左傳紀事本末魯と邾・莒の怨恨(魯の小国討滅/小国の来襲を併せ付す)(魯與邾莒搆怨(魯伐滅小國附/小國來伐并附))
魯が南隣の邾、東隣の莒と怨みを重ね合った二百五十年を、隱公元年(前722年)から哀公二十七年(前468年)まで通して集めた篇。杞・鄫・邿・根牟など、魯が滅ぼした小国と、小国から討たれた記事も併せて収める。須句をめぐる升陘の敗戦、鄫を属国とする件から起きた狐駘の敗戦、郠を取って人を犠牲に用いた一件など、報復が報復を呼ぶ。魯は庶其・牟夷・黒肱ら叛いた者を土地ごと受け入れ、邾・莒は覇者の晉に訴えて魯の上卿が捕らえられた。哀公七年(前488年)に邾子益を捕らえて連れ帰ると、呉が邾のために魯を討ち、ついに越の裁定で境が定められた。
年表(31件)
- 隱公元年前722年隱公が邾の儀父と蔑で盟う
- 桓公二年前710年杞侯の来朝が不敬であったとして、九月に杞へ攻め入る
- 僖公元年前659年偃で邾軍を破り、公子友が酈で莒を破って莒子の弟の挐を捕らえる
- 僖公二十一年前639年邾が須句を滅ぼし、須句子が魯へ亡命して成風が復封を説く
- 僖公二十二年前638年臧文仲の諫めを退けて邾と戦い、升陘で大敗して兜を魚門に掛けられる
- 僖公二十七年前633年杞の桓公の来朝が恭しくないとして、秋に杞へ攻め入る
- 僖公三十三年前627年訾婁を取って升陘の役に報い、襄仲が再び邾を討つ
- 文公七年前620年晉の内紛に乗じて邾を討ち、須句を取って邾の文公の子を置く
- 文公十四年前613年弔問の不敬を咎められて南境を討たれ、惠伯が邾を討つ
- 宣公四年前605年莒と郯の和睦が成らず、莒を討って向を取り、礼に反する
- 宣公十年前599年軍が邾を討って繹を取る
- 宣公十八年前591年邾人が鄫子を鄫で戕する
- 襄公四年前569年鄫を属国とし、邾と莒が鄫を討ち、臧紇が狐駘で敗れて髽が始まる
- 襄公六年前567年莒人が鄫を滅ぼし、晉が魯を責めて季武子が晉へ赴く
- 襄公十二年前561年莒人が台を囲み、季武子が救って鄆に攻め入りその鐘を公の盤とする
- 襄公十九年前554年督揚の盟で邾の悼公が捕らえられ、漷水から邾の田が魯に返される
- 襄公二十一年前552年邾の庶其が漆と閭丘を持って亡命し、臧武仲が盗を賞する非を説く
- 襄公三十一年前542年莒の展輿が国人を頼んで莒子を弑し、去疾は齊へ亡命する
- 昭公元年前541年季武子が莒を討って鄆を取り、莒が虢の会に訴える
- 昭公五年前537年莒の牟夷が牟婁らを持って亡命し、叔弓が蚡泉で莒を破る
- 昭公十年前532年平子が莒の郠を取り、初めて亳社で人を犠牲に用いる
- 昭公十三年前529年邾と莒の訴えで平丘の会に容れられず、季孫意如が捕らえられる
- 昭公二十三年前519年武城の人が邾軍を破り、叔孫婼が晉に捕らえられる
- 昭公三十一年前511年邾の黒肱が濫を持って亡命し、君子が土地を持つ叛徒の記名を論ずる
- 定公三年前507年邾の莊公が炉の炭に落ちて卒し、冬に郯で邾と好誼を修める
- 定公十五年前495年邾の隱公の来朝で子貢が二君の失礼を見、五月に定公が薨じる
- 哀公二年前493年邾を討ち、漷水と沂水の田を賄賂として盟を受け入れる
- 哀公七年前488年邾に攻め入って邾子益を連れ帰り、茅夷鴻が呉に救援を請う
- 哀公八年前487年呉が邾のために魯を討ち、武城を落として盟を結んで帰る
- 哀公二十二年前473年越が邾の隱公を帰し、太子革が越へ亡命する
- 哀公二十七年前468年越の后庸が来て邾の田の境を駘上と定め、平陽で盟う
隱公元年(前722年)
- 隱公が邾の儀父と蔑で盟った。
隱公五年(前718年)
- 邾人と鄭人が宋を討った。
隱公七年(前716年)
- 邾を討った。宋のための討伐である。
桓公二年(前710年)
- 秋七月、杞侯が来朝したが不敬であった。杞侯が帰ってから討伐を謀った。
- 九月、杞に攻め入った。不敬を討ったのである。
桓公三年(前709年)
- 桓公が杞侯と郕で会した。杞が和を求めたのである。
桓公七年(前705年)
- 咸丘を焼いた。
桓公十七年(前694年)
- 春二月、桓公が邾の儀父と趡で盟った。
- 秋、邾を討った。宋の意向による。
莊公二年(前692年)
- 於餘丘を討った。邾の邑である。
僖公元年(前659年)
- 九月、僖公が偃で邾軍を破った。虛丘の守備兵が帰ろうとしていたところを襲ったのである。
- 冬、莒人が来て賄賂を求めた。公子友が酈でこれを破り、莒子の弟の挐を捕らえた。挐は卿ではないが、捕らえたことを嘉して記した。
