左傳紀事本末三桓、公室を弱める(三桓弱公室)
桓公の子孫である孟孫・叔孫・季孫の三家が魯の公室を削り取っていく過程を、莊公二十三年(前671年)から哀公二十七年(前468年)まで通して追う篇。慶父・叔牙の弑逆に始まり、成季が二君を立てて費と汶陽の田を得たところから季氏の専権が芽生える。襄仲が嫡を殺して宣公を立て、季文子が東門氏を追放し、季武子が三軍を作って公室を三分し、季平子が中軍を廃して公室を四分して季氏が二を取るに至って、政は完全に私門へ移った。昭公二十五年(前517年)に昭公は季氏討伐に失敗して齊へ亡命し、乾侯で客死。哀公もまた三桓を除こうとして越へ逃れた。
年表(32件)
- 莊公二十三年前671年莊公が齊で社の祭を見物し、曹劌が礼に反すると諫める
- 莊公三十二年前662年成季が叔牙を毒殺し、莊公の薨後に慶父が子般を弑する
- 閔公元年前661年齊侯の許しで季友が陳から帰国し、仲孫湫が慶父の除去を説く
- 閔公二年前660年慶父が閔公を殺させ、莒から送り返されて自ら縊れる
- 僖公元年前659年成季が僖公を立て、莒を酈で破って汶陽の田と費を賜る
- 僖公十七年前643年淮の会盟中に項を滅ぼし、齊人が僖公を抑留する
- 文公二年(仲遂の段)前625年襄仲が齊へ赴いて納幣する
- 文公十八年前609年襄仲が惡と視を殺して宣公を立て、叔仲惠伯を殺す
- 宣公元年前608年宣公の位を定めるため濟西の田を齊への賄賂とする
- 宣公十五年前594年はじめて畝ごとに税を取り、礼に反する
- 宣公十八年前591年歸父が三桓を除こうとして果たせず、臧宣叔が東門氏を追放する
- 成公十六年前575年晉人が季孫行父を捕らえ、叔孫僑如が齊へ亡命する
- 襄公二年前571年季文子が穆姜の用意した檟の棺材を取って齊姜の葬儀に用いる
- 襄公七年前566年費に城を築く
- 襄公十一年前562年三軍を編成し、公室を三分して三家がそれぞれ一分を取る
- 襄公二十九年前544年季武子が襄公の不在中に卞を取り、公冶が使いに立たされる
- 襄公三十一年前542年襄公が楚宮で薨じ、穆叔の反対を退けて季武子が公子裯を立てる
- 昭公元年前541年季武子が莒を討って鄆を取り、叔孫豹が財を惜しんで難を免れる
- 昭公五年前537年中軍を廃して公室を四分し、季氏が二を取る
- 昭公十年前532年叔孫婼が晉へ行き、平公を葬る
- 昭公十一年前531年齊歸の喪に蒐を廃さず、叔向が公室の卑しくなることを予言する
- 昭公二十一年前521年季孫の差し金で晉の士鞅を軽く遇し、十一牢に改めさせられる
- 昭公二十五年前517年昭公が季氏を討つが三家に敗れ、齊へ亡命して陽州に留まる
- 昭公二十六年前516年齊侯が鄆を取り、魯軍と齊軍が炊鼻で戦う
- 昭公二十七年前515年扈の会で范獻子が季孫の財を受け、昭公の復帰を退ける
- 昭公二十九年前513年昭公が乾侯に移り、公為を退けて公衍を太子とする
- 昭公三十一年前511年荀躒が季孫を伴って調停するが、昭公が会うことを拒む
- 昭公三十二年前510年昭公が乾侯で薨じ、史墨が季氏の得民と魯君の失を論ずる
- 定公元年前509年昭公の喪が乾侯から至り定公が即位、昭公を墓道の南に葬る
- 哀公十二年前483年田賦を用いる
- 哀公二十四年前471年哀公が妾を夫人に立てて荊を太子とし、国人に憎まれる
- 哀公二十七年前468年哀公が越の力で三桓を除こうとして果たせず、邾を経て越へ逃れる
莊公二十三年(前671年)
- 夏、莊公が齊へ行って社の祭を見物した。礼に反する。曹劌が諫めた。「なりません。礼は民を整えるものです。だから会合によって上下の則を教え、財用の節度を定め、朝見によって班爵の義を正し、長幼の序を導き、征伐によってそれに従わぬ者を討つ。諸侯には王への務めがあり、王には巡狩があって大いにこれを習う。それ以外に君は動かぬものです。君が動けば必ず記録される。記録されて法に合わなければ、後嗣は何を手本とするのですか」。
- 秋、桓公の廟の柱を丹塗りにした。
莊公二十四年(前670年)
- 春、その垂木に彫刻を施した。いずれも礼に反する。御孫が諫めた。「臣は聞いております、倹は徳の恭しさ、侈は悪の大なるものだと。先君には恭しい徳がおありでしたのに、君はそれを大悪に落とし込まれる。よろしくないのではありませんか」。
- 秋、哀姜が到着した。莊公は宗婦に幣を用いて拝謁させた。礼に反する。御孫は言った。「男の贄は、大なるものは玉帛、小なるものは禽鳥で、身分を示します。女の贄は榛・栗・棗・脩を越えず、敬虔さを表すだけです。いま男女が同じ贄を用いるのは区別がないということ。男女の別は国の大節であるのに、それを夫人が乱すのはよろしくないのではありませんか」。
莊公二十五年(前669年)
- 春、陳の女叔が聘問に来た。初めて陳と好を結んだのである。これを嘉して名を書かなかった。
莊公二十七年(前667年)
- 秋、公子友が陳へ赴いて原仲を葬った。礼に反する。原仲は季友の旧友である。
莊公三十二年(前662年)
- はじめ莊公が臺を築いて黨氏の家を見下ろしたとき、孟任を見かけて後を追った。孟任は戸を閉ざしたが、夫人にするという言葉で許し、腕を割いて盟い、子般を生んだ。
- 雩の祭の稽古を梁氏の家で行ったとき、公女がこれを見物した。圉人の犖が塀の外からふざけかけたので、子般は怒って鞭打たせた。莊公は「殺したほうがよい。鞭で済ませてよい者ではない。犖は力があり、稷門の屋根に蓋を投げ上げられるほどだ」と言った。
- 莊公が病んで後嗣を叔牙に問うと、「慶父が有能です」と答えた。季友に問うと、「臣は死をもって般を奉じます」と答えた。莊公が「先ほど牙は慶父が有能だと言った」と告げると、成季は君命として僖叔に鍼巫氏の家で待つよう命じ、鍼季に毒を飲ませて「これを飲めば魯国に後嗣が残る。飲まねば死んで後嗣もない」と言わせた。飲んで帰る途中、逵泉に至って死に、叔孫氏が立てられた。
- 八月癸亥、莊公が路寝で薨じ、子般が即位して黨氏の家に居した。
- 冬十月己未、共仲が圉人犖に黨氏の家で子般を弑させた。成季は陳へ亡命し、閔公が立てられた。
閔公元年(前661年)
- 春、即位を書かないのは乱があったからである。
- 夏六月、莊公を葬った。乱のために遅れたのである。
- 秋八月、閔公は齊侯と落姑で盟い、季友の帰国を請うた。齊侯が許して陳から召させ、閔公は郎に留まって待った。季子が帰国した。これを嘉したのである。
- 冬、齊の仲孫湫が来て難の様子を視察した。経に「仲孫」と書いたのも嘉したのである。仲孫は帰って「慶父を除かねば魯の難は終わりません」と報告した。齊侯が「どうやって除くのか」と問うと、「難が続けば自ら斃れます。君はお待ちなさい」と答えた。「魯を取れるか」と問うと、「なりません。まだ周礼を守っております。周礼は国の本です。臣は聞いております、国が滅びようとするときは本がまず倒れ、枝葉が従うと。魯が周礼を棄てぬうちは動かせません。君は魯の難を鎮めて親しまれるのがよい。礼ある者に親しみ、堅固な者に頼み、離心ある者を突き、昏乱な者を覆すのが、覇王の道具です」と答えた。
