梁書卷五十六 列傳第五十 侯景

侯景は字を萬景といい、朔方(あるいは雁門)の人(?–552年)。北魏末の乱世で頭角を現し東魏の実力者となったが、高澄との軋轢から梁に降り、のち反旗を翻して建康を陥落させ、梁の武帝を憂憤のうちに崩御させ、簡文帝を弑して自ら皇帝を称した簒奪者。太清の乱を引き起こした張本人であり、王僧辯らの反攻を受けて最後は逃亡の末に殺された。

年表(12件)
  • 孝昌四年528年尒朱榮に投じて功を立て、定州刺史・大行臺に擢んでられ濮陽郡公に封ぜられる
  • 太清元年547年高澄に疑われることを恐れ、梁に上表して降伏を願い出る
  • 太清元年十二月軍を率い譙城を囲むも落とせず、渦陽に退く
  • 太清二年二月高祖が魏と講和したことを知り、叛意をいっそう強める
  • 太清二年八月挙兵して馬頭を攻め、建康へ進撃を開始する
  • 太清三年三月総攻撃を敢行し建康を陥落させる
  • 太清三年五月高祖が崩御。景は喪を秘して発表しなかった
  • 大寳元年十月矯詔して自ら「宇宙大将軍・都督六合諸軍事」を号す
  • 大寳元年550年矯詔により漢王に封ぜられ、剣履上殿の礼遇を得る
  • 太始元年十一月551年蕭棟に禅譲させて自ら即位し、国号を「漢」、太始と改元
  • 太始二年台城を捨てて逃走し、最後は前太子舎人羊鯤に殺される。首は江陵に送られ梟された
  • 太始二年552年王僧辯率いる梁軍の反攻が強まり、防衛線を次々に突破される

出自と東魏時代の経歴

  • 侯景、字は萬景、朔方の人(あるいは雁門の人ともいう)。若い頃から奔放で郷里に恐れられた。成長すると驍勇で膂力に優れ騎射を能くし、選ばれて北鎮の戍兵となり功を積んだ。
  • 魏の孝昌元年(525年)、懐朔鎮兵の鮮于脩禮が定州で反乱を起こし郡県を攻め落とし、柔玄鎮兵の吐斤洛周もこれに合流して衆十余万に達した。脩禮が殺されると、懐朔鎮将の葛栄がその衆を糾合し吐斤洛周を撃殺して併せ、「葛賊」と呼ばれた。
  • 孝昌四年(528年)、魏の孝明帝が崩じ、その母胡氏が臨朝、天柱将軍尒朱榮が晉陽から入京して胡氏を弑し親族を誅した。侯景は私兵を率いて尒朱榮に投じ、榮に才を認められ軍事を委ねられた。葛栄が南下すると榮自ら討伐に赴き、景は先鋒として河内で大破し葛栄を生擒、功により定州刺史・大行臺に擢んでられ濮陽郡公に封ぜられた。
  • 以後、斉の神武帝(高歓)が魏の相となり洛陽に入って尒朱氏を誅すると、景は再びその衆を率いて降り神武に用いられた。性は残忍酷虐で軍の統率は厳しかったが、掠奪した財宝はすべて将士に分け与えたため皆が働き、向かうところ多く勝利した。兵権を総攬し神武に次ぐ地位に至り、魏より司徒・南道行臺に任ぜられ河南に十万の衆を擁して専制した。