僖公二十一年(前639年)
- 任・宿・須句・顓臾は風姓であり、太皥と済水の祀を司って諸夏に服事してきた。邾人が須句を滅ぼし、須句子が魯へ亡命した。成風の縁による。成風は僖公に「明らかな祀を崇め、小さく寡ない国を保つのは周礼です。蛮夷が夏を乱すのは周の禍いです。須句を封ずれば、太皥と済水を崇めて祀を修め、禍を緩めることになります」と説いた。
僖公二十二年(前638年)
- 春、邾を討って須句を取り、その君を復帰させた。礼にかなう。
- 邾人が須句のことで出兵した。僖公は邾を侮って備えを設けずに迎え撃とうとした。臧文仲は諫めた。「国に小はなく、侮ってはなりません。備えがなければ衆くとも頼りになりません。詩に『戦戦兢兢として、深淵に臨むがごとく、薄氷を履むがごとし』とあり、また『敬まん、敬まん、天はまことに明らかなり。命は易からず』とあります。先王の明徳でさえ、難しとせぬことも懼れぬこともなかった。まして我ら小国においては。君よ、邾を小さいと言われますな。蜂や蠆にも毒があります。まして国においては」。聞き入れず、八月丁未、僖公は邾軍と升陘で戦って大敗し、邾人は僖公の兜を奪って魚門に掛けた。
僖公二十五年(前635年)
- 衞人が莒と魯を和睦させ、十二月、洮で盟った。衞の文公との好誼を修め、あわせて莒と和睦したのである。
僖公二十六年(前634年)
- 春正月、僖公は莒の茲㔻公・寗莊子と向で盟い、洮の盟を継いだ。
- 齊軍が魯の西境を侵した。この二つの盟を咎めたのである。
僖公二十七年(前633年)
- 春、杞の桓公が来朝した。夷の礼を用いたので「子」と記した。僖公が杞を侮ったのは、杞が恭しくなかったからである。秋、杞に攻め入った。無礼を責めたのである。
僖公三十三年(前627年)
- 僖公が邾を討って訾婁を取り、升陘の役に報いた。邾人が備えを設けなかったので、秋、襄仲が再び邾を討った。
文公七年(前620年)
- 春、文公が邾を討った。晉の内紛の隙をついたのである。三月甲戌、須句を取り、文公(邾の文公)の子を置いた。礼に反する。
文公十三年(前614年)
- 邾子が卒した。邾の文公は繹への遷都を卜し、史は「民に利があり君に利がありません」と告げた。邾子は「民に利があるなら、それが孤の利である。天が民を生んで君を樹てたのは民を利するためだ。民に利があれば孤も必ず与る」と言った。左右の者が「寿命は延ばせます。君はなぜなさらぬのです」と言うと、邾子は「命は民を養うことにある。死の遅速は時の問題だ。民に利があるなら、遷るのがこれ以上ない吉である」と答え、そのまま繹へ遷った。五月、邾の文公が卒した。君子は「命を知っていた」と評した。
文公十四年(前613年)
- 邾の文公が卒したとき、文公は弔問の使者を送ったが不敬であった。邾人が来て責め、魯の南境を討った。それで惠伯が邾を討った。
- 邾の文公の元妃である齊姜が定公を生み、二妃の晉姫が㨗菑を生んだ。文公が卒すると邾人は定公を立て、㨗菑は晉へ亡命した。晉の趙盾が諸侯の軍八百乗をもって㨗菑を邾へ入れようとしたが、邾人は「齊の出である貜且(定公)が年長です」と断った。宣子は「言い分が筋道に適っているのに従わぬのは不祥だ」と言い、引き上げた。
宣公四年(前605年)
- 宣公と齊侯が莒と郯を和睦させようとしたが、莒人が承知しなかった。宣公は莒を討って向を取った。礼に反する。国を和睦させるには礼をもってし、乱によってはならぬ。討っても乱を治めていない。乱をもって乱を鎮めて、何の治めるところがあろう。治めることがなければ、どうして礼を行えよう。
宣公九年(前600年)
- 秋、根牟を取った。容易であったことをいう。
宣公十年(前599年)
- 軍が邾を討って繹を取った。
- 冬、子家が齊へ行った。邾討伐のためである。
宣公十三年(前596年)
- 春、齊軍が莒を討った。莒が晉を恃んで齊に仕えなかったからである。
宣公十八年(前591年)
- 秋七月、邾人が鄫子を鄫で戕した。およそ自国内で君を虐殺するのを「弑」、外から加えるのを「戕」という。
成公六年(前585年)
- 鄟を取った。容易であったことをいう。
成公八年(前583年)
- 声伯が莒へ行った。妻を迎えるためである。
成公十八年(前573年)
- 八月、邾の宣公が来朝した。即位して謁見に来たのである。
襄公元年(前572年)
- 九月、邾子が来朝した。礼にかなう。
襄公四年(前569年)
