を得てから陳はついに滅ぶのです。幕から瞽瞍まで命に背く者はなく、舜が明徳を重ね、その徳を遂に置き、遂は代々守りました。胡公に至るまで淫らでなかったので、周は姓を賜り虞帝を祀らせた。臣は聞いております、盛徳は必ず百世祀られると。虞の世数はまだ足りません。継いで守るのは齊においてでしょう。その兆しはすでに現れております」。
昭公十年(前532年)
- 齊の惠氏(欒氏)と高氏はみな酒を好み妻妾の言を信じ、怨みを買うことが多かった。陳氏・鮑氏より強くて、これを憎んだ。
- 夏、陳の桓子に「子旗と子良が陳氏・鮑氏を攻めようとしている」と告げる者があり、鮑氏にも告げた。桓子は甲を配って鮑氏の家へ行った。途中で子良が酔って馬を走らせるのに出会った。そのまま文子(鮑氏)に会うと、こちらも甲を配っていた。二人の様子を見させると、いずれも酒を飲もうとしていた。桓子は「彼らはまだ信じていないが、我らが甲を配ったと聞けば必ず我らを追い出すだろう。酒を飲んでいる隙に先に討とう」と言った。陳氏と鮑氏はちょうど睦まじかったので、そのまま欒氏・高氏を討った。
- 子良は「先に公を押さえよ。陳氏・鮑氏はどこへ行けよう」と言い、そのまま虎門を攻めた。晏平仲は端委の礼服で虎門の外に立った。四族が呼んだが、どこへも行かなかった。その徒が「陳氏・鮑氏を助けますか」と問うと、「何の善いところがあろう」と答えた。「欒氏・高氏を助けますか」と問うと、「どこがましか」と答えた。「では帰りますか」と問うと、「君が討たれているのに、どこへ帰ろう」と答えた。公が召してから入った。
- 公は王黑に靈姑銔の旗を持たせることを卜すると吉と出た。三尺切り詰めて用いることを請うた。五月庚辰、稷で戦い、欒氏・高氏が敗れ、莊でも敗れ、国人が追ってさらに鹿門で敗った。欒施と高彊は魯へ亡命し、陳氏・鮑氏がその家財を分けた。
- 晏子は桓子に言った。「必ず公に返されよ。譲は徳の主です。譲を懿徳といいます。およそ血気ある者はみな争う心を持つ。だから利は強いて求めてはならず、義を思うほうがよい。義は利の本です。利を蓄えれば禍を生む。しばらく蓄えぬようになされば、それで伸びていけましょう」。桓子はことごとく公に返し、莒で隠居を願った。
- 桓子は子山を召し、私に幄幕・器物・従者の衣履を揃えて棘へ帰した。子商にも同じようにしてその邑を返し、子周にも同じようにして夫于を与えた。子城・子公・公孫捷を戻し、いずれも禄を増した。およそ公子・公孫で禄のない者には私に邑を分け、国の貧しく孤り寡しい者には私に粟を与え、「詩に『陳ね錫えて周を載す』とある。よく施したのだ。桓公はそれで覇となった」と言った。
- 公が桓子に莒の近くの邑を与えたが辞退した。穆孟姫が桓子のために高唐を請うた。陳氏はここから大きくなり始めた。
- 昭子が晉から帰り、大夫がみな謁見した。高彊は謁見して退いた。昭子は諸大夫に語った。「人の子たる者は慎まねばならぬ。昔、慶封が亡命したとき、子尾は多くの邑を受けながら少しずつ君に返した。君は忠と見て大いに寵し、死に臨んで公宮で病み、輦で帰るとき君が自ら押した。その子がそれを引き継げず、それでここに至った。忠は令徳であるのに、その子が引き継げねば罪がその身に及ぶ。慎まぬことこそ難だ。夫人の力を失い、徳を棄て宗を空しくしてその身に及ぶのは、害ではないか。詩に『我より先でもなく、我より後でもなく』とあるのは、このことであろう」。
昭公二十六年(前516年)
- 齊侯が晏子と路寝に座り、公が嘆いて「美しい室だ。誰がこれを持つことになろうか」と言った。晏子が「あえて伺います。どういう意味ですか」と問うと、公は「私は徳ある者が持つと思う」と答えた。
- 晏子は言った。「君の言葉によれば、陳氏でしょうか。陳氏に大徳はないが民に施しがあります。豆・区・釜・鍾の数について、公から取るのは薄く、民に施すのは厚い。公が厚く歛め、陳氏が厚く施す。民は帰しております。詩に『徳を汝に与えずとも、歌い舞わん』とある。陳氏の施しに民は歌い舞っております。後世が少しでも怠り、陳氏が滅びなければ、国は彼の国となりましょう」。
