梁書卷五十五 列傳第四十九 河東王譽

河東王譽

  • 蕭譽、字は重孫、昭明太子の第二子。普通2年、枝江県公に封ぜられ、大通3年、河東郡王に改封され食邑2千戸。寧遠将軍・石頭戍軍事に除せられ、琅邪彭城二郡太守に出て、還って侍中・軽車将軍として佐史を置かれ、南中郎将・湘州刺史に出た。まもなく侯景が京邑を寇し、譽は軍を率いて援けに赴き青草湖に至ったが、台城が陥落すると詔により班師し湘鎮に還った。当時、世祖は武城に軍を置いていたが、新任の雍州刺史張纉が密かに世祖に「河東は挙兵し岳陽(蕭詧)と結んで不逞を謀り、江陵を襲おうとしている」と報じた。世祖は大いに恐れ、歩道でひそかに還り、諮議周宏直を遣わし譽のもとで糧秣・軍衆を督させたが、譽は「各々自分の軍府があるのに、なぜ人に隷属せねばならないのか」と答え、前後三度使者を送ったが譽は従わなかった。世祖は大いに怒り、世子蕭方等を遣わして討たせたが、方等はかえって譽に敗れて戦死した。さらに信州刺史鮑泉を遣わして討たせ、書を送って禍福を示し譽が改心するよう促したが、譽は答えず城池を修浚し防戦の構えを固めた。譽は泉に「敗軍の将にどれほどの勇があろうか、進みたければ進めばよい、多言は無用だ」と言った。
  • 泉の軍は石槨寺に駐屯し、譽はこれを迎え撃ったが利あらず退いた。泉は橘洲に進軍し、譽はまた精鋭を集めて攻めたが陥とせず、日が暮れて士卒が疲弊したところを泉は打って出て大破し、首3千級を斬り溺死者は1万余に及んだ。譽はここに至り長沙の郭邑を焼き払い、居民を城内に駆り集めた。鮑泉は軍を進めて城を囲んだ。譽は幼くして驍勇で兵を撫し人心を得ており、長期の包囲でも内外の連絡が断たれつつ守りは堅固であった。後に世祖はさらに領軍将軍王僧辯を遣わし鮑泉に代えて攻めさせた。
  • 僧辯は土山を築いて城内を臨み、日夜攻め立てたため城中の将士は死傷が半数を超えた。譽は窮迫し、密かに海船を装って囲みを潰し脱出しようとしたが、麾下の将慕容華が僧辯を城内に引き入れたため、譽は左右がみな散じたのを見て捕らえられた。守る者に「私を殺すな、七官(世祖)に一度会って讒賊のことを申し立てさせよ、死んでも恨みはない」と訴えたが、「命により許されない」とされてついに斬られた。首は荊鎮に伝送されたが、世祖はその首を返して葬らせた。
  • 譽が敗れようとする前、鏡に照らしても自分の頭が映らなかったり、長人が屋根に手をついて自室を覗き見る夢を見たり、驢馬ほどの大きさの白い犬が城から出て行方知れずになるのを見たりし、譽はこれをひどく忌み嫌ったが、まもなく城は陥落した。

史論

  • 史臣曰く、蕭綜と蕭正徳はいずれも悖逆に猖狂して自ら滅びに至ったのは当然である。太清の乱に際し蕭紀は庸蜀の資に拠りながら勤王赴難し臣子の節を尽くすことをせず、賊景が誅滅されてからようやく兵を起こしたため、出師に名分がなく自ら禍を招いた。ああ、身をもって管蔡(周初の反逆者)の罰を受けたのは、まさに自ら招いたものであろう。