左傳紀事本末魯の文姜の乱(莊公が讐を忘れたことを付す)(魯文姜之亂(莊公忘/讐附))

魯の桓公の夫人となった齊の文姜が、兄の齊の襄公と通じ、桓公の弑害を招いた事件と、その後も続いた姦通の記録を、桓公三年(前709年)から莊公十九年(前675年)まで扱う篇。桓公十八年(前694年)、申繻の諫めを退けて文姜を伴い齊へ赴いた桓公は、齊侯に通じた文姜の告げ口によって公子彭生の手で車中に殺された。魯は彭生一人の処刑で事を収め、莊公は父の仇を討たぬまま齊と組んで衞を討ち、王姫の婚礼まで主宰した。史論はその「父の仇を忘れた」ことを強く責める。

年表(10件)

桓公三年(前709年)

  • 春、嬴で会した。齊との婚約を成立させたのである。
  • 秋、公子翬が齊へ赴いて女を迎えた。先君以来の好誼を修めるためなので「公子」と記した。
  • 齊侯が姜氏を送り届けた。礼に反する。およそ公の女が対等の国へ嫁ぐとき、姉妹なら上卿が送り、先君に対する礼とする。公の女なら下卿が送る。大国へ嫁ぐ場合は公の女でも上卿が送る。天子へ嫁ぐ場合は諸卿がみな行き、公自身は送らない。小国へ嫁ぐ場合は上大夫が送る。
  • 冬、齊の仲年が聘問に来た。夫人を送り届けた挨拶である。

桓公六年(前706年)

  • 九月丁卯、子同(後の莊公)が生まれた。太子誕生の礼で挙げ、大牢をもって迎え、卜で選んだ士が抱き、その妻が乳を与え、桓公と文姜と宗婦が名を付けた。
  • 桓公が名について申繻に問うと、申繻は答えた。「名には五つあります。信・義・象・假・類です。生まれつきのものに因んで名づけるのが信、徳にちなむのが義、似たものに因るのが象、物から取るのが假、父から取るのが類です。国名を用いず、官名を用いず、山川の名を用いず、隠れた病名を用いず、家畜の名を用いず、器や幣の名を用いません。周人は諱によって神に仕えるので、名は死後に諱まれます。だから国名を用いれば名を廃することになり、官名を用いれば職を廃し、山川の名を用いれば主を廃し、家畜の名を用いれば祀を廃し、器幣の名を用いれば礼を廃します。晉は僖侯のために司徒の名を廃し、宋は武公のために司空の名を廃し、我が先君の獻公・武公は二つの山の名を廃しました。だから大きな物の名を人の名にはできないのです」。桓公は「この子の誕生は私と同じ日だ」と言い、「同」と名づけた。

桓公十八年(前694年)

  • 春、桓公が出行しようとして姜氏を伴って齊へ行こうとした。申繻は「女には嫁ぎ先、男には妻の座があり、互いに侵さないのを礼といいます。これを変えれば必ず敗れます」と諫めた。桓公は濼で齊侯と会し、そのまま文姜とともに齊へ入った。齊侯が文姜と通じ、桓公が咎めると、文姜はそれを齊侯に告げた。
  • 夏四月丙子、齊侯は桓公を饗応し、公子彭生に桓公を車に乗せさせた。桓公は車中で薨じた。魯人は齊に告げた。「寡君は君の威を畏れて安んじておられず、旧好を修めに参りました。礼は成ったのに帰らず、罪の帰するところがありません。諸侯の間に悪名が立ちます。彭生をもってこれを除いてください」。齊人は彭生を殺した。

莊公元年(前693年)

  • 春、即位と称さないのは、文姜が国外にいたからである。
  • 三月、夫人が齊へ逃れた。「姜氏」と称さないのは、絶って親としないという礼による。
  • 秋、王姫の館を城外に築いた。外部の者への礼としてである。

莊公二年(前692年)

  • 冬、夫人姜氏が齊侯と禚で会した。姦通を書いたのである。

莊公三年(前691年)

  • 春、溺が齊軍と合流して衞を討った。これを憎んだのである。

莊公六年(前688年)

  • 冬、齊人が衞の宝器を届けてきた。文姜が請うたのである。

莊公七年(前687年)

  • 春、文姜が齊侯と防で会した。齊侯の意向による。

莊公八年(前686年)

  • 春、廟で治兵した。礼にかなう。
  • 夏、魯軍が齊軍とともに郕を囲み、郕は齊軍に降った。仲慶父が齊軍を討つことを請うと、莊公は「ならぬ。我に徳がないだけで、齊軍に何の罪があろう。罪は我にある。夏書に『臯陶は努めて徳を播き、徳ゆえに人が降った』とある。まずは徳を修めて時を待とう」と言った。秋、軍は引き上げた。君子はこれによって魯の莊公を善しとした。

莊公十九年(前675年)

  • 夫人姜氏が莒へ行った。

史論(士竒)

  • 文姜の淫らな振る舞いは鳥獣の行いで、桓公の弑害に加担し、憚りなく振る舞った。論者は、莊公が防ぎの道を尽くせず、桓公が家を保つ戒めを慎まなかったため、禍が濼で成り、汚れが莒行きで極まったのだという。私はそうは思わない。
  • 礼が冠と昏を第一に置くのは、それが人の道の始めだからである。両姓の好を合わせて宗廟社稷の主とするのだから、親迎ほど重いものはない。魯と齊は近接しており親迎の礼はことに行いやすいのに、桓公は自ら嬴で婚を謀りながら公子翬に女を迎えに行かせた。齊侯は溺愛のあまり礼を越えて送り届けたのに、桓公は姜氏の祧廟で妻を受け取る礼を行わなかった。何と軽重が転倒していることか。
  • しかも羽父は弑君の賊である。婚姻は吉礼の最大のものであるのに、そこに凶人を関わらせた。公子彭生の兆しはここで成っていた。桓公は始めを慎めなかったので終わりも正せなかった。先王が大昏の際に慎みを尽くしたのはそのためである。
  • 子同が生まれたとき、桓公と文姜と宗婦が名を付けた。この時点では文姜も多少は礼に馴れていたように見える。しかし齊へ行って姦通が成ると、淫奔の行いはついに制しがたくなった。桓公が申繻の戒めに従っていれば、ここまで至っただろうか。
  • 桓公は兄を弑したのに魯は討てず、齊人の手を借りて報いを受けた。しかもその媒となったのが文姜である。これも天道があって、そうと知らずにそうなったかのようである。
  • 莊公は父の仇を忘れ、一旅を興して罪を問う軍も出せず、わずかに彭生一人で責を塞ぎ、平然と王姫の婚を主宰し、齊と組んで衞を討った。郕を囲んで郕が齊軍に降り、仲慶父が齊を撃つことを請うても、なお「徳を修めて時を待つ」の義を引いて言い逃れた。天下に人の心を持たぬ者とは、ここまで至るものか。