- 公が「よい言葉だ。どうすればよいか」と問うと、「ただ礼だけがこれを止められます。礼においては、家の施しが国に及ばず、民は移らず、農は移らず、工商は変わらず、士は乱れず、官は驕らず、大夫は公の利を収めません」と答えた。
- 公が「よい言葉だ。私にはできぬ。私は今にして礼が国を治められることを知った」と言うと、晏子は答えた。「礼が国を治められるのは久しいことで、天地と並ぶものです。君は令し臣は恭しく、父は慈しみ子は孝、兄は愛し弟は敬い、夫は和し妻は柔らかく、姑は慈しみ婦は聴く。これが礼です。君は令して違わず、臣は恭しくして二心なく、父は慈しんで教え、子は孝にして箴め、兄は愛して友とし、弟は敬んで順い、夫は和して義あり、妻は柔らかくして正しく、姑は慈しんで従い、婦は聴いて婉やか。これが礼の善き姿です」。公が「よい言葉だ。寡人は今にしてこの礼の上なるものを聞いた」と言うと、「先王が天地から受けてその民のためとされたもの、それゆえ先王はこれを上に置かれたのです」と答えた。
哀公五年(前490年)
- 齊の燕姫が生んだ子は成人せずに死んだ。側室のうち、鬻姒の子である荼が寵愛された。諸大夫はこれが太子になることを恐れ、公に「君のお年も長じられましたのに、まだ太子がおられません。いかがなさいますか」と申し上げた。公は「お前たちは憂いや心配が暇なので病になるのだ。しばらく楽しむことを考えよ。君のないことを何を憂えるのか」と言った。
- 公が病むと、國惠子と高昭子に荼を立てさせ、諸公子を萊に置いた。秋、齊の景公が卒した。冬十月、公子嘉・公子駒・公子黔は衞へ亡命し、公子鉏と公子陽生は魯へ亡命した。萊の人はこう歌った。「景公は死んだのに埋葬に加われず、三軍の事にも与らせられぬ。師よ、師よ、どこへ行こうか」。
哀公六年(前489年)
- 齊の陳乞は高氏・國氏に仕えるふりをし、朝ごとに必ず陪乗し、行く先々で必ず諸大夫のことをこう言った。「彼らはみな驕り高ぶり、あなたの命を無視するつもりです」。また「高氏・國氏は君の信を得て、必ず我らを圧迫する。除いてしまわぬのか。彼らはもとよりあなた方を謀ろうとしている。早く図られよ。図るなら滅ぼし尽くすに如くはない。ぐずぐずするのは下策です」と言った。朝廷に着くと「彼らは虎狼です。私があなたの側にいるのを見れば、私を殺す日も遠くない。持ち場に就かせてください」と言った。
- また諸大夫に「あの二人は禍いです。君の信を得たのを恃んであなた方を謀ろうとしている。国に難が多いのは貴寵の者のせいだ。すべて除いてこそ君が定まる。すでに謀は成っている。まだ動かぬうちに先手を打たれてはどうか。動いてから悔いても及ばぬ」と言った。大夫はこれに従った。
- 夏六月戊辰、陳乞・鮑牧および諸大夫が甲兵とともに公宮へ入った。昭子はこれを聞いて惠子と車で公のもとへ行き、莊で戦って敗れた。国人が追い、國夏は莒へ亡命し、続いて高張・晏圉・弦施が魯へ亡命した。
- 八月、齊の邴意兹が魯へ亡命した。
- 陳僖子(乞)は公子陽生を召した。陽生は車を出して南郭且于に会い、「かつて季孫に馬を献じたが上乗に入らなかった。だからまたこれを献じたい。あなたと乗ってみたい」と言い、萊門を出てから事情を告げた。闞止がこれを知り、先に外で待った。公子は「事はまだ分からぬ。壬(子)のもとへ戻って共にいよ。用心せよ」と言い、そのまま出発した。夜に齊へ着き、国人はそれを知った。僖子は子士の母に世話をさせ、食事を運ぶ者に紛れて入らせた。
- 冬十月丁卯、陽生を立てた。盟おうとするとき、鮑子は酔って来た。その臣の差車である鮑㸃が「これは誰の命によるのか」と問うと、陳子は「鮑子から命を受けた」と答え、そのまま鮑子を偽って「あなたの命です」と言った。鮑子は「お前は君が孺子(荼)のために牛の真似をして歯を折られたのを忘れたのか。それに背くのか」と言った。