高澄との対立と梁への降伏交渉

  • 神武の病が篤くなると、子の高澄に「侯景は狡猾で計略多く、我が死後は必ずお前に従わぬ」と告げ、景を召す書を作らせた。景はこれを知り禍を恐れ、太清元年(547年)、行臺郎中の丁和を遣わして梁に上表し降伏を願い出た。
  • 表では、股肱(重臣)が一致すれば天下は治まり上下が疑い合えば国は裂けると説き、自らは魏丞相高歓と肩を並べて功を立て天平以来忠勤を尽くしてきたが、高歓の病後は子の高澄が政を執り自分を猜疑し讒言する者が入り交じって身に禍が及ぶことを恐れたこと、豫州刺史高成・広州刺史郎椿・襄州刺史李密・兖州刺史邢子才・南兖州刺史石長宣・齊州刺史許季良・東豫州刺史丘元征・洛州刺史朱渾願・揚州刺史樂恂・北荆州刺史梅季昌・北揚州刺史元神和ら河南の刺史たちと密かに結び挙兵の意を通じ合ったこと、黄河以南の地を梁に帰す用意があることを述べ、梁への帰順を請うた。
  • 丁和が至ると、高祖(梁武帝)は群臣に諮った。尚書僕射謝挙以下百官はみな侯景を受け入れるべきでないと論じたが、高祖はこれに従わず景を受け入れた。
  • まもなく斉の神武帝が没し子の高澄(文襄帝)が嗣ぐと、高祖は景を河南大将軍・持節・董督河南南北諸軍事・入行臺・承制輒行(鄧禹の故事に倣う)に封じ鼓吹一部を給した。
  • 斉の文襄は大将軍慕容紹宗を遣わして景を長社に囲ませた。景は西魏に援けを求め、西魏の五城王元慶らが兵を率いて救援すると紹宗は退いた。景は再び司州刺史羊鴉仁に援兵を求め、鴉仁は長史鄧鴻に兵を率いさせたが、元慶の軍は夜のうちに逃げ去った。景は懸瓠・項城に拠り刺史の派遣を求め、梁は羊鴉仁を豫司二州刺史として懸瓠に、羊思達(西陽太守)を殷州刺史として項城に鎮させた。
  • 魏がすでに元帥を喪い景も河南を挙げて梁に帰属したことから、斉の文襄は景が西魏・梁と結ぶことを恐れ、書を送って翻意を促した(要旨:かつての高歓との厚誼を説き、景が恩義に背いた挙を非難し、烏合の衆で危うい状況にあることを指摘したうえで、卷甲来朝すれば豫州刺史に任じ妻子も返す、と降伏を勧告する内容)。景は返書して応じた(要旨:自らの功績と忠勤を述べ、高澄側近の讒言・猜疑によって窮地に追い込まれた経緯を弁じ、和議として黄河以南を梁に以北を斉に分かつ二国鼎立の策を提案し、拘留された妻子への配慮は無用と突っぱねる内容)が、和睦には至らなかった。

渦陽の敗北と壽春への割拠

  • 太清元年十二月、景は軍を率いて譙城を囲むも落とせず、退いて城父を攻略。行臺左丞王偉・左民郎中王則を遣わして魏の元氏一族を魏主に立て北伐を助けることを梁朝に求め許可された。太子舎人元貞を咸陽王としてその地位に即かせようとしたが、斉の文襄が再び慕容紹宗を遣わして追討させたため、景は渦陽に退いた。
  • 渦陽では兵馬なお数千匹・甲卒数万・車万余輛を擁して渦水の北で対峙したが、兵糧が尽き北人の兵士は南渡を望まず、将の暴顕らが部隊ごと紹宗に降った。景の軍は潰散し、腹心数騎とともに峡石から淮水を渡り、歩騎八百人を収めて壽春に奔った。監州の韋黯がこれを受け入れた。
  • 景は貶削を願い出たが優詔で許されず、豫州牧に任じられた。以後、壽春に拠って反意を抱き、属城の民を徴募して軍とし市の税や田租を停止させて子女を将卒に配分し、錦一万匹を軍服用に求めるなど朝廷への要求を重ね、朝廷はこれを容れ続けた。
  • このとき豫州刺史であった貞陽侯淵明が彭城を囲んで敗れ魏に捕われていたが、太清二年二月、高祖は魏と講和した。景はこれを聞いて自らへの害を恐れ諫めたが高祖は聞き入れなかった。以後、景の上表は跋扈し言辞は不遜となり、鄱陽王範(合肥鎮)・司州刺史羊鴉仁がしきりに景の異志を上奏したが、領軍朱异は「侯景ごとき数百の叛虜に何ができようか」と取り合わず、かえって賞賜を厚くしたため景の姦謀はいよいよ固まった。景はまた臨賀王正徳が朝廷を怨んでいることを知り密かに結び、内応を約させた。