閔公二年(前660年)
- 夏、莊公の禘祭を吉礼で行った。早すぎる。
- はじめ閔公の傅が卜齮の田を奪い、閔公が止めなかった。秋八月辛丑、共仲は卜齮に武闈で閔公を殺させた。
- 成季は僖公を伴って邾へ逃れ、共仲は莒へ亡命した。そこで帰国して僖公を立て、賄賂を送って莒に共仲の引き渡しを求めた。莒人が送り返し、密に至ったところで公子魚を遣わして助命を請わせたが許されなかった。公子魚は泣きながら戻り、共仲は「奚斯の声だ」と言って首を吊った。
- 閔公は哀姜の妹の叔姜の子であり、それゆえ齊人が立てた。共仲は哀姜と通じ、哀姜は共仲を立てようとした。閔公の死に哀姜も与っていたので、邾へ逃れたが、齊人が捕らえて夷で殺し、その屍を持ち帰った。僖公が請うて葬った。(以上、慶父が閔公を弑するまで)
僖公元年(前659年)
- 成季が生まれようとするとき、桓公が卜楚丘の父に占わせると、「男子です。その名は友。公の右にあって二つの社の間に居し、公室の輔となりましょう。季氏が亡べば魯は栄えません」と言った。さらに筮を立てると大有の乾に変ずるのを得、「父の位に復し、君と同じく敬われる」と出た。生まれると手に「友」という文があったので、それを名とした。
- 成風は成季の占の言葉を聞いて成季に仕え、僖公を託した。だから成季は僖公を立てたのである。
- 春、即位と称さないのは僖公が国外にいたからである。国外に出て復帰したことを書かないのは憚ったのである。国の悪を憚るのは礼にかなう。
- 冬、莒人が来て賄賂を求めた。公子友が酈でこれを破り、莒子の弟の拏を捕らえた。僖公は季友に汶陽の田と費を賜った。
- 夫人氏(哀姜)の遺骸が齊から届いた。君子は、齊人が哀姜を殺したのは行き過ぎであるとした。女子は人に従う者だからである。
僖公八年(前652年)
- 秋、禘祭を行って哀姜の神主を廟に納めた。礼に反する。およそ夫人が寝で薨ぜず、廟で殯せず、同盟国に訃を告げず、姑に袝さなければ、廟に納めないものである。
僖公十七年(前643年)
- 魯軍が項を滅ぼした。淮の会盟の際、僖公はまだ諸侯としての務めがあって帰国していないうちに項を取った。齊人はこれを咎めて僖公を抑留した。
- 秋、声姜が僖公のことで齊侯と卞で会した。
- 九月、僖公が帰った。経に「至自會」と書いたのは、なお諸侯としての務めがあったからであり、また憚ったからである。
僖公三十三年(前627年)
- 齊の國莊子が聘問に来た。郊迎の労いから贈物まで礼を尽くし、そのうえ機敏であった。臧文仲は僖公に「國子が政を執る間、齊にはなお礼があります。君は朝見なさるがよい。臣は聞いております、礼ある国に服するのは社稷の守りだと」と進言した。
- 冬、僖公は齊へ行って朝見し、あわせて弔問した。狄の侵入があったからである。帰って小寝で薨じた。安逸に就いたのである。
- 僖公を葬ったが、神主を作るのが遅れた。礼に反する。およそ君が薨ずれば、卒哭して袝し、袝して神主を作り、神主に対して特に祀り、烝・嘗・禘は廟で行うものである。
文公元年(前626年)
- 四月丁巳、僖公を葬った。
- 冬、穆伯が齊へ赴き、初めて聘問した。礼にかなう。およそ君が即位すれば卿が出て各国を聘問し、旧好を修め外援を結び、隣国と善くして社稷を守る。忠信卑譲の道である。忠は徳の正しさ、信は徳の堅固さ、卑譲は徳の基である。
文公二年(前625年)
- 丁丑、僖公の神主を作った。経に書いたのは時宜を失ったからである。
- 八月丁卯、大廟で大祭を行い、僖公を上位に置いた。逆さの祀りである。
文公九年(前618年)
- 秦人が僖公と成風への襚(死者の衣)を届けた。礼にかなう。諸侯は互いに弔い賀するもので、時宜に当たらなくとも礼があれば書き記す。旧好を忘れぬためである。(以上、季友が僖公を立てて以下、仲遂が宣公を立てる始めまで)
文公二年(前625年)(仲遂の段)
- 襄仲が齊へ赴いて納幣した。礼にかなう。およそ君が即位すれば舅甥の国と好を結び婚姻を修め、元妃を娶って粢盛を奉ずる。孝である。孝は礼の始めである。
文公四年(前623年)
- 齊から婦姜を迎えた。卿が行かなかったのは礼に反する。君子はこれによって出姜が魯で認められないことを知った。「貴い礼で聘しながら賤しい迎え方をし、君でありながら卑しめ、立てながら廃するのは、信を棄てて主を壊すことだ。国においては必ず乱れ、家においては必ず滅びる。認められぬのも当然である。詩に『天の威を畏れ、ここにこれを保つ』とあるのは、主を敬うことをいう」。
文公十八年(前609年)
- 二月丁丑、文公が薨じた。六月、文公を葬った。秋、襄仲と莊叔が齊へ赴いた。惠公が立ったためであり、あわせて葬儀への参列を謝した。
- 文公の二妃である敬嬴が宣公を生んだ。敬嬴は寵愛され、ひそかに襄仲に取り入っていた。宣公が長じると襄仲に託し、襄仲は立てようとしたが、叔仲が承知しなかった。仲は齊侯に会って請い、齊侯は新たに立ったばかりで魯と親しみたかったので許した。
- 冬十月、仲は惡と視を殺して宣公を立てた。経に「子卒」と書いたのは憚ったのである。仲は君命と称して惠伯を召した。その家宰の公冉務人が「入れば必ず死にます」と止めたが、叔仲は「君命に死ぬのは構わぬ」と言った。公冉務人が「君命なら死んでもよいが、君命でないならなぜ聞くのですか」と言っても聞かず、入って殺され、馬糞の中に埋められた。公冉務人はその妻子を奉じて蔡へ亡命し、後に叔仲氏は復興された。
- 夫人姜氏が齊へ帰った。永の帰国である。出発にあたり泣きながら市を通り、「天よ、仲は不道にも嫡を殺して庶を立てた」と叫んだ。市の人はみな哭し、魯人はこれを哀姜と呼んだ。
宣公元年(前608年)
- 春正月、公子遂が齊へ行って女を迎えた。君命を尊んだのである。三月、遂が夫人の婦姜を伴って齊から帰った。夫人を尊んだのである。
- 夏、季文子が齊へ行って賄賂を納め、会見を請うた。平州で会し、宣公の位を定めた。
- 東門襄仲が齊へ行って和睦を謝した。
- 六月、齊人が濟西の田を取った。宣公を立てたことへの返礼として齊に賄賂としたのである。
宣公五年(前604年)
- 春、宣公が齊へ行った。高固が齊侯に宣公を抑留させ、叔姫を求めた。夏、宣公が齊から帰った。経に書いたのは過ちを示すためである。
- 秋九月、齊の高固が来て女を迎えた。自分のためである。だから経に「逆叔姬」と書いた。卿が自ら迎えたのである。
- 冬、馬を返しに来た。
宣公七年(前602年)
