左傳紀事本末齊、紀を滅ぼす(齊滅紀)
齊が隣国の紀を圧迫し、ついに国を去らせるまでを、隱公元年(前722年)から莊公四年(前690年)まで追う篇。紀は魯と代々婚姻を結び、莒とも盟を交わして齊に備えたが、桓公五年(前707年)に齊侯と鄭伯が朝見にかこつけて襲おうとし、紀侯が王命による和睦を請うても桓公は応じられなかった。莊公三年(前691年)に紀季が酅を持って齊に入って紀は分裂し、翌年、紀侯は国を紀季に譲って大いに国を去った。史論は、公羊のいう九世の復讐説を退け、齊が臨淄に迫る紀の地を欲したにすぎないと論ずる。
隱公元年(前722年)
- 八月、紀人が夷を討った。夷が告げてこなかったので経に書かない。
隱公二年(前721年)
- 九月、紀の裂繻が来て女を迎えた。卿が君のために迎えたのである。
- 冬、紀の子帛と莒子が密で盟った。魯のためである。
隱公八年(前715年)
- 隱公が莒人と浮来で盟った。紀との好誼を成すためである。
桓公五年(前707年)
- 夏、齊侯と鄭伯が紀に朝見した。それに乗じて襲おうとしたのだが、紀人はそれを察知した。
桓公六年(前706年)
- 夏、成で会した。紀が来て齊の難について相談したのである。
- 冬、紀侯が来朝し、王命を請うて齊との和睦を求めた。桓公はできないと答えた。
桓公十七年(前694年)
- 春、黄で盟った。齊と紀を和睦させ、あわせて衞のことを謀ったのである。
莊公三年(前691年)
- 秋、紀季が酅を持って齊に入った。紀はここで分裂し始めた。
- 冬、莊公が滑に留まった。鄭伯と会して紀のことを謀ろうとしたのだが、鄭伯は難を理由に断った。およそ軍は一泊を「舍」、二泊を「信」、それを越えるのを「次」という。
莊公四年(前690年)
- 紀侯は齊に下ることができず、国を紀季に譲った。夏、紀侯は大いに国を去った。齊の難を避けたのである。
史論(士竒)
- 公羊は齊の襄公が紀を滅ぼしたのを九世の復讐とする。「哀公が周で烹られたのは紀侯が讒言したからで、襄公が紀に復讐しようとして卜すると『軍の半ばを失う』と出たが、『寡人が死ぬのなら不吉とはしない』と言った」という。その情は激烈で、復讐の説はまことらしく聞こえる。
- しかし今考えてみると、史記の注に引く宋衷の言では、哀公は荒淫無道の人であった。周で烹られたのには必ず理由がある。紀侯の讒言があったかどうかも論ずるまでもない。ただ哀公が死んでその弟の胡公が立ち、哀公の末弟の山がさらに胡公を殺して自ら立った。哀公から襄公まで十世であり、哀公は襄公の遠い伯祖にあたる。不倶戴天の義からすればいささか薄れていよう。
- しかも襄公は鳥獣の行いをして倫を敗り教化を傷つけ、心を忍んで理を害した。彼がどうして祖宗の讐を知っていようか。ただ復讐の名を借りてその土地を利としただけである。
- 輿地志によれば、齊の都の臨淄は今の青州にあり、古の紀城は今の壽光にある。壽光は青州から七十里、春秋時代の紀と齊は数十里しか離れていない。いわゆる「臥榻のかたわらに他人を安眠させない」というものである。はじめは復讐の孝に託して奪い、中ほどでは紀を存続させる仁を借り、最後には伯姫を葬る義をひそかに用いて糊塗した。当時、齊の襄公を小覇と呼んだが、狡猾なものである。真に九世の讐を復せたとは私は思わない。
- 紀と魯は代々婚姻を結び、盟も共にしたのに紀を救えなかった。まして鄭に何を望めよう。鄭はもとより齊の党であり、かつてともに紀に朝して襲おうとした国である。莒はさらに小さく、こそこそと紀のために図っても何の役に立とう。
- ただ紀は実に王后の出た国であり、王命を請うて齊との和睦を求めようとしたのに、桓公はできないと答えた。王が諸侯にとって重みを持たなくなっていたことも、これで分かる。
- とはいえ、紀は齊の封域に迫って位置していたのだから、その勢いは必ず折れて齊に入るしかない。魯が冠の緒も結ばずに駆けつけて救ったところで、成敗に何の益があろう。これが紀侯が去った理由であり、紀季が酅で細々と祭祀を保ったのも已むを得ぬ方便である。しかしその情はまことに悲しむべきである。