- 冬、襄公が晉へ行って政令を聞いた。晉侯が饗応すると、襄公は鄫を属国とすることを請うたが晉侯は許さなかった。孟獻子は言った。「寡君は仇敵と隣接しながら、堅く君にお仕えして官命を失わぬよう願っております。鄫は司馬に賦を納めていないので、執事の朝夕の命は我が国にかかってまいります。我が国は狭小で、欠ければ罪となる。寡君はそれゆえ助けを借りたいのです」。晉侯は許した。
- 冬十月、邾人と莒人が鄫を討った。臧紇が鄫を救って邾を侵したが、狐駘で敗れた。国人は死者を迎える者がみな髽(麻の髻)にした。魯ではここから髽が始まった。国人はこう謡った。「臧の狐裘、我を狐駘に敗る。我が君は小子、朱儒を使う。朱儒よ朱儒、我をして邾に敗れしむ」。
襄公五年(前568年)
- 春、襄公が晉から帰った。穆叔が鄫の太子を晉に引き合わせ、鄫を属国とすることを成立させた。経に「叔孫豹、鄫大子巫、晉に如く」と書いたのは、鄫の太子を魯の大夫並みに扱ったことをいう。
- 九月、戚で盟った。穆叔は鄫を属国とするのは不利だとして、鄫の大夫を会に出席させて命を聞かせた。
襄公六年(前567年)
- 莒人が鄫を滅ぼした。鄫が賄賂を恃んだからである。
- 冬、穆叔が邾へ聘問し、あわせて和を修めた。晉人は鄫のことで責めに来て、「なぜ鄫を失わせたのか」と言った。季武子が晉へ行って謁見し、命を聞いた。
襄公八年(前565年)
- 莒人が魯の東境を討ち、鄫の田の境を定めた。
襄公十年(前563年)
- 莒人は諸侯が事に当たっている隙をついて魯の東境を討った。
襄公十二年(前561年)
- 春、莒人が魯の東境を討って台を囲んだ。季武子が台を救い、そのまま鄆に攻め入って、その鐘を取って公の盤とした。
襄公十三年(前560年)
- 夏、邿に乱があって三つに分かれた。魯軍が邿を救い、そのまま取った。およそ経に「取」と書くのは容易であったことをいう。大軍を用いた場合は「滅」、領土としない場合は「入」という。
襄公十五年(前558年)
- 秋、邾人が魯の南境を討った。晉に告げると、晉は会合を開いて邾と莒を討とうとしたが、晉侯が病んで取りやめた。冬、晉の悼公が卒し、ついに会合は開かれなかった。
襄公十六年(前557年)
- 春、晉の悼公を葬り、平公が即位した。溴梁で会し、侵した田を返すよう命じた。魯のことで邾の宣公と莒の犂比公を捕らえ、あわせて「齊と楚に使者を通じた」と咎めた。
襄公十七年(前556年)
- 冬、邾人が魯の南境を討った。齊のためである。
襄公十九年(前554年)
- 春、諸侯が沂上から帰り、督揚で盟って「大は小を侵すなかれ」と誓った。邾の悼公を捕らえたのは魯を討ったからである。そのまま泗上に陣し、魯の田の境を定め、邾の田を漷水から取って魯に返した。
襄公二十年(前553年)
- 春、莒と和睦した。孟莊子が莒人と会して向で盟った。督揚の盟によるものである。
- 邾人がしばしば侵攻したが、諸侯としての務めがあって報復できなかった。秋、孟莊子が邾を討って報復した。
襄公二十一年(前552年)
- 春、襄公が晉へ行き、出兵と邾の田の取り戻しを謝した。
- 邾の庶其が漆と閭丘を持って亡命してきた。季武子は襄公の姑や姉を妻とし、その従者にもみな賜物をした。この時、魯には盗が多かった。季孫が臧武仲に「あなたはなぜ盗を糺さぬのか」と言うと、武仲は「糺せません。紇にはできません」と答えた。季孫が「我が四方の領内で盗を糺すのに、なぜできぬのか。あなたは司寇として盗を除くのが務めだ。なぜできぬのか」と言うと、武仲はこう答えた。
- 「あなたが外の盗を招いて厚く礼遇されるのに、どうして我が国の盗を止められましょう。あなたは正卿として外の盗を招き、紇に除けと言われる。どうしてできましょう。庶其は邾で邑を盗んで来たのに、あなたは姫氏を妻とし邑を与え、その従者にもみな賜物をされた。大きな盗を礼遇して君の姑姉と大邑を与え、次の者には皁牧や車馬、小さい者には衣裳や剣帯を与えるのは、盗に賞を与えることです。賞を与えながら除こうとしても、難しいのではありませんか。紇はこう聞いております。上位にある者は心を洗い清め、一つの心で人に接し、その信を法度にかなわせて明らかに証立ててこそ人を治められる、と。上の行うところに民は帰する。上がしないことを民がすれば、刑罰を加えても懲りぬ者はない。しかし上のすることを民もするなら、それは当然のことで、どうして禁じられましょう。夏書に『これを念うはこれに在り、これを釈くもこれに在り、名として言うもこれに在り、まことに出づるもこれに在り。ただ帝のみ功を念う』とあるのは、自らが一貫していることをいいます。信が自らの一貫から出てはじめて功を念えるのです」。