- 春、衞の孫桓子が来て盟った。初めて国交を開き、あわせて晉との会合を謀った。
- 夏、宣公が齊侯と会して萊を討った。謀議に加わっていない。およそ軍を出すとき、謀議に加われば「及」、加わらなければ「會」という。
- 晉侯が立ったとき宣公は朝見せず、大夫を聘問にも遣わさなかった。晉人は会合で宣公を抑留し、黄父で盟ったが、宣公は盟に加わらず賄賂で免れた。だから黒壤の盟が経に書かれない。憚ったのである。
宣公八年(前601年)
- 大廟で祭を行った。襄仲が卒したのに繹祭を行ったのは礼に反する。
- 戊子、夫人嬴氏が薨じた。
- 冬、敬嬴を葬った。旱で麻が採れず、初めて葛の綱を用いた。雨で葬れなかったのは礼にかなう。礼では葬日を卜するとき遠い日を先に占う。懐かしむ心を避けるためである。
宣公十年(前599年)
- 春、宣公が齊へ行った。齊侯は魯が服したので濟西の田を返した。
- 夏、齊の惠公が卒し、宣公が齊へ弔問に赴いた。季文子が初めて齊を聘問し、國武子が返礼の聘問に来た。
宣公十四年(前595年)
- 冬、公孫歸父が齊侯と榖で会し、晏桓子に会って魯の楽しさを語った。桓子は高宣子に「子家は滅びるだろう。魯に安んじている。安んじれば必ず貪り、貪れば必ず人を謀る。人を謀れば人も己を謀る。一国が彼を謀って、どうして滅びずにいられよう」と告げた。
宣公十五年(前594年)
- はじめて畝ごとに税を取った。礼に反する。穀物は藉法を越えて取らず、それで財を豊かにするものである。
宣公十八年(前591年)
- 公孫歸父は襄仲が宣公を立てた縁で寵を得ており、三桓を除いて公室を強めようとし、宣公と謀って晉へ聘問し、晉の力で除こうとした。
- 冬、宣公が薨じた。季文子が朝廷で「我らに嫡を殺して庶を立てさせ、大きな援助を失わせたのは仲である」と言った。臧宣叔は怒って「その時に処置できなかったのだ。後の者に何の罪があるか。除きたいのなら、私が除こう」と言い、東門氏を追放した。
- 子家(歸父)は帰路、笙に至って帷を張り、介の者に復命した。復命を終えると肌脱ぎになって髪を束ね、位に就いて哭し、三度踊してから出、そのまま齊へ亡命した。経に「歸父還自晉」と書いたのは、これを善しとしたのである。
成公十六年(前575年)
- 九月、晉人が季孫行父を捕らえて苕丘に留めた。冬十月乙亥、叔孫僑如が齊へ亡命した。
- 十二月乙丑、季孫行父が晉の郤犫と扈で盟った。
- 成公が会から帰った。
- 乙酉、公子偃を殺した。
成公十八年(前573年)
- 己丑、成公が路寝で薨じた。道にかなったことをいう。
- 十二月、孟獻子が虛朾で会し、宋を救うことを謀った。宋人は諸侯の出兵を辞退して彭城を囲む軍を請うた。孟獻子は諸侯に断って先に帰り、葬儀に列した。
- 丁未、我が君成公を葬った。経に書いたのは順であることを示す。
襄公二年(前571年)
- 夏、齊姜が薨じた。はじめ穆姜は良い檟の木を選ばせて自分の棺と頌琴を作らせていたが、季文子がそれを取って葬儀に用いた。君子は「礼に反する。礼には逆らうべきものはない。婦は姑を養うものだ。姑を損なって婦を成すのは、これ以上ない逆さである。詩に『ただ哲人のみ、これに話言を告げ、順徳を行う』とある。季孫はここでは哲ではなかった。しかも姜氏は君の祖母である。詩に『酒を作り醴を作り、祖妣に献じ、百礼を洽くし、福を降すこと孔だ偕し』とある」と評した。
- 齊侯が諸姜の宗婦を送葬に遣わした。
襄公四年(前569年)
- 秋、定姒が薨じた。廟で殯せず、棺もなく、虞祭も行わなかった。匠慶が季文子に「あなたは正卿でありながら小君の喪が整わない。君を全うできません。君が長じたとき、誰がその咎を負うのです」と言った。はじめ季孫は自分のために蒲圃の東門の外に六本の檟を植えていた。匠慶が木を請うと、季孫は「適当にせよ」と言った。匠慶は蒲圃の檟を用いたが、季孫は止めなかった。君子は「記録に『無礼を重ねれば必ず自らに及ぶ』というのは、このことであろう」と評した。
- 辛未、季文子が卒した。
襄公七年(前566年)
- 費に城を築いた。
襄公九年(前564年)
- 襄公が晉侯を送り、晉侯は河のほとりで襄公を宴した。襄公の年齢を問うと、季武子は「沙隨で会した年に寡君はお生まれになりました」と答えた。晉侯は「十二年か。これを一終という。木星が一周する年数だ。国君は十五で子を生み、冠してから子を生むのが礼である。君はもう冠すべきだ。大夫よ、冠の道具を用意されぬか」と言った。武子は「君の冠は必ず祼享の礼で行い、金石の楽で節し、先君の祧廟で行います。いま寡君は旅の途中で用意できません。兄弟の国に至ったところで借りて備えたく存じます」と答え、晉侯は承知した。襄公は帰路、衞に至って成公の廟で冠し、鐘磬を借りた。礼にかなう。
襄公十一年(前562年)
- 春、季武子が三軍を編成しようとして叔孫穆子に告げ、「三軍を作り、それぞれの軍から賦を徴しましょう」と言った。穆子は「政はやがてあなたに及ぶ。あなたにはできまい」と言ったが、武子が強く請うたので、「ならば盟おう」と言い、僖公廟の門で盟い、五父の衢で誓った。
- 正月、三軍を編成し、公室を三分してそれぞれ一分ずつ持った。三家はそれぞれ従来の車兵の編成を解き、季氏はその配下の者が役邑を差し出せば賦を免じ、出さなければ倍額を取った。孟氏は半分を家臣とし、子か弟を差し出させた。叔孫氏はすべて家臣とし、そうでなければ許さなかった。
襄公十五年(前558年)
- 春、宋の向戌が聘問に来て盟を継いだ。孟獻子に会い、その邸宅を咎めて「あなたには良い評判があるのに、邸宅を美々しくするのは望むところではない」と言った。獻子は「私が晉にいる間に兄が造ったのです。壊すのは重ねての労であり、また憚られます」と答えた。
襄公二十九年(前544年)
- 夏四月、楚の康王を葬った。襄公は陳侯・鄭伯・許男とともに送葬した。襄公が帰路、方城に至ったとき、季武子が卞を取り、公冶に璽書を持たせて追いかけさせ、「卞を守る者が叛くと聞いたので、臣が兵を率いて討ち、すでに手に入れました。あえて申し上げます」と伝えさせた。公冶は使いを果たして退き、宿舎に着いてから卞を取ったことを知った。
- 襄公は「欲しがっておきながら叛いたという。かえって疎まれるだけだ」と言い、公冶に「私は帰国できようか」と問うた。公冶は「君はまことに国をお持ちです。誰が君に逆らいましょう」と答えた。襄公が公冶に冕服を与えると固辞したが、強いられて受けた。襄公は帰国しないつもりでいたが、榮成伯が式微を賦したので帰った。五月、襄公は楚から帰った。
- 公冶はその邑を季氏に返し、ついに季氏の門に入らなかった。「君を欺くのに、なぜ私を使ったのか」と言い、季孫に会えば以前と同じように季氏のことを語ったが、会わなければ最後まで季氏のことを口にしなかった。病むと家臣を集めて「私が死んでも冕服で斂するな。徳による賞ではない。また季氏に葬らせるな」と言った。
