左傳紀事本末魯と列国の通好(宋・衛/共姬の節義を付す)(魯與列國通好(宋衛節共/姬之 附))

魯が齊・晉を除いて最も親しく交わった宋と衞との国交を、隠公元年(前722年)から昭公二十七年(前515年)まで集めた篇。盟・聘問・返礼の往来が絶えず、成公九年(前582年)には伯姫(共姫)が宋へ嫁ぎ、諸国から媵が送られた。衞侯が晉に捕らえられたときは僖公が玉を献じて釈放を請い、昭公が齊へ亡命したときは宋の元公が晉へ赴く途中で卒するなど、危急に際して互いに力を尽くした。一方で稷の会での賄賂と、澶淵の会で宋の火災の救援を約しながら財を送らなかったことを、史論は失として挙げる。

年表(27件)

隠公元年(前722年)

  • 九月、宋人と宿で盟った。惠公の晩年に黄で宋軍を破っており、隠公が立って和を求め、宿で盟って初めて国交を開いた。

隠公七年(前716年)

  • 秋、宋と鄭が和睦した。七月庚申、宿で盟った。隠公が邾を討ったのは宋のための討伐である。

隠公八年(前715年)

  • 春、齊侯が宋と衞を和睦させようとして会期を定めた。宋公は幣を贈って衞に先に会うことを請い、衞侯が許したので犬丘で会した。
  • 齊人がついに宋・衞と鄭を和睦させた。秋、温で会し、瓦屋で盟って東門の役の遺恨を解いた。礼にかなう。

桓公二年(前710年)

  • 春正月戊申、宋の督が孔氏を攻めて孔父を殺し、その妻を奪った。殤公が怒ったので、督は懼れて殤公を弑した。
  • 督は鄭にいた莊公を迎えて立て、鄭と親しくした。
  • 滕子が来朝した。
  • 三月、桓公は齊侯・陳侯・鄭伯と稷で会し、宋の乱を収拾した。賄賂を受け取ったので華氏を存続させた。
  • 夏四月、郜の大鼎を宋から受け取り、戊申、大廟に納めた。

僖公二十五年(前635年)

  • 衞人が莒と魯を和睦させ、十二月、洮で盟った。衞の文公との好誼を修め、あわせて莒と和睦したのである。

僖公二十六年(前634年)

  • 春正月、僖公は莒の茲㔻公・甯莊子と向で盟い、洮の盟を継いだ。
  • 齊軍が魯の西境を侵した。この二つの盟を咎めたのである。
  • 夏、衞人が齊を討った。洮の盟によるものである。

僖公二十八年(前632年)

  • 晉人が衞侯を捕らえ、京師へ送った。

僖公三十年(前630年)

  • 夏、僖公は衞侯のために取りなし、王と晉侯にそれぞれ玉十㲄を贈った。王が許し、秋、衞侯は釈放された。

文公四年(前623年)

  • 秋、衞の甯武子が聘問に来た。

文公五年(前622年)

  • 臧文仲は陳と衞が親密なのを見て陳とも好を結ぼうとし、夏、季文子が陳を聘問し、あわせて陳から妻を娶った。
  • 襄仲が宋を聘問し、司城の蕩意諸のことを進言して復帰させ、あわせて楚軍の害がなかったことを祝った。

宣公七年(前602年)

  • 春、衞の孫桓子が来て盟い、初めて国交を開き、あわせて晉との会合を謀った。

成公三年(前588年)

  • 冬十一月、晉侯が荀庚を遣わして聘問させ盟を継ぎ、衞侯も孫良夫を遣わして聘問させ盟を継いだ。成公が臧宣叔に「中行伯は晉では位が三番目、孫子は衞では上卿である。どちらを先にすべきか」と問うと、宣叔は答えた。「次国の上卿は大国の中卿に当たり、中卿は下卿に、下卿は上大夫に当たります。小国の上卿は大国の下卿に当たり、中卿は上大夫、下卿は下大夫に当たる。上下がこうであるのが古の制です。衞は晉に対して次国とはいえず、晉は盟主ですから晉を先にすべきです」。丙午に晉と、丁未に衞と盟った。礼にかなう。

成公四年(前587年)

  • 春、宋の華元が聘問に来た。新君との国交を開くためである。

成公五年(前586年)

  • 春、孟獻子が宋へ赴いた。華元への返礼である。

成公八年(前583年)

  • 春、宋の華元が聘問に来た。共姫を娶るためである。
  • 夏、宋公が公孫壽を遣わして納幣した。礼にかなう。
  • 冬、衞人が共姫の媵(付き添いの女)を送ってきた。礼にかなう。およそ諸侯が女を嫁がせるとき、同姓の国は媵を送り、異姓の国は送らない。

成公九年(前582年)

  • 二月、伯姫が宋へ嫁いだ。
  • 夏、季文子が宋へ赴いて女を送り届け、復命した。成公が饗応すると、季文子は韓奕の第五章を賦した。穆姜は房から出て再拝し、「大夫はご苦労なことです。先君を忘れず嗣君にまで及び、未亡人にまで及びました。先君にもなお望みがあることでしょう。あえて大夫の重ねてのご苦労に拝します」と言い、緑衣の最終章を賦して奥へ入った。
  • 晉人が媵を送ってきた。礼にかなう。

成公十五年(前576年)

  • 夏六月、宋の共公が卒した。

襄公元年(前572年)

  • 冬、衞の子叔が聘問に来た。礼にかなう。

襄公二年(前571年)

  • 秋、穆叔が宋を聘問した。新君との国交を開くためである。

襄公七年(前566年)