- 庶其は卿ではないが、土地を持って来たので、身分は低くとも必ず記す。土地を重んじるからである。
襄公二十八年(前545年)
- 夏、邾の悼公が来朝した。時宜にかなう行いである。
襄公三十一年(前542年)
- 莒の犂比公は去疾と展輿を生み、展輿を立てながらまた廃した。犂比公は虐政を行い、国人はこれを患えた。十一月、展輿は国人を頼んで莒子を攻めて弑し、そこで立った。去疾は齊へ亡命した。齊の出だからである。展輿は呉の出である。経に「莒人がその君買朱鉏を弑す」と書いたのは、罪が君にあることをいう。
昭公元年(前541年)
- 春、虢で会した。三月、季武子が莒を討って鄆を取った。莒人が会に訴え、楚が晉に「盟を継いだばかりでまだ退いてもいないのに魯が莒を討った。斉しく結んだ盟を汚すものだ。その使者を戮せられたい」と告げた。樂桓子は趙文子の相を務めており、叔孫から財を得て取りなそうとして帯を求めたが与えられなかった。梁其踁が「財は身を守るもの。何を惜しまれるのです」と言うと、叔孫は「諸侯の会は社稷を守るためだ。私が財で免れれば魯は必ず軍を受ける。それは禍をもたらすことだ。何が守りであろう」と答えた。趙孟はこれを聞き、楚に「魯に罪はあるが、その執事は難を避けず、威を畏れて命を敬んでいる。彼を免じて左右を勧められよ。莒と魯が鄆を争って久しい。その社稷に大害がなければ、咎め立てせずともよかろう」と請い、叔孫は免れた。
- 莒の展輿は立って公子たちの秩禄を奪った。公子が去疾を齊から招き、秋、齊の公子鉏が去疾を送り込み、展輿は呉へ亡命した。
- 叔弓が軍を率いて鄆の田の境を定めた。莒の乱によるものである。このとき莒の務婁・瞀胡と公子滅明が大龎と常儀靡を持って齊へ亡命した。君子は「莒の展輿が立てなかったのは人を棄てたからだ。人を棄ててよいものか。詩に『競うものなきは人なり』とある。まことである」と評した。
昭公四年(前538年)
- 秋九月、鄫を取った。容易であったことをいう。
- 莒に乱があり、著丘公が立って鄫を撫せず、鄫は叛いて魯へ来た。だから「取」といった。およそ邑を落とすのに軍を用いない場合を「取」という。
昭公五年(前537年)
- 夏、莒の牟夷が牟婁と防・兹を持って亡命してきた。牟夷は卿ではないが記したのは土地を尊んだからである。
- 莒人が晉に訴え、晉侯は昭公を抑留しようとした。范獻子は「なりません。人が朝見に来たのを捕らえるのは誘い込むことです。討つのに軍を用いず、誘い込んで事を成すのは怠慢です。盟主としてこの二つを犯すのはよろしくないのでは。帰国させ、頃合いを見て軍で討たれよ」と言い、昭公は帰された。
- 秋七月、昭公が晉から帰った。莒人が討ちに来たが、備えを設けていなかったので、戊辰、叔弓が蚡泉で破った。莒がまだ陣を敷いていなかったからである。
昭公六年(前536年)
- 夏、季孫宿が晉へ行き、莒の田のことを謝した。晉侯が饗応して籩を加えると、武子は退いて行人に告げさせた。「小国が大国に仕えるのは、討伐を免れれば十分で、あえて賜物を求めません。賜物を得ても三献を越えぬもの。いま豆に加えものがあり、下臣には堪えられません。過ちではありませんか」。韓宣子が「寡君は歓びのためにされたのです」と言うと、「寡君でさえまだ受けかねます。まして下臣は君の隷です。加えられた賜物を受けるなど」と答え、強いて加えものを撤させてから事を終えた。晉人は礼を知る者として、その贈物を厚くした。
昭公十年(前532年)
- 秋七月、平子が莒を討って郠を取り、捕虜を献じ、初めて亳社で人を犠牲に用いた。臧武仲は齊にいてこれを聞き、「周公は魯の祭を享けまい。周公は義を享ける。魯に義がない。詩に『徳音孔だ昭かに、民に示して佻からず』とある。佻いにもほどがある。それを一気に行って、誰が福を授けよう」と言った。
昭公十一年(前531年)
- 孟僖子が邾の莊公と会し、䘲祥で盟って好誼を修めた。礼にかなう。
昭公十二年(前530年)
- 昭公が晉へ行こうとして河に至って引き返した。郠を取った役のことで莒人が晉に訴えたが、晉は平公の喪中で処理していなかったので昭公を断ったのである。公子憗はそのまま晉へ行った。
昭公十三年(前529年)
- 夏、郠を取ったことで晉が諸侯を率いて討とうとし、七月、諸侯を平丘に集めた。邾人と莒人が晉に「魯は朝な夕なに我らを討ち、ほとんど滅びかけている。我らが務めを果たせぬのは魯のせいだ」と訴え、晉侯は昭公に会わなかった。甲戌、平丘で同盟したが、昭公は盟に加わらなかった。