- 范獻子が聘問に来た。杞に城を築いたことへの謝礼である。襄公が饗応し、展莊叔が幣を執った。射手は三組必要だが、公の臣では足りず家臣から取った。家臣の展瑕と展玉父で一組、公の臣の公巫召伯と仲顔莊叔で一組、鄫鼓父と黨叔で一組とした。
襄公三十一年(前542年)
- 襄公が楚宮を造った。穆叔は「太誓に『民の欲するところ、天は必ず従う』とある。君は楚を欲して楚宮を造られた。もし再び楚へ行かれぬなら、必ずこの宮で死なれよう」と言った。六月辛巳、襄公は楚宮で薨じた。叔仲帯が拱璧を盗んで御者の女に与え、懐に入れさせて後から取り上げた。これによって罪を得た。
- 胡の女の敬歸の子である子野を立て、季氏の家に居させた。秋九月癸巳、卒した。喪に痩せ衰えたためである。
- 己亥、孟孝伯が卒した。
- 敬歸の妹の齊婦の子である公子裯を立てた。穆叔は反対して言った。「太子が死ねば、同母弟があれば立て、なければ年長を立て、年が同じなら賢を選び、義が同じなら卜する。これが古の道です。嫡嗣でないなら、どうして妹の子でなければならぬのか。しかもこの人は喪に居て哀しまず、悲しみの場にあって喜色がある。度を外れているというものだ。度を外れた人が患いとならぬことは稀です。もし本当に立てれば、必ず季氏の憂いとなりましょう」。武子は聞かず、ついに立てた。葬儀までに三度も喪服を替え、襟元は元の喪服のように汚れていた。この時、昭公は十九歳であったが、なお子供じみた心があった。君子はこれによって終わりを全うできぬことを知った。
- 癸酉、襄公を葬った。
昭公元年(前541年)
- 春、虢で会した。三月、季武子が莒を討って鄆を取った。莒人が会に訴え、楚が晉に「盟を継いだばかりでまだ退いてもいないのに魯が莒を討った。斉しく結んだ盟を汚すものだ。その使者を戮せられたい」と告げた。樂桓子は趙文子の相を務めており、叔孫から財を得て取りなそうとし、帯を求めたが与えられなかった。梁其踁は「財は身を守るもの。何を惜しまれるのです」と言ったが、叔孫は「諸侯が会に来るのは社稷を守るためだ。私が財で免れれば魯は必ず軍を受ける。それは禍をもたらすことだ。何が守りであろう」と答えた。趙孟はこれを聞き、楚に「魯に罪はあるが、その執事は難を避けず、威を畏れて命を敬んでいる。彼を免じて左右を勧められよ」と請い、叔孫は免れた。
- 叔孫が帰国すると、曽夭が季孫の車を御して労いに来たが、朝から昼まで出てこなかった。曽夭が曽阜に「朝から昼までとは、罪は分かった。魯は互いに忍んで国を成しているのに、外を忍んで内を忍ばぬのでは、何の役に立つのか」と言うと、阜は「外で数か月、ここで一日。何の傷になろう。商いをして儲けたいのに騒がしさを嫌うのか」と答えた。阜が叔孫に「もうお出になってよいでしょう」と言うと、叔孫は柱を指して「これが憎いからといって取り除けようか」と言い、出て会った。
- 叔弓が軍を率いて鄆の田の境を定めた。莒の乱によるものである。
昭公四年(前538年)
- 叔孫が食を絶ち、乙卯に卒した。季孫が中軍を廃することを謀ると、豎牛は「あの方はもとより廃したがっておられました」と言った。
昭公五年(前537年)
- 春正月、中軍を廃した。公室を卑しくしたのである。中軍を施氏の家で廃し、臧氏の家でまとめた。はじめ中軍を作ったとき公室を三分してそれぞれ一分を持ち、季氏はすべてから賦を取り、叔孫氏はその子弟を臣とし、孟氏は半分を取った。廃したときには公室を四分し、季氏が二を選び、他の二家が一ずつを取り、いずれもすべてから賦を取って公に貢納した。
- 文書をもって杜洩に殯所へ告げさせ、「あなたはもとより中軍を毀ちたがっておられた。すでに毀ちました。それでお告げします」と言わせた。杜洩は「あの方は毀ちたくなかったからこそ、僖公廟の門で盟い、五父の衢で誓われたのだ」と言い、文書を受け取って投げ捨て、士を率いて哭した。
- 昭公が晉へ行った。郊迎の労いから贈物まで礼を失わなかった。晉侯が女叔齊に「魯侯は礼をよく心得ているではないか」と言うと、女叔齊は「魯侯が礼を知るものですか」と答えた。晉侯が「郊迎から贈物まで礼に違うところがなかったのに、なぜ知らぬというのか」と問うと、こう答えた。「あれは儀であって礼とはいえません。礼とは国を守り政令を行い民を失わぬためのものです。いま政令は家臣の家にあって取り戻せず、子家羇がいながら用いられず、大国の盟を犯し小国を虐げ、人の難を利とし、その私を知らず、公室は四分され、民は他家に食を仰ぎ、思いは公にない。その終わりを図らず、国君でありながら難がわが身に及ぼうとしているのに、その拠り所を顧みない。礼の本末はここにこそあるのに、こまごまと儀を習うのに急である。礼をよく心得ているというのは、遠いことではありませんか」。君子は叔侯こそ礼を知ると評した。
昭公十年(前532年)
- 叔孫婼が晉へ行き、平公を葬った。
昭公十一年(前531年)
- 五月、齊歸が薨じた。比蒲で大蒐を行った。礼に反する。
- 九月、齊歸を葬った。昭公は哀しまなかった。晉から送葬に来た者が帰ってこれを史趙に語ると、史趙は「必ず魯の郊の民となろう」と言った。侍者が理由を問うと、「歸という姓だ。親祖を思わなければ帰らぬのだ」と答えた。
- 叔向は言った。「魯の公室は卑しくなろう。君に大喪があるのに国は蒐を廃さず、三年の喪がありながら一日の哀しみもない。国が喪を憂えぬのは君を憚らぬこと、君に哀しみの色がないのは親を顧みぬことだ。国が君を憚らず、君が親を顧みぬなら、卑しくならずにいられようか。おそらく国を失うだろう」。
昭公二十一年(前521年)
- 夏、晉の士鞅が聘問に来た。叔孫が政を執っていたが、季孫は晉に憎ませようとして、有司に齊の鮑國が費から帰ったときの礼で士鞅を遇させた。士鞅は怒って「鮑國は位が低く、その国も小さい。それに従った牢の礼で鞅を遇するのは我が国を卑しめるものだ。寡君に申し上げる」と言った。魯人は恐れて四牢を加え、十一牢とした。
昭公二十五年(前517年)
- 叔孫婼が宋を聘問した。宋公が昭子を饗応して新宮を賦し、昭子は車轄を賦した。翌日の宴で酒を飲んで楽しみ、宋公は昭子を右の席に座らせて語り合い、互いに泣いた。楽祁が補佐しており、退いて人に「今年、君と叔孫はともに死ぬだろう。楽しむべきときに哀しみ、哀しむべきときに楽しむのはどちらも心を失っている。心の精爽を魂魄という。魂魄が去れば長くは保てぬ」と告げた。