  • 秋、季武子が衞へ赴いて子叔の聘問に報い、あわせて返礼が遅れたことを詫び、二心があってのことではないと述べた。
  • 冬、衞の孫文子が聘問に来て、武子の言葉に謝し、孫桓子の盟を継いだ。

襄公十五年(前558年)

  • 春、宋公が向戌を遣わして聘問させ、あわせて盟を継いだ。

襄公二十年(前553年)

  • 冬、季武子が宋へ赴いて向戌の聘問に報いた。褚師段が出迎え、饗応を受け、常棣の第七章から末章までを賦した。宋人は手厚く贈物をした。帰って復命すると襄公が饗応し、季武子は魚麗の最終章を賦した。襄公が南山有臺を賦すと、武子は席を離れて「臣には堪えられません」と辞退した。

襄公三十年(前543年)

  • 五月、宋の大廟で「譆譆、出出」と叫ぶ声があり、亳社で鳥が「譆譆」と鳴くように鳴いた。甲午、宋で大火があり、宋の伯姫が卒した。傅母を待っていたためである。君子は「宋の共姫は女としては正しかったが婦としては正しくない。女は人を待つもの、婦は義によって事を処すものだ」と評した。
  • 秋七月、叔弓が宋へ赴いた。共姫を葬るためである。
  • 宋の火災のために諸侯の大夫が会して宋へ財を送ることを謀った。冬十月、叔孫豹は晉の趙武・齊の公孫蠆・宋の向戌・衞の北宮佗・鄭の罕虎および小邾の大夫と澶淵で会した。しかしその後、宋へ財が送られなかったので、経にその人名が書かれない。君子は「信は慎まねばならぬ。澶淵の会で卿の名が書かれないのは信がないからだ。諸侯の上卿が会して信がなければ、寵も名もともに棄てられる。信がないことの許されぬことはこの通りだ。詩に『文王の陟降は帝の左右に在り』とあるのは信をいう。また『汝の振る舞いをよく慎み、偽りを載せるな』とあるのは不信をいう。経に『某人某人、澶淵に会す、宋の災の故なり』と書いたのは咎めたのである。魯の大夫を書かないのは憚ったのである」と評した。

昭公十一年(前531年)

  • 春二月、叔弓が宋へ赴いた。平公を葬るためである。

昭公十二年(前530年)

  • 夏、宋公が華定を遣わして聘問させた。新君との国交を開くためである。

昭公二十五年(前517年)

  • 九月、昭公が齊へ亡命した。十一月、宋の元公が昭公のために晉へ赴こうとしたが、己亥、曲棘で卒した。

昭公二十七年(前515年)

  • 秋、扈で会し、昭公を復帰させることを謀った。宋と衞はともにそれを利とし、実現を請うた。范獻子が季孫から賄賂を受け取ったので、小国の申し出を退け、国内の難を口実に復命した。

史論(士竒)

  • 春秋時代、魯の外交は齊・晉の二大国を除けば宋と衞が最も親しかった。衞は兄弟の国、宋は姻戚の国であり、その間に兵事で齟齬したのは数えるほどしかない。あとは使者の往来と友好が絶えず、左氏の記載だけでも一つ二つでは数えきれない。
  • 隠公元年に宿で盟って平王以来の怨みを解き、八年に犬丘で会してさらに瓦屋で盟い、桓公二年に稷で会し、文公五年に襄仲が聘問し、十五年に華孫が来て盟い、成公四年に華元が聘問し、五年に孟獻子が返礼し、八年に華元が再び聘問して公孫壽が納幣し、九年に伯姫が嫁いで季文子が女を送り届け、襄公二年に穆叔が聘問し、十五年に向戌が来て二十年に季武子が報い、三十年に叔弓が共姫の葬儀に赴き叔孫豹が澶淵の会に加わり、昭公十一年に叔弓が宋の平公を葬り、二十五年に宋の元公が昭公のために晉へ赴いて曲棘で卒し、二十七年に扈で昭公の復帰を謀った。これが魯と宋の国交の始末である。
  • 隠公八年に犬丘で会し瓦屋で盟い、僖公二十五年に洮で盟い、二十六年に向で盟って衞が魯のために齊を討ち、三十年に玉を献じて衞侯の釈放を請い、文公四年に甯俞が聘問し、宣公七年に孫桓子が来て盟い、成公三年に良夫が聘問して盟を継ぎ、八年に共姫の媵を送り、襄公元年に子叔が聘問し、七年に季武子が返礼して孫文子が来て盟を継ぎ、三十年に澶淵の会をともにし、昭公二十七年に昭公復帰の謀に協力した。これが魯と衞の国交の始末である。
  • 衞の成公が深室に幽閉されたとき、諸姫の国はみな見ているだけで顧みなかったが、ひとり魯だけが先君の重器を惜しまず、初めて衞侯を復帰させた。魯の昭公が追放されたとき、身を賭して魯の急難に奔走したのは宋の元公であった。扈の会で諸大夫が昭公の復帰を利としない中、宋と衞の大夫だけが義挙に心を尽くした。三国の好誼が非の打ちどころなく、始めも終わりも善かったことを示している。
  • ただし、稷の会で賄賂を受け取って弑君の賊を討たなかったこと、澶淵で宋の火災の救援を謀りながら実際には財を送らなかったことは、蔡の般を見逃したのが不当だったのと同類の失である。この二つの役はまことに遺憾で、魯と衞が宋と最も親しみながら他の諸侯と同じ悪に加担したのは、何と評すべきか。
  • 共姫は賢く礼にかない、諸国から媵が送られた。「譆譆、出出」の異変に遭っても常法を守って死んだ。聖人がその始めと終わりを一度ならず書き記し、その名を史冊に留めたのは、節を立てることの大きさを知らしめるためである。