- 晉人は季孫意如を捕らえ、幕で覆って狄人に見張らせた。司鐸射が錦を懐に、壺に飲み水を入れて這って近づくと、見張りが遮ったので錦を与えて入った。晉人は平子を連れて帰り、子服湫が従った。
- 昭公が晉へ行こうとすると、荀呉が韓宣子に「諸侯が互いに朝するのは旧好を講ずるためだ。その卿を捕らえておきながらその君を朝させるのは、好ましくない。断るに如くはない」と言い、士景伯に河で昭公を断らせた。
- 季孫はなお晉にいた。子服惠伯はひそかに中行穆子に言った。「魯が晉に仕えるのに、どうして夷の小国にも及ばぬのか。魯は兄弟の国で土地も大きく、命じられたことは果たせる。もし夷のために魯を棄てて齊や楚に仕えさせれば、晉に何の益がありましょう。親を親しみ大を与し、共なる者を賞し否なる者を罰するのが盟主です。よくお考えください。諺に『臣に一、主に二』といいます。我らに大国がないわけではない」。穆子は韓宣子に告げ、あわせて「楚が陳と蔡を滅ぼしても救えず、夷のために親しい国の卿を捕らえている。何の役に立とう」と言い、季孫を帰すことにした。
- 惠伯は「寡君はその罪を知りません。諸侯を集めてその老臣を捕らえた。なお罪があるなら死んでも命に従います。罪なきゆえに恵んで免ずるというなら、諸侯がそれを聞いていない。それでは命から逃れることになる。何の赦免でしょう。会において君の恵みに従うことを請います」と言った。宣子は困り、叔向に「あなたは季孫を帰せるか」と問うと、「できません。鮒ならできましょう」と答えたので、叔魚を遣わした。
- 叔魚は季孫に会って言った。「昔、鮒は晉君に罪を得て魯君のもとへ身を寄せました。武子のご恩がなければ今日まで生きられなかった。晉に骨を埋められたとしても、あなたは肉を付けてくださった方だ。情を尽くさぬわけにはまいりません。あなたを帰さぬのです。鮒が吏から聞いたところでは、あなたのために西河に館を用意するとのこと。どうされます」と言って泣いた。平子は懼れて先に帰り、惠伯は礼を待ってから帰った。
昭公十四年(前528年)
- 春、意如が晉から帰った。晉を尊び自らを罪としたのである。晉を尊び自らを罪とするのは礼にかなう。
昭公十八年(前524年)
- 六月、鄅の人が稲を植えていたところ、邾人が鄅を襲った。鄅人が門を閉じようとすると、邾人の羊羅がその首を斬って、そのまま攻め入り、ことごとく捕虜にして帰った。鄅子は「私には帰るところがない」と言い、妻子を追って邾へ行った。邾の莊公は鄅の夫人を返し、その娘を留めた。
昭公十九年(前523年)
- 鄅の夫人は宋の向戌の娘であった。それで向寧が出兵を請い、二月、宋公が邾を討って蟲を囲み、三月に取った。そこで鄅の捕虜をすべて返した。
- 夏、邾人・郳人・徐人が宋公と会し、乙亥、蟲で同盟した。
昭公二十三年(前519年)
- 春、邾人が翼に城を築いて帰るとき、離姑から帰ろうとした。公孫鉏は「魯が我らを迎え撃つだろう」と言い、武城から山沿いに南へ回ろうとした。徐鉏・丘弱・茅地は「道は低く、雨に遭えば出られず、帰れなくなる」と言い、そのまま離姑を通った。武城の人は前を塞ぎ、後方の木を切り倒して繋げておき、邾軍が通ると押し倒し、そのまま邾軍を捕らえ、鉏・弱・地を捕虜にした。
- 邾人が晉に訴え、晉人が責めに来た。叔孫婼が晉へ行くと晉人が捕らえた。経に「晉人我が行人叔孫婼を執う」と書いたのは、使者であることをいう。
- 晉人が邾の大夫と対決させようとすると、叔孫は「列国の卿は小国の君に当たる。もとより周の制です。しかも邾は夷である。寡君の命じた介の子服回がおります。彼に当たらせましょう。周制を廃するわけにはまいりません」と言い、対決は行われなかった。
- 韓宣子は邾人に人を集めさせ、叔孫を引き渡そうとした。叔孫はこれを聞き、供の者と武器を退けて出頭した。士彌牟が韓宣子に言った。「よくお考えにならず叔孫をその仇に渡せば、叔孫は必ず死にましょう。魯が叔孫を失えば必ず邾を滅ぼす。邾君が国を失えば、どこへ帰りましょう。後で悔いても及びません。盟主とは命に背く者を討つものです。互いに捕らえ合うなら、盟主が何の役に立ちましょう」。そこで引き渡さず、それぞれ別の館に置いた。士伯はその言い分を聞いて宣子に訴え、両者とも捕らえた。
- 士伯は叔孫と従者四人を連れ、邾の館を通って役所へ行き、先に邾子を帰した。士伯は「粗末な暮らしで従者も苦しんでおられる。あなたを都に館させよう」と言った。叔孫は翌朝、期日を定めて箕に館し、子服昭伯を他の邑に置いた。