建康包囲と台城の陥落

  • 太清二年八月、景は挙兵して馬頭の木柵を攻め太守劉神茂・戍主曹璆らを捕えた。梁は郢州刺史鄱陽王範を南道都督、封山侯正表を北道都督、司州刺史栁仲禮を西道都督、裴之高を東道都督として景討伐に当たらせ、丹陽尹邵陵王綸にも諸軍を統括させた。
  • 十月、景は中軍の王顯貴に壽春城を守らせ、偽って合肥に向かうと見せかけて譙州を襲い戍主董紹先を降し刺史豐城侯泰を捕えた。厯陽では太守荘鐡の弟均の夜襲を退け鐡を降し、蕭正徳の内応も得て京口から采石を渡り、姑孰・慈湖を襲い建康に迫った。
  • 蕭正徳が朱雀航で景に合流すると、建康令庾信の防衛は崩れ、景は闕下に至り西豐公大春の守る石頭城、謝禧の守る白下城も次々に陥ちた。景は建康城下で放火・攻城を繰り返し、木驢や攻城兵器を用いて猛攻したが城側もよく防いだ。
  • 十一月、景は蕭正徳を帝に擁立して儀賢堂で即位させ、年号を正平と改め自ら相国・天柱将軍となり、正徳は娘を景に嫁がせた。景は東府城も陥落させ、守将の南浦侯推を含む文武二千余人を虐殺、以後掠奪・強制労働・城内外での虐殺が続き、死体を土山に積み上げるなど惨状を極めた。
  • 援軍として邵陵王綸・裴之高・栁仲禮・韋粲らが集結したが、韋粲は景に敗れ討たれ、援軍は連営数十日に及んだものの内部の統制を欠き、城中は疾疫が蔓延し死者が相次いだ。景は食糧も尽き民の相食む惨状となったため講和を求め、梁は江右四州の地の割譲と宣城王大器の人質提出を条件に許した(実際には石城公大款が代わりに出された)。西華門外で盟を交わしたが、景は間もなくこれを破り、太清三年三月、総攻撃を敢行して建康を陥落させた。
  • 景は台城を制圧すると乗輿の服玩・後宮の嬪妃を掠め、王侯朝士を永福省へ送り、矯詔して大赦を布告、自ら大都督・録尚書事・侍中・持節大丞相を称した。城内には積み重なった死者を焼く臭気が数里に及んだという。
  • 五月、高祖(梁武帝)は文徳殿で崩じた。景は先に建康入城の際に高祖に謁見した折、高祖の威に気圧され「対敵の場では臆したことがないのに、蕭公に会うと自ら畏れを覚える」と語ったと伝わる。高祖はその後も景への譴責をやめず、景を深く敬い憚ったが、待遇を悪くし御膳も削られ、高祖は憂憤のうちに崩御した。景はこれを秘して喪を発せず二十余日後にようやく皇太子(太宗)を即位させた。

江南各地の平定と権力の拡大

  • 景は矯詔して北人の奴婢を解放するなど懐柔策を取る一方、宣城・呉郡・呉興・会稽・東揚州など各地へ軍を派遣して次々に平定した。宋子仙・任約・侯子鑒・郭元建・王偉ら腹心を要職に任じ、太師・太保・太傅・太尉・司徒・司空など三公九卿の位を私に授けた。
  • 江州刺史尋陽王大心を降し、鄱陽世子嗣を討ち、南康嗣王会理・弟の祈陽侯通理らを誅殺するなど反抗勢力を掃討する一方、湘東王繹(後の元帝)配下の徐文盛・胡僧祐・王僧辯らとの攻防が西方で続いた。
  • 大寳元年(550年)、景は自ら相国に進み太山等二十郡を漢王として封じられ、剣履上殿・入朝不趨など蕭何の故事に倣う礼遇を矯詔で得た。
  • 大寳元年十月、矯詔して自らを「宇宙大将軍・都督六合諸軍事」に加号した(詔文には「餘□(底本欠字)如故」とあり)。太宗はこれを聞いて「将軍にまで宇宙の号があるのか」と驚いたという。