- 季公若の姉は小邾の夫人となり、宋の元夫人を生み、元夫人が生んだ娘を季平子の妻とした。昭子が宋へ聘問し、あわせてその娘を迎えに行った。公若が従い、曹氏に「与えてはならぬ。魯は彼を追放しようとしている」と言った。曹氏が宋公に告げ、宋公が楽祁に告げると、楽祁は「与えなさい。そうなれば魯君は必ず出奔します。政が季氏にあって三代、魯君が政を失って四代です。民がいないのに志を遂げた者はおりません。国君はそれゆえ民を鎮撫するのです。詩に『人の亡ぶや、心の憂いなり』とある。魯君は民を失っている。どうして志を遂げられよう。静かに命を待てばまだよいが、動けば必ず憂いとなる」と言った。
- 鸜鵒(むくどり)が来て巣を作った。これまでになかったことである。師已は言った。「怪しい。私は文王・武王の代の童謡を聞いている。『鸜よ鵒よ、公は出でて辱めらる。鸜鵒の羽、公は外野に在り、往きて之に馬を饋る。鸜鵒はねおどる、公は乾侯に在り、褰と襦を徴む。鸜鵒の巣、遠きかな遙かなり。稠父は喪に勞し、宋父は驕る。鸜鵒よ鸜鵒よ、往きて歌い来りて哭す』。童謡にこうある。いま鸜鵒が来て巣を作った。その時が来たのか」。
- 秋、雩の祭を二度行ったと書かれた。旱がひどかったのである。
- はじめ季公鳥は齊の鮑文子から妻を娶って申を生んだ。公鳥が死ぬと、季公亥と公思展と公鳥の家臣の申夜姑が家政を助けた。季姒が饔人の檀と通じて恐れ、妾に自分を打たせて秦遄の妻に見せ、「公若が私に迫り、断ったら打たれた」と言い、また公甫に「展と夜姑が私に迫ろうとしている」と訴えた。秦姫が公之に告げ、公之と公甫が平子に告げると、平子は展を卞に拘束し、夜姑を捕らえて殺そうとした。公若は泣いて哀れみ、「これを殺すのは私を殺すことだ」と言い、取りなそうとしたが、平子は豎に入れさせず、正午までに取りなしができなかった。有司が命を受け、公之が急いで殺させた。それで公若は平子を怨んだ。
- 季氏と郈氏の鶏を闘わせたとき、季氏は鶏に鎧を着せ、郈氏は金属の蹴爪を付けた。平子は怒って郈氏の地に宮を広げ、そのうえ責めたので、郈昭伯もまた平子を怨んだ。
- 臧昭伯の従弟の㑹が臧氏で讒言して季氏のもとへ逃げ、臧氏がこれを捕らえると、平子は怒って臧氏の家老を拘束した。
- 襄公の禘祭を行おうとしたとき、萬の舞人はわずか二人で、残りは季氏の家で舞った。臧孫は「これこそ先君の廟を用いることができぬというものだ」と言い、大夫たちはついに平子を怨んだ。
- 公若が昭公の子の公為に弓を献じ、ともに城外へ射に出て季氏を除くことを謀った。公為は公果と公賁に告げ、公果と公賁は侍人の僚柤に昭公へ告げさせた。昭公は寝ていて戈で打とうとしたので逃げた。昭公は「捕らえよ」と言ったが命令は下さなかった。僚柤は恐れて数か月出てこなかったが、昭公は怒らなかった。また言わせると、昭公は戈を執って脅したので逃げた。また言わせると、昭公は「小人の及ぶところではない」と言った。公果が自ら言うと、昭公は臧孫に告げ、臧孫は難があると郈孫に告げ、郈孫は可能だと勧めて子家懿伯に告げた。懿伯は「讒人が君を利用して僥倖を狙っている。事が成らねば君がその汚名を負う。すべきではない。民を数代にわたって手放してきたのに勝利を求めるのは、必ずしも成るとは限らない。しかも政はあちらにあり、図りがたい」と言った。昭公が退けようとすると、「臣はすでに命を聞いてしまった。漏れれば臣は真っ当な死を得られません」と言い、公の館に留まった。
- 叔孫昭子は闞に行っていた。昭公は長府に居し、九月戊戌、季氏を討った。門で公之を殺し、そのまま攻め入った。平子は臺に登って請うた。「君は臣の罪をよく調べられず、有司に干戈をもって討たせられた。臣は沂のほとりで待って罪を調べていただきたい」。許されず、費に囚われることを請うたが許されず、車五乗で亡命することを請うたが許されなかった。
- 子家子は「君よ、許されよ。政があちらから出て久しく、隠れた民の多くがそこから食を得ており、その徒党は多い。日が暮れれば何が起こるか分からぬ。衆の怒りを蓄えてはならぬ。蓄えて治めなければ鬱積し、民に心が生じる。心が生じて求めるところが同じになれば結束する。君は必ず悔やまれよう」と言ったが、聞かなかった。郈孫は「必ず殺すべきです」と言い、昭公は郈孫を遣わして孟懿子を迎えさせた。
- 叔孫氏の司馬である鬷戾が家衆に「どうすべきか」と問うたが誰も答えない。また「我らは家臣であって国のことは知らぬ。ただ季氏があるのとないのと、どちらが我らに有利か」と問うと、みな「季氏がなければ叔孫氏もない」と答えた。鬷戾は「ならば救おう」と言い、兵を率いて向かい、西北の隅を崩して攻め入った。公の兵は甲を脱いで矢筒を持ち、しゃがんでいたので追い散らされた。
- 孟氏は人を西北の隅に登らせて季氏の様子を望ませ、叔孫氏の旗が見えると孟氏に報告した。孟氏は郈昭伯を捕らえて南門の西で殺し、そのまま公の兵を討った。
- 子家子は「諸臣が君を脅した形にして罪を負って出国し、君は留まられよ。意如が君に仕えるにあたって改めぬはずがありません」と言ったが、昭公は「私は忍びない」と言い、臧孫とともに墓に行って謀り、そのまま出発した。
- 己亥、昭公は齊へ亡命し、陽州に留まった。齊侯は平陰で慰問しようとしたが、昭公は先に野井に至った。齊侯は「寡人の罪です。有司を平陰で待たせたのは近かったからです」と言った。経に「公孫于齊、次于陽州、齊侯唁公于野井」と書いたのは礼にかなうからである。人に求めるにはまず身を低くする。礼の善いところである。
- 齊侯は「莒の境から西の千社を君の命に供したい。寡人は軍を率いて執事に従い、命のままに聴きましょう。君の憂いは寡人の憂いです」と言った。昭公は喜んだが、子家子は「天禄は二度来ません。天が君を祐けるとしても周公を越えることはなく、魯があれば十分です。魯を失って千社をもって臣となれば、誰が君として立てましょう。しかも齊君には信がありません。早く晉へ行かれるがよい」と言ったが、従わなかった。
- 臧昭伯が従者を率いて盟おうとし、盟書に「力を合わせて心を一つにし、好悪を同じくし、罪の有無にかかわらず、まことに公に従い、内外に通ずることなかれ」と記した。昭公の命として子家子に示すと、子家子は言った。「そのようなものには私は盟えない。羈は不才にして皆さんと心を同じくできず、皆に罪があると思っている。ある者は内外に通じようとし、ある者は君を除こうとする。皆さんは亡命を好み安定を嫌う。どうして同じくできよう。君を難に陥れる以上の罪があろうか。内外に通じて君を除こうというなら、君は速やかに帰国されよう。通じないなら、何のために何を守るのか」。そして盟に加わらなかった。
- 昭子が闞から帰って平子に会うと、平子は額を地につけて「あなたは私をどうされるか」と言った。昭子は「人は誰も死ぬ。あなたは君を追放した名を残し、子孫が忘れぬことになる。傷ましいではないか。あなたをどうしようか」と言った。平子は「意如に君に仕え直させてくださるなら、死者を生かし白骨に肉を付けるようなものです」と言った。