- 范獻子が叔孫に財を求め、冠を請わせた。叔孫はその冠の型を取って二つ作って与え、「これですべてだ」と言った。叔孫のために申豐が財を持って晉へ行くと、叔孫は「私に会えば、どこへ財を使うか教えよう」と言った。会ったが財は出さなかった。
- 箕で叔孫と同居していた吏人がその猟犬を求めたが与えなかった。帰ろうとするとき殺して食べさせた。叔孫は館した所は一日でもその塀や屋根を繕い、去るときは着いたときのままにした。
- 昭公が叔孫のことで晉へ行こうとしたが、河に至って病んで引き返した。
昭公二十四年(前518年)
- 晉の士彌牟が箕に叔孫を迎えに来た。叔孫は梁其踁を門内に待たせ、「私が左を向いて咳をしたら殺せ。右を向いて笑ったら止めよ」と言った。叔孫が士伯に会うと、士伯は「寡君は盟主であるゆえ長らくあなたを留めました。粗末ながら我が国の礼を従者に贈ります」と言い、彌牟に迎えさせた。叔孫は礼を受けて帰った。
- 二月、婼が晉から帰った。晉を尊んだのである。
昭公三十一年(前511年)
- 冬、邾の黒肱が濫を持って亡命してきた。身分は低いが名を記したのは土地を重んじたからである。
- 君子は評した。「名は慎まねばならぬとは、このことだ。名を記されるくらいなら、やめておいたほうがよいことがある。土地を持って叛けば、身分が低くとも必ず土地とともにその人の名を記す。ついに不義となって消せない。ゆえに君子は動けば礼を思い、行えば義を思い、利のために曲げず、義のために病まない。名を求めて得られぬ者もあり、覆い隠そうとして名が現れる者もある。不義を懲らすためである。齊豹は衞の司寇で世襲の大夫であったが、事を起こして不義であったので『盗』と記された。邾の庶其、莒の牟夷、邾の黒肱は土地を持って出奔し、食を求めただけで名を求めなかったが、身分が低くとも必ず記す。この二つは、ほしいままな振る舞いを懲らし貪りを除くためである。もし身を苦しめ大人を危険に晒して名が輝くなら、難に挑む士が争って走るだろう。もし邑を盗み君に叛いて大利を得ながら名が残らないなら、貪り冒す民が力を入れるだろう。だから春秋は齊豹を『盗』と書き、三人の叛いた者の名を記して不義を懲らし、悪を数えて無礼を除いた。よい記述である。ゆえに『春秋の称は微かでいて明らか、婉曲でいて弁別がある』という。上に立つ人がこれを明らかにできれば、善人は勧められ淫らな者は懼れる。それゆえ君子はこれを貴ぶ」。
昭公三十二年(前510年)
- 闞を取った。
定公二年(前508年)
- 邾の莊公が夷射姑と酒を飲んだ。夷射姑がひそかに外へ出ると、門番が肉をねだったので、杖を奪って叩いた。
定公三年(前507年)
- 春二月辛卯、邾子が門の高殿にいて庭を見下ろしていた。門番が瓶の水を庭に撒いた。邾子はそれを見て怒り、門番は「夷射姑が小便をしたのです」と言った。捕らえるよう命じたが捕まらず、いよいよ怒って自ら牀から身を投げ、炉の炭の上に落ちて焼け爛れ、ついに卒した。先に葬り、車五乗と五人を殉葬した。莊公はせっかちで潔癖であったため、これに至った。
- 冬、郯で盟った。邾との好誼を修めたのである。
定公十五年(前495年)
- 春、邾の隱公が来朝した。子貢がこれを見た。邾子は玉を高く捧げてその顔を仰向け、定公は玉を低く受けてその顔を俯けた。子貢は言った。「礼をもって見れば、二君ともに死亡の兆しがある。礼は死生存亡の本体であり、左右への振る舞い、進退俯仰から取るもので、朝・祀・喪・戎においてそれを観る。いま正月の相朝でどちらも度を失った。心はすでに失われている。嘉事が体を成さねば、どうして長く保てよう。高く仰ぐのは驕り、低く俯くのは衰えである。驕りは乱に近く、衰えは病に近い。君が主人であるから、先に亡くなられるか」。
- 夏五月壬申、定公が薨じた。仲尼は「賜(子貢)は不幸にも言い当てた。これでは賜を多弁にしてしまう」と言った。
哀公二年(前493年)
- 春、邾を討った。絞を討とうとしたところ、邾人はその土地を惜しみ、漷水と沂水の田を賄賂として盟を受け入れた。
哀公七年(前488年)
- 哀公が鄫で呉と会した。鄫から帰ると、呉には何もできまいと考え、季康子は邾を討とうとして大夫を饗応して謀った。子服景伯は言った。「小が大に仕えるのは信、大が小を保つのは仁です。大国に背くのは不信、小国を討つのは不仁。民は城に守られ、城は徳に守られる。この二つの徳を失えば危うい。何に守られましょう」。孟孫が「皆はどう思うか。憎まれてまで逆らうことはない」と言うと、景伯は答えた。「禹は塗山に諸侯を集め、玉帛を執る者が万国あった。いま残るのは数十にも足りません。大が小を字まず、小が大に仕えなかったからです。危ういと知りながら、なぜ言わぬのです。魯の徳は邾と同じ程度なのに、衆をもって加えてよいものでしょうか」。楽しまずに退出した。