簒位と太始の年号

  • 江州・郢州での攻防では、王僧辯配下の徐文盛が任約を破るなど景側は苦戦し、宋子仙が郢州を急襲して刺史方諸・行事鮑泉を捕えたものの、王僧辯の巴陵での持久戦に景軍は疾疫で大きな損害を出し、任約も胡僧祐・陸法和に敗れて捕えられた。
  • 形勢の悪化を見た景は簒奪を急ぎ、太宗(簡文帝)を廃して永福省に幽閉、豫章王棟を皇帝に立てて「天正」と改元した。謀臣王偉の勧めに従ったもので、太尉郭元建は諫めたが聞き入れられなかった。
  • 十月、景は衛尉彭儁・王修纂を遣わして太宗に毒酒を勧め、酔って寝入ったところを土嚢で圧殺させ、薄棺で城北の酒庫に密かに埋葬した。太宗は生前、舎人殷不害に「昨夜土を呑む夢を見た」と語り、これが不吉な予兆であったと伝わる。
  • 十二月、景は蕭棟に九錫の礼を加えさせ丞相以下百官を置き、さらに祖父周を大丞相・父標を丞相に追贈するなど帝制の体裁を整え、太始元年(551年)十一月、蕭棟に禅譲させて自ら即位、国号を「漢」とし太始と改元、蕭棟は淮陰王として幽閉した。
  • 即位の礼では左僕射王偉が七廟の制を進言したが、景は祖先の諱すら知らず一同の失笑を買い、結局王偉が創作して漢の司徒侯霸を始祖、晉の徴士侯瑾を七世祖に仕立てたという。

敗死

  • 太始二年(552年)以降、王僧辯率いる梁軍(湘東王繹方)が反攻を強め、侯子鑒の水軍を破り、石頭城・捍国城などの防衛線も次々に突破された。景は自ら諸柵を巡視して防戦を試みたが、僧辯の攻勢に侯子鑒・史安和・王僧貴らは敗走し、盧暉略・紇奚斤も城を挙げて降った。
  • 敗色濃厚となった景は台城に入らず散兵を集めて逃走を図り、王偉が「今なお宮中に衛士があり一戦できる」と諫めたが、景は「これは天の亡ぼす時であろう」と述べて出撃を選び、なお一敗すると二子を皮袋に入れて馬鞍に掛け、腹心百余騎と共に東へ逃れた。王偉は台城を捨てて逃走し、侯子鑒らは広陵へ奔った。
  • 王僧辯配下の侯瑱が追撃し、景は晉陵・呉郡・嘉興と転々と逃げ、松江で追いつかれると衆はみな幡を掲げて降伏、景は腹心数十人と単舸で逃れる途中、二子を水に投じ、滬瀆から海に出て壺豆洲に至ったところを前太子舎人羊鯤に殺された。首は王僧辯のもとへ送られ江陵に届けられ、世祖(元帝)はこれを市に梟し、のち煮て漆を塗り武庫に納めさせた。
  • 景は身の丈七尺に満たず眉目秀麗であったが、性は猜忌残忍で殺戮を好み、罪人の手足を先に断ち舌を割き鼻を削いで日をおいて殺すなど惨虐を極めた。石頭城には大きな臼を設け、罪を犯した者を搗き殺したという。簒立後は白紗帽に青袍を身に着け、宮中や華林園で烏を射て遊び、王偉に外出を諌められて憂鬱を募らせた。
  • 遺体は建康の市で晒され、百姓が争って肉を切り取り食し骨を焼いて灰にし、酒に混ぜて飲んだ者もいたという。

王偉について

  • 王偉は陳留の人で若くして才学があり、景の表啓・書檄はみな彼の手になるものであった。簒奪の謀もことごとく王偉の策であったが、のちに江陵へ送られ市で烹殺され、被害を受けた百姓のうちにはその肉を割いて食う者もあったという。

史論

  • 史臣曰く、道には常の盛衰があり、時運には窮通の数がある。太清の変乱もまたその一つである。侯景は本国の識見なく身を保つ勇もない小人であったが、王偉がその謀主となって姦計を成し、醜き徒を率いて長江を渡り、強弩を頼みに宮闕を覆し、皇統に禍を及ぼし民に毒害を及ぼして、簒奪の禍を成した。ああ、国の亡びる時には必ず妖孽が現れるというが、これは人事でありながらまた天時でもあろう。かつて夷羿は夏を乱し、犬戎は周を厄し、漢では王莽・董卓が禍を流し、晉では王敦・桓玄が禍を構えたが、これらに比べても羯賊(侯景)の酷さはそれを超えるものであった、と嘆く。