- 昭子は齊で昭公に従い、昭公と語った。子家子は公の館へ行く者を捕らえるよう命じた。昭公と昭子が幄の中で語り、「衆を安んじて公を帰国させましょう」と言うと、公の徒党は昭子を殺そうとした。人々が道の左に伏せていたので、師展が昭公に告げ、昭公は昭子を鑄から帰らせた。平子には異心があり、冬十月辛酉、昭子は自邸で斎戒し、祝宗に死を祈らせ、戊辰に卒した。師展が昭公を馬に乗せて帰そうとしたが、公の徒党が捕らえた。
- 十一月、宋の元公が昭公のために晉へ赴こうとして曲棘で卒した。
- 十二月庚辰、齊侯が鄆を囲んだ。
昭公二十六年(前516年)
- 春正月庚申、齊侯が鄆を取った。三月、昭公は齊から来て鄆に居した。魯の地であることをいう。
- 夏、齊侯が昭公を帰国させようとし、魯からの財を受け取ってはならぬと命じた。申豐は女賈を従え、幣として錦二両を耳飾りのように巻いて齊軍へ赴き、子猶の家人である高齮に「子猶に贈って高氏の後嗣となり、粟五千庾を得られよ」と言った。高齮が錦を子猶に見せると子猶は欲しがった。齮は「魯人が百両で買おうとしております。話を通すため、まず財を差し上げます」と言い、子猶は受け取った。
- 子猶は齊侯に言った。「群臣が魯君のために力を尽くさぬのは、君に仕える気がないからではありません。しかし据(自分)には思うところがあります。宋の元公は魯君のために晉へ行こうとして曲棘で卒し、叔孫昭子はその君を帰そうとして病もないのに死にました。天が魯を棄てたのか、それとも魯君が鬼神に罪を得てこうなったのか分かりません。君は曲棘で待たれ、群臣に魯君を従わせて試されるがよい。うまく行けば君が続かれればよく、そうすれば敵なしです。成らなければ君が辱めを受けることもありません」。齊侯はこれに従い、公子鉏に軍を率いて昭公に従わせた。
- 成の大夫である公孫朝が平子に「都邑は国を守るためのものです。我らが軍を受けましょう」と言い、許された。人質を差し出すことを請うたが許されず、「あなたの信で十分だ」と言われた。齊軍に「孟氏は魯の落ちぶれた家で、成を使いすぎて耐えられません。齊のもとで肩の荷を下ろしたく存じます」と告げ、齊軍が成を囲むと、成の人は淄水で馬に水を飲ませていた齊兵を討ち、「衆を懲らすためだ」と言った。魯の成は備えを整えてから「衆に勝てませんでした」と報告した。
- 魯軍と齊軍が炊鼻で戦った。齊の子淵㨗が洩声子を追い、声子が射ると楯の中央に当たり、軛を経て車の轅を貫き、三寸食い込んだ。声子がその馬を射ると鞅を断って倒れ、馬を替えた。人々は声子を鬷戾と思って助けた。子車が「齊人だ」と言い、子車を撃とうとしたので、子車が射て倒した。その御者が「もう一度射よ」と言うと、子車は「衆は懼れさせられても怒らせてはならぬ」と言った。
- 子囊帯が野洩を追い、野洩が叱ると、「軍に私の怒りはない。報いれば私事になる。あなたに敵しよう」と言ってまた叱り、野洩も叱り返した。冉豎が陳武子を射て手に当て、武子は弓を落として罵った。冉豎が平子に「色白で髭と眉が濃く、口の達者な君子がおりました」と報告すると、平子は「必ず子彊だ。敵対したのではないか」と言った。冉豎は「君子と申したのです。どうして敵対できましょう」と答えた。
- 林雍は顔鳴の右に立つのを恥じて降りた。苑何忌がその耳を取ろうとし、顔鳴が退けた。苑子の御者が「下を見よ」と言い、苑子が振り返って林雍を斬り、その足を断った。林雍は片足で他の車に乗って帰った。顔鳴は三度齊軍に突入し、「林雍が乗ったぞ」と叫んだ。
- 秋、鄟陵で盟い、昭公の帰国を謀った。
昭公二十七年(前515年)
- 春、昭公が齊へ行った。齊から帰って鄆に居した。国外にいることをいう。
- 秋、扈で会し、周の守備を命じ、あわせて昭公の帰国を謀った。宋と衞はともにそれを利として強く請うた。范獻子は季孫から財を受け取り、司城子梁と北宮貞子に言った。「季孫は自分の罪を知らぬのに君が討ち、囚われることも亡命することも請うた。それでも許されず、君は勝てずに自ら出られた。備えもなしに君を追い出せるものだろうか。季氏の復活は天の救いである。公の徒党の怒りを鎮め、叔孫氏の心を開いたのだ。そうでなければ、人を討ちながら甲を脱ぎ矢筒を持ってうろつくものか。叔孫氏が禍の飛び火を恐れて季氏と同調したのは天の道だ。魯君は齊に三年留まって何も成らず、季氏は大いに民を得ている。淮夷が味方し、十年分の備えがあり、齊・楚の援けがあり、天の助けがあり、民の助けがあり、堅く守る心があり、列国を動かす力がありながらそれを表に出さず、国にいるときと同じように君に仕えている。だから鞅は難しいと思う。お二人はともに国を図る方々で、魯君を帰そうとされる。鞅の願いでもある。お二人に従って魯を囲み、成らねば死のう」。二人は懼れて辞退した。そこで小国の申し出を退け、国内の難を口実に復命した。
- 孟懿子と陽貨が鄆を討った。鄆の人が戦おうとすると、子家子は「天命が変わらぬこと久しい。君を亡命させたのは必ずこの者たちだ。天がすでに禍いを下したのに自ら福を求めるのは難しかろう。鬼神がいる以上、これは必ず敗れる。ああ、望みはない。ここで死ぬのか」と言った。昭公は子家子を晉へ遣わし、公の兵は且知で敗れた。
- 冬、昭公が齊へ行った。齊侯が饗応を請うと、子家子は「朝夕その朝廷に立っているのに、何の饗応でしょう。酒を飲むだけになさい」と言い、酒宴とした。宰に献酬させ、退出を請うた。子仲の子である重が齊侯の夫人となっており、「重に会わせてください」と請うたので、子家子は昭公を伴って退出した。
- 十二月、晉の籍秦が諸侯の守備兵を周へ送ったが、魯は難を理由に辞退した。
昭公二十八年(前514年)
- 春、昭公が晉へ行き、乾侯へ行こうとした。子家子は「人に求めながらその安逸に就くのでは、誰が憐れみましょう」と言ったが、聞かずに国境に至った。晉に出迎えを請うと、晉人は「天が魯国に禍を下し、君は長く国外で苦しんでおられる。君は一人の使者も寡人のもとに寄越さず、甥舅の国の安逸に就かれた」と言い、昭公を国境まで戻らせてから迎えた。
昭公二十九年(前513年)
- 春、昭公が乾侯から来て鄆に居した。齊侯が高張を遣わして慰問させたが、「主君」と呼んだ。子家子は「齊は君を卑しめている。君は辱めを受けるだけです」と言い、昭公は乾侯へ行った。
- 平子は毎年、馬を買い、従者の衣と履を用意して乾侯へ届けていた。昭公が馬を届けた者を捕らえて売り払ったので、以後は馬を届けなくなった。
- 衞侯が乗馬を献じたが、啓服という馬が堀で死んだ。昭公が棺を作らせようとすると、子家子は「従者が困窮しております。これを食べさせてください」と言い、幄で包んだ。
- 昭公が公衍に羔裘を賜り、齊侯へ龍輔を献じさせたとき、羔裘も添えて献じた。齊侯は喜んで陽榖を与えた。