- 秋、邾を討ち、范門まで迫ってもなお鐘の音が聞こえた。大夫が諫めたが聞かなかった。茅成子が呉に告げることを請うたが許されず、「魯の柝の音は邾に聞こえる。呉は二千里、三か月かからねば来られぬ。我らに何が間に合おう。しかも国内で足りぬはずがない」と言われた。成子は茅を持って叛いた。
- 魯軍はそのまま邾に攻め入り、その公宮に居し、兵はみな昼に掠奪した。邾の衆は繹に立てこもり、魯軍は夜も掠奪し、邾子益を連れ帰って亳社に献じ、負瑕に囚えた。負瑕にはこれによって繹の人が住むようになった。
- 邾の茅夷鴻は束帛と四枚の韋を持って自ら呉に救援を請い、「魯は晉を弱いと見、呉を遠いと侮り、その衆を恃んで君の盟に背き、君の執事を避けて我ら小国を陵いでいる。邾はあえて自らを惜しむのではなく、君の威が立たぬことを懼れるのです。君の威が立たぬのは小国の憂いです。夏に鄫衍で盟いながら秋に背き、求めを成し遂げて咎めがなければ、四方の諸侯はどうして君に仕えましょう。しかも魯の兵は八百乗、君に次ぐ者です。邾の兵は六百乗、君の私です。私をもって次ぐ者に奉ずるのがよいか、君よお考えください」と言った。呉子はこれに従った。
哀公八年(前487年)
- 呉は邾のために魯を討とうとして叔孫輒に問うた。叔孫輒は「魯には名があって実がない。討てば必ず志を得ましょう」と答えた。退いて公山不狃に告げると、不狃は言った。「礼ではない。君子は国を去っても仇国へは行かぬ。まだ臣従していないのに討ちに来て、命に奔走して死ぬのはよい。身を託した以上は隠すものだ。しかも人の行いは、憎いからといって故郷を廃さない。いまあなたは小さな憎しみで宗国を覆そうとする。難しいことではないか。もしあなたに率いさせようとしたら、必ず辞退されよ。王は私に率いさせるだろう」。子張(叔孫輒)はこれを気に病んだ。
- 王が子洩(不狃)に問うと、こう答えた。「魯にはともに立つ者がなくとも、ともに斃れる者は必ずいる。諸侯が救うでしょうから、志を得るのは難しい。晉と齊・楚がこれを助ければ四つの仇です。魯は齊・晉の唇であり、唇が亡べば歯が寒いのは君もご存じでしょう。救わずにいられましょうか」。
- 三月、呉が魯を討った。子洩が率い、わざと険しい道を取って武城から進んだ。はじめ武城の人で呉の国境近くに田を持つ者があり、鄫の人が菅を漚けているのを捕らえて「なぜ我が水を汚すのか」と言ったことがあった。呉軍が至ると、その捕らわれた者が道案内して武城を討ち、これを落とした。王犯はかつてその宰であり、澹臺子羽の父と親しかった。国人は懼れた。
- 懿子が景伯に「どうすべきか」と問うと、「呉軍が来れば戦うまで。何を患えましょう。しかも招いて来たのだから、何を求めましょう」と答えた。呉軍は東陽を落として進み、五梧に宿り、翌日は蠶室に宿った。公賔庚と公甲叔子が夷で戦い、叔子と析朱鉏が捕らえられて王に献じられた。王は「これは同じ車に乗っていた。必ず有能な者を選んだのだ。魯はまだ望みがある」と言った。
- 翌日、庚宗に宿り、そのまま泗上に陣した。微虎が夜に王の宿舎を襲おうとし、私属の徒七百人を幕の庭で三度跳ばせて三百人を選んだ。有若もその中にいた。稷門の内に至ったとき、ある者が季孫に「呉を害するには足りず、国士を多く死なせるだけだ。やめたほうがよい」と言い、取りやめさせた。呉子はこれを聞いて一夜に三度宿を移した。
- 呉人が和睦を申し出て盟おうとした。景伯は「楚人が宋を囲んだとき、子を交換して食い、骸を割いて炊いてもなお城下の盟はしなかった。我らはまだ損なわれてもいないのに城下の盟をするのは国を棄てることです。呉は軽率で遠く、長くは留まれず、やがて帰るでしょう。しばらくお待ちを」と言ったが、聞き入れられなかった。景伯は荷を負って萊門に赴き、子服何を呉へ差し出すことを請うた。呉人は許したが、王子姑曹を相手役に立てるとして取りやめた。呉人は盟って帰った。
- 齊侯が呉へ使者を送って出兵を請い、魯を討とうとした。そこで邾子を帰した。邾子はまた無道であったので、呉王は太宰の子餘に討たせ、樓臺に囚えて棘で囲み、諸大夫に太子革を奉じて政を執らせた。
哀公十年(前485年)
- 春、邾の隱公が亡命してきた。齊の甥であったので、そのまま齊へ亡命した。
哀公二十二年(前473年)
- 夏四月、邾の隱公が齊から越へ亡命し、「呉は無道にも父を捕らえて子を立てた」と言った。越人は帰し、太子革は越へ亡命した。