- 悼公(陽生)は稽首して言った。「あなたは義によって行われる方だ。私が立つべきでないなら大夫を一人も失わずに済み、立つべきなら公子を一人も失わずに済む。義であれば進み、そうでなければ退く。あなたに従うだけです。廃立で乱を起こさぬのが望むところです」。鮑子は「誰が君の子でないことがあろう」と言い、盟を受けた。
- 胡姫に安孺子(荼)を伴わせて賴へ行かせ、鬻姒を退け、王甲を殺し、江説を拘束し、王豹を句竇の丘に囚えた。
- 公は朱毛を遣わして陳子に告げさせた。「あなたがいなければここまで来られなかった。しかし君は器物とは違う。二つあってはならぬ。器は二つあれば不足せぬが、君が二つあれば難が多い。あえて大夫たちに申し述べる」。僖子は答えず、泣いて「君は群臣をまったく信じられぬのか。齊国は困窮しており、そのうえ憂いがある。幼い君には相談できぬので年長の君を求めたのだ。群臣を容れてくださるかと思ったが、そうでなければ、あの孺子に何の罪があろう」と言った。
- 毛が復命すると公は悔いた。毛は「君は陳子に大きなことを尋ねられ、小さなことは自ら図られてよいでしょう」と言った。毛に孺子を駘へ移させたが、着かぬうちに野の幕の下で殺し、殳冒淳に葬った。
哀公八年(前487年)
- 齊の悼公が魯に来ていたころ、季康子はその妹を妻とした。即位して迎えようとしたところ、季魴侯が通じていた。女がその事情を告げたので、あえて渡さなかった。齊侯は怒った。
- 夏五月、齊の鮑牧が軍を率いて魯を討ち、讙と闡を取った。
- ある者が胡姫を齊侯に讒言し、「安孺子の一党です」と言った。六月、齊侯は胡姫を殺した。
- 秋、齊と和睦した。九月、臧賔如が齊へ行って盟に臨み、齊の閭丘明が来て盟に臨み、あわせて季姫を迎えて帰り、寵愛された。
- 鮑牧はまた公子たちに「お前たちに馬千乗を持たせてやろう」と言った。公子たちが訴え出た。公は鮑子に「あなたを讒言する者がある。ひとまず潞に居って調べさせよ。事実なら家財を分けて去られよ。事実でなければ元の地位に戻す」と言い、門を出るときは三分の一を、道半ばでは二乗を従わせ、潞に至って縛って連れ込み、そのまま殺した。
- 冬十二月、齊人が讙と闡を返した。季姫が寵愛されたからである。
哀公十四年(前481年)
- 齊の簡公が魯にいたころ、闞止が寵愛されていた。即位すると政を執らせた。陳成子はこれを憚り、朝廷でしきりに振り返って見た。御者の鞅は公に「陳と闞は並び立てません。君はいずれかをお選びください」と言ったが、聞かれなかった。
- 子我(闞止)が夕方の勤めに出たとき、陳逆が人を殺していたのに出会い、そのまま捕らえて連れ込んだ。陳氏は結束していたので、病と称して洗髪の湯を届けさせ、酒肉を用意して番人を饗応し、酔ったところを殺して逃げた。子我は陳の宗家で陳氏一族と盟った。
- はじめ陳豹は子我の臣になりたがり、公孫に頼んでいたが、喪があって止まっていた。その後、公孫が「陳豹という者がおります。背が高く猫背で、見上げるようにものを見る。君に仕えれば必ず志を得ましょう。あなたの臣になりたがっているが、私はその人となりを憚って、告げるのが遅れました」と言った。子我は「何の害があろう。それは私次第だ」と言い、臣とした。後日、政のことを語り合って気に入り、寵愛するようになった。
- 子我が「私が陳氏をことごとく追い出してお前を立てたらどうか」と言うと、豹は「私は陳氏から遠い者です。しかも背く者は数人にすぎません。なぜことごとく追い出すのですか」と答え、そのまま陳氏に告げた。子行は「彼は君の信を得ている。先手を打たねば必ずあなたの禍となる」と言い、公宮に宿った。
- 夏五月壬申、成子の兄弟四人が車で公のもとへ行った。子我は幄にいたが、出て迎えた。そのまま入って門を閉ざした。侍人が防ぐと子行が侍人を殺した。公は婦人と檀臺で酒を飲んでいた。成子は寝所へ移した。公は戈を執って撃とうとしたが、太史子餘が「不利を図るのではありません。害を除こうとしているのです」と言った。