- 公衍と公為が生まれるとき、その母たちはともに産室に入った。公衍が先に生まれたが、公為の母は「一緒に入ったのだから、一緒に告げましょう」と言い、三日後に公為が生まれると、その母が先に告げた。そこで公為が兄となった。昭公はひそかに陽榖の一件を喜び、魯のことを思って「務人(公為)がこの禍を起こしたのだ。しかも後に生まれて兄となったのは、長らく偽りであった」と言い、公為を退けて公衍を太子とした。
- 夏四月庚子、叔詣が卒した。
- 冬十月、鄆が潰えた。
昭公三十年(前512年)
- 春正月、昭公は乾侯にいた。先に鄆を書かないのは、鄆も乾侯も公にふさわしい場所ではなく、過ちを示すためである。
昭公三十一年(前511年)
- 春正月、昭公は乾侯にいた。内にも外にも身を置けなかったことをいう。
- 晉侯が軍で昭公を帰国させようとすると、范獻子は「季孫を召して来なければ不臣が明らかになる。その後で討てばいかがでしょう」と言った。晉人が季孫を召すと、獻子はひそかに「必ず来られよ。私が咎のないよう引き受ける」と伝えた。
- 季孫意如は晉の荀躒と適歴で会した。荀躒は「寡君が躒に問わせております。なぜ君を追い出したのか。君がありながら仕えぬのは、周に常刑がある。よく考えられよ」と言った。季孫は練冠に麻衣、素足で進み、伏して答えた。「君に仕えるのは臣の得られぬところとなりました。刑命から逃れはいたしません。君が臣に罪があるとお考えなら、費に囚われて君のお調べを待ちましょう。また先臣のゆえに季氏を絶やさず死を賜るのでもよく、殺さず亡命もさせぬのは君の恵みです。死んでも朽ちません。もし君に従って帰れるなら、それこそ臣の願いです。異心などございません」。
- 夏四月、季孫が知伯に従って乾侯へ行った。子家子が「君は彼とともに帰られよ。一度の恥を忍べずに終身恥じられるおつもりか」と言い、昭公は承知した。しかし衆は「一言にかかっている。君は必ず彼を追放されよ」と言った。
- 荀躒は晉侯の命で昭公を慰問し、「寡君は躒に君命をもって意如を責めさせました。意如は死から逃れようとしません。君は帰国なさいませ」と言った。昭公は「君の恵みで先君の好誼を顧み、亡命者にまで及ぼされ、帰って宗廟を掃き清めて君にお仕えせよと仰せられても、あの者に会うことはできません。あの者に会うくらいなら、河の神に誓ってもよい」と言った。荀躒は耳をふさいで走り去り、「寡君はその罪を恐れておられる。魯国の難に与り知るなど。臣は寡君に復命いたします」と言い、退いて季孫に「君の怒りはまだ収まっていない。あなたはひとまず帰って祭を行われよ」と告げた。
- 子家子は「君は一乗で魯軍に入られよ。季孫は必ず君を伴って帰りましょう」と言い、昭公は従おうとしたが、多くの従者が昭公を脅して帰らせなかった。
昭公三十二年(前510年)
- 春正月、昭公は乾侯にいた。内にも外にも身を置けず、また人を用いることもできなかったことをいう。
- 十二月、昭公が病んで大夫たちに広く賜物をした。大夫は受けなかったが、子家子は双璜一つ、玉環一つ、璧一つと軽い衣服を受けた。すると大夫はみな賜物を受けた。己未、昭公が薨じ、子家子は賜物を府人に返して「私は君命に逆らえなかっただけだ」と言い、大夫もみな返した。
- 経に「公薨于乾侯」と書いたのは、その居場所を失ったことをいう。
- 趙簡子が史墨に「季氏がその君を追い出したのに民は服し、諸侯もこれに与し、君は国外で死んだのに誰も罪としない。なぜか」と問うと、史墨は答えた。「物が生ずるには両があり、三があり、五があり、副があります。だから天には三辰、地には五行、体には左右があり、それぞれに配偶がある。王に公があり、諸侯に卿があるのも、みな副です。天が季氏を生じて魯侯の副としてから久しい。民が服するのも当然ではありませんか。魯君は代々その失を重ね、季氏は代々その勤めを修めた。民は君を忘れたのです。国外で死んでも誰が憐れみましょう。社稷に常の奉り手はなく、君臣に常の位はない。古来そうなのです。だから詩に『高き岸は谷となり、深き谷は陵となる』とあり、三后の姓が今は庶民となっているのは、主のご存じの通りです。易の卦で雷が乾に乗るのを大壯といい、これが天の道です。昔、成季友は桓公の末子で文姜の愛子でした。身ごもったとき卜し、卜人が『生まれれば良い評判があり、その名は友、公室の輔となる』と告げた。生まれると卜人の言葉通り手に『友』の文があり、それを名としました。後に魯に大功があって費を受け上卿となり、文子・武子に至って代々その業を増し、旧績を廃さなかった。魯の文公が薨じて東門遂が嫡を殺し庶を立て、魯君はここで国を失い、政は季氏に移って、この君で四代です。民は君を知らぬのに、どうして国を得られましょう。ゆえに君たる者は器と名を慎み、人に貸してはならぬのです」。
定公元年(前509年)
- 夏、叔孫成子が乾侯へ昭公の喪を迎えに行った。季孫は「子家子はしばしば私に意見したが、私の志に当たらぬことはなかった。彼と政を執りたい。あなたは必ず引き留め、その意向を聞いてくれ」と言った。
- 子家子は叔孫に会わず、場所を移して哭した。叔孫が会見を請うと、子家子は「羈はまだお目にかかる前に君に従って出国し、君は命を残さずに薨じられた。羈はお目にかかるわけにはまいらぬ」と辞退した。叔孫は使いをやって伝えた。「公衍と公為が群臣を君に仕えられなくした。もし公子宋が社稷を主られるなら群臣の願いです。君に従って出た者で帰れる者については、あなたの言うままに従いましょう。子家氏には後嗣がなく、季孫はあなたと政を執ることを願っている。これはみな季孫の願いで、私に告げさせたのです」。
- 子家子は答えた。「君を立てるなら卿士大夫と守亀がある。羈の与り知ることではない。君に従った者については、体面を保って出た者は入ってよく、賊として出た者は去るがよい。羈については、君はその出国は知られたが帰国は知られていない。羈は逃れよう」。
- 喪が壊隤に至ったとき、公子宋が先に入り、昭公に従った者はみな壊隤から引き返した。六月癸亥、昭公の喪が乾侯から至り、戊辰、定公が即位した。
- 季孫が人夫を闞へ遣わし、公の墓所に溝を掘らせようとした。榮駕鵝は「生前に仕えられず、死後にまた隔てて自らを際立たせるのか。あなたは平気でも、後には必ず恥じる者が出よう」と言い、取りやめた。
- 季孫が榮駕鵝に「君に諡を贈って子孫に知らせたい」と問うと、「生前に仕えられず、死後にまた悪諡をつけて自らを正当化するのか。何の役に立とう」と答え、取りやめた。
- 秋七月癸巳、昭公を墓道の南に葬った。孔子が司寇となったとき、溝を掘って他の墓と合わせた。
- 昭公の出奔のことで、季平子は煬公に祈った。九月、煬公の宮を立てた。
定公十五年(前495年)
- 壬申、定公が高寝で薨じた。
- 秋七月壬申、姒氏が卒した。夫人と称さないのは、訃報を出さず、袝もしなかったからである。