哀公二十四年(前471年)
- 邾子はまた無道であったので、越人が捕らえて連れ帰り、公子何を立てた。何もまた無道であった。
哀公二十七年(前468年)
- 春、越子が后庸を遣わして聘問させ、あわせて邾の田のことを述べ、駘上を境と定めた。二月、平陽で盟い、三家がみな従った。康子はこれを気に病み、話が子贛に及んで「あの人がここにいれば、私はこんなことにはならなかった」と言った。武伯が「その通り。なぜ召さぬのか」と言うと、「もとより召すつもりだ」と答え、文子は「後日、思い出してください」と言った。
史論(士竒)
- 邾は魯の南にあって柝の音が聞こえるほど近く、莒もまた東の隣国である。隱公の初年に邾と昧で盟い、二年には紀子伯・莒子と密で盟った。その文は欠けているが、伝が「魯のためである」というのだから、好誼を求めたことが分かる。ところが数年で宋のための討伐があり、昧の誓いは流れ去った。僖公の代には莒の挐を捕らえ、密の盟書もどこへ行ったか。以来、国境の争いは互いに繰り返され、ついに春秋の始めから終わりまで続いた。嘆かわしいことである。
- 事を通観すると、宋が外郭を攻められた怨みは魯に関わりがないのに、隱公は昧の盟を棄て、桓公は趡の盟を棄て、二度も邾に出兵して宋の意を満たした。曲は魯にある。檉の盟でともに覇者の好誼に加わりながら、虛丘の守備兵を魯が待ち伏せて破った。顔を合わせながら仇となる。ここまで来れば魯の曲はいよいよ甚だしい。
- 須句子は魯の僖公の母夫人と同姓であり、邾が暴力で滅ぼしたのだから曲は邾にある。魯が須句を取ってその君を置いたのも行き過ぎではない。升陘の戦いで魚門に辱めを受けた以上、訾婁の報復も止められまい。しかし一度で十分であって、襄仲が再び討ったのは曲が魯にある。
- 文公が卒したとき弔問の使者が礼を失した。それが討伐に至るほどのことか。惠伯の報復はちょうど釣り合っている。宣公十年に邾を討って繹を取ったのは曲が魯にある。
- 成公・襄公の間に邾が相次いで来朝したのは恭しいといえる。ただし魯が鄫を属国とすることを請うたのは覇者の命によるもので、邾は平然と顧みず鄫を急襲し、狐駘の役となって魯軍は敗れ、国人は髽をした。それでも旧怨を思わず穆叔に和を修めさせたのに、また南境を討たれた。これが湨梁での捕縛を招いた。悼公は改めず再び魯と釁を起こし、督揚で二度辱められ、釈放されるやまた魯に怨みを構えた。莊子の報復も当然である。しかし叛いた者を受け入れその土地の利を貪ったのは、曲が魯にある。
- 襄公・昭公の代に一度魯に朝し、二度䘲祥で盟いながら、また覇国に讒訴して魯の上卿が捕らえ辱められた。離姑の釁はここから開いた。邾はそのことで再び覇者の廷に訴え、魯の行人が縛められ、魯もまた叛いた者を受け入れた。曲直は五分である。
- 定公の初年、邾が朝礼を修めたのに魯が討って漷・沂の田を取ったのは曲が魯にある。その公宮に居して夜に掠奪し、その君を連れ帰るに至っては、魯の曲はいよいよ甚だしい。齊と呉が袂を払って立ち上がったのも当然である。
- 莒は莊公の代に文姜の出奔を受け入れ、慶父が莒へ走ったとき、悪を同じくせぬ大義を明らかにできず、魯に賄賂を求めた。酈の敗戦は曲が莒にある。洮と向で和を修めて好誼を全うできそうだったのに、郯との和睦が成らぬからと討って土地を取ったのは、何の義か。声伯は姻戚として和を結んだのに、鄫を滅ぼす挙に出て覇者の命を犯し魯を仇とした。魯が鄫を失ったことで責められているさなかに東境を続けて討ったのは、莒の曲が甚だしい。魯が鄆に攻め入ったのはそこから来ている。
- 犂比公が鄫のことで捕らえられたのは、憤りを解くに足りる。まして督揚で好誼を同じくしたのに、莒に君の弑逆と国の危機が起きると、魯は乱に乗じて莒を討ちその鄆邑を裂いた。莒が会に訴えたのももっともである。五年に牟夷の叛を受け入れ、十年に郠を取って亳社で人を犠牲に用いたのは、曲が魯にある。以来、莒はまた魯を晉に訴え、晉人が討伐して、魯と莒の交わりはついに絶えた。
- そもそも邾も莒も小国でありながら大に仕える礼を尽くせず、魯もまた利だけを見て小を字む義を知らなかった。魯が邾・莒に志を遂げていれば、邿や根牟の二の舞になっただけであろう。しかし邾と莒も強大な国に陵がれながら、順に事え恕に施すことができず、鄫を戕し鄫を滅ぼし、鄅を捕虜にしてその娘を留めるといった狂悖ぶりであった。自分がされたくないことを人に施しておきながら、大国にやかましく訴えるとは、いったいどうしたことか。