臨賀王正徳
- 蕭正徳、字は公和、臨川靖恵王(蕭宏)の第三子。若くして粗暴で礼節に拘らなかった。高祖に初め男子がいなかった頃、正徳を養子としたが、高祖が即位すると立后の望みを抱くようになった。後に昭明太子が立てられ、正徳は西豊侯に封ぜられ食邑500戸となったが、これ以来怨望を懐き常に軌道を外れ、宮廷を窺い変事を望むようになった。普通6年、黄門侍郎から軽車将軍として佐史を置かれたが、まもなく魏に逃亡した。有司は封爵の削除を奏したが、7年に魏から自ら帰還すると高祖はこれを咎めず封爵を復し、征虜将軍に除した。
- 中大通4年、信武将軍・呉郡太守となり、侍中・撫軍将軍として佐史を置かれ、臨賀郡王に封ぜられ食邑2千戸、さらに左衛将軍を加えられたが、凶暴さは日に日に増し亡命者を招き集めた。侯景は正徳に奸心があると知り密かに誘い、書を送って「今、天子は年老い、奸臣が国を乱し、憲章は錯謬し政令は転倒している。景の見るところ、その計は必ず敗れる。ましてや大王は儲貳(皇太子候補)にありながら中途で廃辱を被り、天下の義士も痛心している。景は愚忠ながら忿慨せずにはいられない。今、四海は業業として大王に心を帰しており、大王がどうしてこの私情を顧みて億兆を棄てられようか。景は武ではないが自ら奮うことを思い、王が蒼生に副われんことを願う、この誠款を鑒みられよ」と述べた。正徳はこれを読んで大いに喜び「侯景の意は暗に我と同じだ、これは天の賛助である」と言い、これに応じた。
- 侯景が江に至ると、正徳は密かに空船を運用し荻を迎えると詐って景を渡らせた。朝廷はその謀を知らず正徳に朱雀航の守りを命じていたが、景が至ると正徳は軍を率いて景と共に進んだ。景は正徳を天子に推し年号を「正平」元年に改め、景は丞相となった。台城が陥落すると再び「太清」の号に戻され、正徳は大司馬に降格された。正徳は怨言を漏らしたが、景はこれを聞き変事を懼れて詔を偽って正徳を殺させた。