左傳紀事本末齊の襄公が弑される(齊襄公之弑)
齊の襄公が弑されるまでと、その後の齊魯の戦いを扱う短い篇。桓公十七年(前694年)から莊公十年(前684年)まで。葵丘の守備に出された連稱と管至父が交代の約束を破られて怨み、僖公に寵された公孫無知と結んで乱を謀った。莊公八年(前686年)冬、貝丘の狩で公子彭生に似た大猪に遭って足を傷めた襄公は、賊に襲われて弑され、無知が立った。莊公十年(前684年)には曹劌が三たびの鼓を利用して長勺で齊軍を破る。史論は襄公の荒淫と、女が介在した応報の連鎖を説く。
年表(3件)
- 桓公十七年前694年齊人が魯の境を侵し、奚で戦う
- 莊公八年前686年連稱と管至父が公孫無知と乱を起こし、貝丘から帰った襄公を弑する
- 莊公十年前684年曹劌が莊公と同乗し、三たびの鼓を待って長勺で齊軍を大敗させる
桓公十七年(前694年)
- 夏、齊軍と奚で戦った。国境の一件である。このとき齊人が魯の境を侵し、境の役人が報告に来た。桓公は「境の事は、自分の側をしっかり守って不慮に備えるものだ。まずは備えを尽くせ。事が起これば戦うまで。何を伺い立てることがあろう」と言った。
莊公八年(前686年)
- 齊侯が連稱と管至父を葵丘の守備に遣わした。瓜の季節に赴任したので「瓜の実る頃に交代させる」と言った。一年が過ぎても交代の沙汰がなく、交代を請うても許されなかったので、二人は乱を謀った。
- 僖公の同母弟を夷仲年といい、公孫無知を生んだ。無知は僖公に寵愛され、衣服も礼遇も嫡子並みであったが、襄公が退けた。二人はこれに乗じて乱を起こした。連稱には従妹が公の宮にいたが寵がなく、公の様子を探らせて「事が成れば、お前を夫人にしよう」と言った。
- 冬十二月、齊侯は姑棼に遊び、そのまま貝丘で狩をした。大きな猪を見て、従者が「公子彭生です」と言った。公は怒って「彭生めが姿を見せるとは」と言って射た。猪は人のように立って啼いた。公は懼れて車から落ち、足を傷めて履を失った。
- 帰って徒人の費に履を捜させたが見つからず、血が出るまで鞭打った。費が走り出ると門で賊に出会い、脅されて縛られた。費は「私がどうして逆らいましょう」と言い、肌脱ぎになって背中の傷を見せた。賊は信じた。費は先に入ることを請い、公を隠して出、門の中で戦って死んだ。石之紛如は階下で死んだ。賊はそのまま入り、牀の上の孟陽を殺したが「君ではない。似ていない」と言った。戸の下に公の足が見えたので、ついに弑して無知を立てた。
莊公十年(前684年)
- 春、齊軍が魯を討ち、莊公は戦おうとした。曹劌が謁見を請うた。同郷の者が「肉を食う者たちが謀ることだ。なぜ口を出すのか」と言うと、劌は「肉を食う者は鄙しく、遠くまで謀れない」と言い、入って謁見した。
- 「何をもって戦われますか」と問うと、莊公は「衣食で安らぐものを独り占めせず、必ず人に分けている」と答えた。劌は「小さな恵みは行き渡らず、民は従いません」と言った。莊公が「犠牲・玉帛を偽り増やさず、必ず誠実にしている」と言うと、「小さな信は行き渡らず、神は福しません」と言った。莊公が「大小の訴訟は、すべては究められずとも必ず実情に即して裁いている」と言うと、「忠の類です。一戦できましょう。戦われるならお供します」と答えた。
- 莊公は劌と同乗して長勺で戦った。莊公が鼓を打とうとすると劌は「まだです」と言った。齊人が三度鼓を打ってから劌は「今です」と言い、齊軍は大敗した。莊公が追撃しようとすると劌は「まだです」と言い、降りて轍を見、軾に登って望んでから「今です」と言い、そのまま齊軍を追った。
- 勝ってから莊公が理由を問うと、劌は答えた。「戦は勇気です。一度鼓を打てば気が起こり、二度目で衰え、三度目で尽きる。彼が尽きて我が満ちたから勝てました。大国は測りがたく、伏兵を懼れました。轍が乱れ、旗が倒れているのを見たので追ったのです」。
史論(士竒)
- 襄公は文姜と姦通して魯の桓公を殺した。天理も人心も消え尽きている。その生涯を辿れば、郱・鄑・郚の三邑を移して紀を圧迫し、ついに国を去らせた。天子に対する罪人である。五国を連ねて衞を討ってその宝玉を取り、魯と会して郕を囲みながら降伏を独り占めした。経に書かれたことに一つも善い行いがない。
- また桓公が管仲に語った言葉を見ると、「昔、我が先君は臺を築いて高い位に構え、狩や網猟にふけって国政を聴かず、聖を卑しみ士を侮って女ばかりを尊び、九妃六嬪、侍女数百人、食は必ず穀と肉、衣は必ず刺繍で、戦士は凍え飢え、戦車は遊興の車の壊れたものを待ち、戦士は侍女の残り物を待った。芸人と道化が前にいて賢才が後ろに置かれた。だから国家は日にも月にも伸びなかった」とある。
- いま、瓜の期限を顧みなかったことは、戦士が凍え飢えたという言葉と合う。徒人の費、石之紛如、孟陽の類はいずれも「芸人と道化が前にいる」というものである。これほど荒淫であれば滅びぬはずがない。まして職を失った公孫と、怨んで帰りたがる守備兵が結びついた。滅びるのも当然ではないか。
- 連稱の妹が襄公を窺って襄公は死に、襄公の妹が魯の桓公を害して魯の桓公は死んだ。桓公の死は隱公への報いであり、襄公の死は魯の桓公への報いである。天道は必ず返り、その応報に狂いがない。しかもいずれも一人の婦人がその間に介在した。女禍の戒めとするに足りる。
- 彭生が猪となって人のように立ったという話は荒唐に見えるが、蒼犬が祟りとなり大厲が髪を振り乱したという話も簡冊に載っている。悪が満ちれば妖気がそれに乗ずるのだから、怪しむに足りない。
- 魯の桓公が境の役人に与えた戒めは守禦の備えを得ている。曹劌が肉を食う者を揶揄し、三たびの鼓を利用して齊に勝ったのは、王者の事として律すればまことに小人である。