- 定公を葬るとき、雨で葬事を果たせなかった。礼にかなう。
- 定姒を葬ったが、小君と称さない。喪礼を整えなかったからである。
- 冬、漆に城を築いた。経に書いたのは、時宜を得ずに告げてきたからである。
哀公十二年(前483年)
- 春正月、田賦を用いた。
- 夏五月、昭公の夫人である孟子が卒した。昭公は呉から娶ったので姓を書かず、死んで訃報を出さなかったので夫人と称さず、反哭しなかったので「小君を葬る」と言わない。孔子は弔問に加わり、季氏を訪ねたが、季氏は絻を着けず、絰を外して拝した。
哀公二十三年(前472年)
- 春、宋の景曹が卒した。季康子は冉有を遣わして弔問し送葬させ、「敝邑には社稷の事があり、肥(康子)を職務に就かせておりますので、紼を執るお手伝いができません。求(冉有)を遣わします」と言い、輿人には「肥は彌甥に連なる者として、粗末ながら先人ゆえの馬を献じます。求に夫人の家宰へ差し上げさせます。旌繁に見合いましょうか」と伝えさせた。(以上、意如が昭公を追放して以下、哀公が越へ亡命するまで)
哀公十六年(前479年)
- 夏四月、孔丘が卒した。哀公は誄して言った。「旻天は憐れまず、一人の老を遺して余一人を守らせようとされなかった。孤り余は病に在る。ああ哀しいかな、尼父よ。自ら律する者を失った」。子貢は言った。「君は魯で天寿を全うされまい。あの方の言葉に『礼を失えば昏み、名を失えば愆つ。志を失うのが昏、所を失うのが愆』とある。生前に用いられず、死後に誄するのは礼ではない。『一人』と称するのは名にかなわない。君は二つとも失われた」。
哀公二十一年(前474年)
- 夏五月、越人が初めて来た。
哀公二十三年(前472年)
- 秋八月、叔青が越へ行った。初めて越へ使いしたのである。越の諸鞅が聘問に来た。叔青への返礼である。
哀公二十四年(前471年)
- 公子荊の母が寵愛され、夫人にしようとして宗人の釁夏に礼を問わせた。「そのような礼はありません」と答えると、哀公は怒って「お前は宗司でありながら、夫人を立てるのは国の大礼だ。なぜ礼がないのだ」と言った。釁夏は「周公と武公は薛から娶り、孝公・惠公は商から娶り、桓公以下は齊から娶りました。これが礼です。妾を夫人とする礼はもとよりございません」と答えた。哀公はついに立て、荊を太子とした。国人はここから哀公を憎むようになった。
- 閏月、哀公が越へ行った。太子の適郢は哀公を気に入り、娘を娶せて多くの土地を与えようとした。公孫有山が季孫に告げ、季孫は懼れて大宰の嚭を通じて賄賂を贈り、取りやめさせた。
哀公二十五年(前470年)
- 六月、哀公が越から帰った。季康子と孟武伯が五梧で出迎えた。郭重が御者を務め、二人を見て「悪口が多うございました。君よ、問い詰められませ」と言った。哀公は五梧で宴を開き、武伯が祝いを述べる際に郭重を憎んで「なぜそんなに肥えているのか」と言った。季孫は「彘(武伯)に酒を飲ませよ。魯は仇敵と隣接しているので、臣は君にお従いできませんでした。大行を免れながら、また重が肥えているという」と取りなした。哀公は「あの者は言を食むことが多い。肥えずにいられようか」と言った。酒宴は楽しまず、哀公と大夫の間に初めて悪感情が生じた。
哀公二十七年(前468年)
- 夏四月己亥、季康子が卒した。哀公は弔ったが礼を下げた。
- 哀公は三桓の驕りを患い、諸侯の力で除こうとし、三桓もまた哀公の妄りな振る舞いを患えたので、君臣の間に隔たりが多かった。哀公が陵阪に遊び、孟氏の衢で孟武伯に会い、「あなたに問いたい。私は畳の上で死ねようか」と言った。武伯は「臣の知るところではございません」と答え、三度問われてもついに答えなかった。
- 哀公は越の力で魯を討ち三桓を除こうとした。秋八月甲戌、哀公は公孫有陘氏のもとへ行き、そのまま邾へ逃れ、さらに越へ行った。国人は公孫有山氏を処罰した。
史論(士竒)
- 三桓とは孟孫・叔孫・季孫で、いずれも桓公の出である。慶父と叔牙が最初に弑逆を行ったのが公室の削弱の始まりであった。成季は叔牙を毒殺し慶父を追い、閔公・僖公の二君を擁立した。その忠は比べるものがないが、魯国の政を専らにするのもここから始まる。古来、権臣で廃立を手中にしながら大権を逆に握らせぬ者はいなかった。
- 伝は「成風が成季の占の言葉を聞いてひそかに仕え、僖公を託した」という。人臣に私はないはずなのに、僖公を託されて何をしようとしたのか。これを見ても季はすでに純臣ではない。莒を破って拏を捕らえ、平然と汶陽と費の賞を受けた。大都が国に匹敵し、私が強く公が弱いという端はここにある。僖公が淮で会盟している最中に項を取ったのは、誰の仕業か分からぬが、先儒は季氏の仕業とする。
- 仲遂が惡と視を殺して宣公を立てたとき、その意に順って賄賂を納め齊に殷勤を通じたのが行父である。歸父が三桓を除いて公室を強めようとすると、行父の一言で東門氏が追放された。燃え盛るその勢いはまことに恐るべきものだ。行父より前は忠賢と称された者たちであった。
- ところが宿に至って心術はいよいよ問うに堪えなくなる。父が没するや費に城を築き、三軍を作り、卞を取って自らの封とし、范獻子が聘問に来たとき公の臣では三組の射手も揃えられなくなった。まもなく中軍を廃し、公室を四分して季氏が二を取った。そこに意如の凶逆が加わる。この時、魯君は朝夕の身の置き所も定まらず、命さえ危うかった。辛うじて死を免れたが、齊へ逃れ越へ行くまで待つ必要があったろうか。
- ゆえに魯の削弱は三桓によって成り、季氏がその魁である。宿と意如は誅しても足りぬが、賢者に責めを求めれば季友と行父にある。事の権柄がそこから始まったからである。
- 昭公は儀を習うのに急で、喪に居ながら哀しみの色がなく、卑屈で恥を知らず、権臣に制されて自立できなかった。しかし討っても滅び、討たなくとも滅びる状況であった。昭公が二度も戈で献策者を追い払ったのは、機密を守らなかったとはいえない。ついに傷つけられ辱められて袂を払い軍を興したのは、山陽公の密詔や高貴郷公が車に登った類である。惜しむらくは、臺に登って請うたのに応じる権変を欠き、子家子の言を退け、みすみす敗走を招いた。天がそうさせたのだ、何と言おうか。
- 流離して身をやつし、内は側近に制せられ、外は大国に辱められた。梁丘據や范鞅の輩は財宝に溺れて意如をかばい、あらゆる手で妨げ、宋の元公を死なせ、叔孫昭子に恨みを呑ませた。しかも昭公は小を忍ぶ義に暗く、ついに乾侯で老い死んだ。旄丘の葛を賦すとき、齊と晉の君臣に痛憤せずにはいられない。
- 哀公の代は稠父(昭公)よりさらに微弱であった。五梧の出迎えでは杯酒の席で歓を失い、昭公の沈着さにも及ばない。それでいて遠国の力で三桓を除こうとし、越へ行って帰らなかった。悲しいことである。