- 成子は出て庫に宿った。公がなお怒っていると聞いて出ようとし、「どこへ行っても君はいる」と言った。子行は剣を抜いて「ぐずぐずするのは事の賊です。誰が陳の宗族でないことがありましょう。あなたを殺さぬ者には陳の宗族の祟りがあれ」と言い、そこで留まった。
- 子我は帰って徒を集め、闈と大門を攻めたが、いずれも勝てず、そこで出た。陳氏が追った。弇中で道に迷って豐丘に至り、豐丘の人が捕らえて報告し、郭關で殺した。
- 成子は大陸子方を殺そうとしたが、陳逆が請うて免れさせた。公の命で道中の車を取った。耏に至って、衆はそれと知って東へ行かせ、雍門から出た。陳豹が車を与えたが受けず、「逆が私のために請い、豹が私に車をくれる。私には私情がある。子我に仕えながらその仇と私情を通じては、どうして魯や衞の士に会えよう」と言った。東郭賈は衞へ亡命した。
- 庚辰、陳恒が公を舒州で捕らえた。公は「早く鞅の言に従っていれば、ここまで来なかった」と言った。
- 甲午、齊の陳恒がその君の壬を舒州で弑した。
史論(士竒)
- 齊に陳氏があるのは敬仲の亡命に始まり、ついに齊の権を握って国を盗んだのは桓子が政を得たことに始まる。民を取り込む手立ては、豆・区・釜・鍾の量目や、壺の飯といたわりの言葉といった小さな知恵にすぎない。
- しかも齊国は蒲・魚・塩の利を独占し、その民は利を貪って走り回った。桓公の覇以来、五公子が立位を争って骨肉相食み、惠公・靈公・莊公・景公に至っては民を疲れさせて自らを養い、刑政は日ごとに緩み、百姓は外は国境に疲れ内は刀鋸に傷つけられた。山林の木は衡鹿が守り、沢の萑蒲は舟鮫が守り、藪の薪は虞候が守り、海の塩と貝は祈望が守って、一滴の恵みも民に及ばなかった。陳氏はそこで私恩と小さな心遣いでひそかに人を駆り立て固く結びつけた。どうして父母のように愛され流れる水のように従われぬはずがあろう。
- しかも公族が職を失って久しく、子城・子公・公孫捷の輩は草莽に落ちぶれていた。桓子はみな呼び戻して禄を増し、およそ禄のない公子・公孫には私に邑を分け、さらに欒氏・高氏の家財の賞を貪らずに公に返して公平を示した。こうして齊の世家大族から貧しく孤り寡しい者に至るまで、口を揃えて徳を称え喜び歌い舞い、太公の社はすでに媯氏へ密かに移っていることに気づかなかった。
- およそ三家が魯を専らにし六卿が晉を分けたのも、その手立ては大抵同じで、上の者はそれを悟らない。王莽が漢を簒奪したときの陰謀と狡智もまた同類である。彼もまた田氏の後裔と称して有虞を祖に追い、沙麓の崩壊を史家が付会して巨君の瑞祥としたのも、鳳凰の占と類似している。陳氏が国を盗む手立ては、まことに前後同じ轍である。
- しかし敬仲はまことに賢く、旅寓の身に安んじて上卿の位を辞し、礼法を守って夜の酒を断った。情を抑え欲を止め、分不相応なことを妄りに望まなかった。後の子孫は恥じ入るべきではないか。
- 欒氏・高氏が虎門を攻めたのは、跡は不臣とはいえ陳氏ほど甚だしくはない。欒氏・高氏が勝ってもなお公族である。陳氏が勝てば媯姓となる。軽重を量れば加担すべき側はあったはずなのに、晏大夫は端委の礼服で公門に立ち、座して成り行きを見ていた。欒氏・高氏が亡命して陳氏の勢いはいよいよ広がった。誤りではないか。
- 陳乞がひそかに高氏・國氏を害するに及び、齊の羽翼はことごとく剪り取られた。荼と陽生、簡公の時期には廃立がすべて田陳から出た。闞止が疎遠な立場で親しい者を離間し、勢力を争おうとしても、成るはずがない。豐丘で捕らえられ、舒州の乱がついに起こった。権は利によって成り、国は勢いに従って理を奪われる。必然である。
- 左氏が懿氏の繇や史趙の答えを次々に引くのを、先儒が戦国の作であって丘明の書ではないと疑ったのも、見るところがなかったわけではない。