左傳紀事本末桓王、鄭を伐つ(桓王伐鄭)
周と鄭の関係が人質の交換から武力衝突へ転落していく経緯を、隠公三年(前720年)から桓公七年(前705年)まで追う篇。平王が虢公に政を分けようとしたことから鄭の莊公が怨み、祭足が温の麦と成周の禾を奪って両者は険悪となる。桓王が鄭伯の政権を奪い諸侯を率いて討つが、繻葛で子元の献策による魚麗の陣に敗れ、祝耼の矢が王の肩を射た。莊公は追撃を許さず、その夜に祭足を遣わして王を慰労している。
隠公三年(前720年)
- 鄭の武公と莊公は平王の卿士であったが、王が虢公にも政を分けようとしたため、鄭伯は王を怨んだ。王は「そんなことはない」と否定し、そこで周と鄭は人質を交換した。王子狐が鄭へ、鄭の公子忽が周へ入った。
- 平王が崩じ、周の人々が虢公に政を委ねようとすると、四月、鄭の祭足が軍を率いて温の麦を刈り取り、秋にはさらに成周の禾を奪った。こうして周と鄭は険悪になった。
- 君子は評した。信が心の内から出ないなら人質は無益である。互いに明らかに理解し合って行動し、礼をもって取り決めれば、人質がなくとも離間できる者はいない。誠実な信さえあれば、谷川や沼のわずかな草、蘋・蘩・蕰・藻のような菜、筐や釜のような粗末な器、たまり水や道の流水でさえ、鬼神に薦め王公に供することができる。まして君子が二国の信を結び、礼をもって行うなら、人質などいらない。國風に采蘩・采蘋があり、大雅に行葦・泂酌があるのは、忠信を明らかにするためである。
隠公六年(前717年)
- 鄭伯が周へ赴き、初めて桓王に朝見した。王は礼をもって遇さなかった。周桓公は王に「周の東遷は晉と鄭に依った。鄭を厚遇して来朝する者を勧めてもなお及ばぬのに、まして無礼にすれば鄭はもう来なくなります」と諫めた。
隠公八年(前715年)
- 夏、虢公忌父が初めて周の卿士となった。
- 八月丙戌、鄭伯が齊人を伴って王に朝見した。礼にかなう。
隠公十一年(前712年)
- 王は鄭から鄔・劉・蒍・邘の田を取り上げ、代わりに蘇忿生の田である温・原・絺・樊・隰郕・攅茅・向・盟・州・陘・隤・懐を鄭に与えた。君子はこれによって桓王が鄭を失うと知った。恕をもって行うのが徳の則であり礼の常道であるのに、自分の物でないものを人に与えれば、相手が来なくなるのも当然である。
桓公五年(前707年)
- 王が鄭伯から政権を奪い、鄭伯は朝見しなくなった。秋、王は諸侯を率いて鄭を討ち、鄭伯が迎え撃った。王は中軍を率い、虢公林父が右軍で蔡人・衞人を従え、周公黒肩が左軍で陳人を従えた。
- 鄭の子元は、左の方陣で蔡・衞に当たり、右の方陣で陳に当たることを進言した。「陳は内乱で兵に戦意がない。先に突けば必ず敗走し、王の直属軍がそれに気を取られて乱れる。蔡・衞も支えきれず先に逃げる。そこで王卒に集中すれば勝てる」。鄭伯はこれに従い、曼伯が右拒、祭仲足が左拒、原繁と高渠彌が中軍で公を奉じ、魚麗の陣を敷いた。前列に偏(車兵)、後列に伍(歩兵)を置き、伍が隙間を埋める布陣である。
- 繻葛で戦い、旗が動いたら鼓を打てと両拒に命じた。蔡・衞・陳はみな敗走し、王卒は乱れ、鄭軍が合流して攻めかかり、王卒は大敗した。祝耼が矢を射て王の肩に当てたが、王はなお軍を保った。祝耼が追撃を請うと、莊公は「君子は人の上に立ちすぎることを望まない。まして天子を陵ぐことなどできようか。自らを救って社稷を失わなければ十分だ」と退けた。
- その夜、鄭伯は祭足を遣わして王を慰労し、左右の者にも見舞いを届けた。
桓公七年(前705年)
- 夏、盟と向が鄭に和を求めたが、まもなく背いた。秋、鄭人・齊人・衞人が盟と向を討ち、王は盟・向の民を郟へ移した。
史論(士竒)
- 鄭の桓公は驪山の乱で死に、その子武公、孫の莊公が相継いで王朝の卿士となった。虢と鄶の間に国し王室を遠く離れなかった鄭は、周の東遷を支えた地縁も近く功も大きい国で、たやすく退けられるものではない。平王が虢公に親しんで政を授けようとし、周の人々が大義をもって裁ききれずその言のとおり実行したことが、周鄭が険悪になった発端である。
- 臣子が君父に信じられず疑われ、忠であって疎まれたなら、いよいよ罪を負い咎を引き受け、忠誠を積んで悔悟の日を待つべきである。それを上下が互いに要求し合い、愛子を人質に出して君臣の分を敵国並みにした。左氏があえて「周鄭」と並べ称したのは、鄭伯の不臣を深く憎んだからである。
- 虢公が用いられるや祭仲が平然と麦と禾を奪ったのは、天子を眼中に置かぬ所業である。春秋の世に諸侯が放恣に王室へ兵を用いるのは鄭の莊公に始まる。道理を滅ぼし分を犯し、父祖の勲労をすべて棄てて顧みない、甚だしい悖逆である。
- 桓王も、麦禾の怨みを含んで来朝に答えず、旧悪を念わぬ義と、鄭を厚遇して来朝を勧める方策とを失った。鄔・劉・蒍・邘の田を取り上げて、手に入るはずのない土地で償ったのも、鄭への処遇として過ちがなかったとはいえない。
- とはいえ鄭が不満から述職の礼を廃したのは、要言と質子、麦と禾の略奪を天子に加えた自らの所業を顧みぬものである。王礼が意にそぐわぬからと無礼で報いるのは臣の義とは言えまい。天子が六師を率いて境上に罪を問うたなら、司寇に身を委ねて頓首伏辜すべきところ、かえって兵を興して抗し、子元の狡知をたくましくし、祝耼の狂矢を放たせた。もし王が軍を保てなかったなら、天日はどうなっていたことか。
- 追撃を許さず「天子を陵ぐことはできぬ」と名目を立て、夜に祭足を遣わして王を慰労し左右を見舞ったのは、殷勤で細やかな節度を飾りながら、王室を掌中で弄ぶ情実と罪をいよいよ明らかにしたものである。
- 当時、天子の兵に四国の軍が雲のように従いながら、一つの鄭も覆せず、かえって軍が敗れ王の威が頓挫した。虢は王に親しまれた国で、その敗走は力が及ばなかったからで、鄭に内通したのではない。だが陳・蔡・衞は実際に戦意がなく、旗を見ただけで崩れた。同類としての恐れがあったのだろう。唐代の諸藩鎮が合兵して賊を討つとき、しばしば徘徊観望して力を尽くさなかったのと同じである。ゆえに繻葛の敗北は蔡・衞・陳にも罪がある。胡文定がこれらを「王に従った」と褒めたのは、そこを見抜いていない。