梁書卷五十三 列傳第四十七 伏暅

伏暅

  • 伏暅、字は玄耀、伏曼容の子。幼くして父の学業を伝え玄理を語ることに長け、樂安の任昉、彭城の劉曼と共に名を知られた。斉の奉朝請に起家し太学博士を兼ね、東陽郡丞に除せられ、任期満了で鄞令となった。父の曼容がすでに致仕していたため、暅を外職に就け養えるよう頻繁に配慮された。斉末、尚書都官郎、衛軍記室参軍となる。高祖践阼後、国子博士に遷るが父の喪により去職。服喪明けに車騎諮議参軍、司空長史、中書侍郎、前軍将軍・兼五経博士を歴任し、吏部尚書徐勉・中書侍郎周捨とともに五礼の事を総知した。
  • 永陽内史に出て清潔な政を行い、郡民の何貞秀ら154人が州に赴いてその治績を陳情し、湘州刺史が上聞、詔で調査させたところ15事に及ぶ治績が吏民の心に留められていることが確認され、高祖はこれを善しとした。東陽太守に徴され、永陽時代と同様に清恪であった。民の賦税を納められない者には太守自身の田米で助け、郡に麻苧が多いため家人にすら縄を作る麻がなくなるほど自らを厲した。管下の始新・遂安・海寧の県では生きているうちに祠が建てられた。国子博士・領長水校尉に徴される。
  • 当時、始興内史の何逺が清績を重ねており、高祖は詔して逺を黄門侍郎に擢用し、まもなく信武将軍・監吳郡に遷した。暅は自らの名声が逺より先んじていたと自負していたが、逺が抜擢を重ねる一方で暅は階を遷るのみで意満たされず、しばしば病と称して家に居た。東陽に妹の喪を迎えに行く休暇を求めた後、会稽に留まり宅を築いて自ら職を解くと表明した。高祖は詔して豫章内史とし、暅は出て拝命した。
  • 治書御史の虞暠が上奏して弾劾した。「忠信を失えば一心の道は貌において虧け、情において非とされる。両観の誅はまだ及ばずとも名教を陵犯し君親を冒すことを緯俗経邦の器と呼べようか。風聞するに豫章内史伏暅は去年、妹の喪を迎える名目で休暇を得ながら会稽に留まり赴任せず、入京の初めに宅を売り車を売った。これは元来還る意志が無かったことを示す。暅は二郡を歴任し貪濁は免れたがそれは政の根本に過ぎず、功と称すべきではない。人物の品望は何逺の上にあると自負していたが、逺が清公により擢用され名位が上がったことを深く誹謗し怨み、辞色に表れ、寤寐の間も歎き図を失っている。天は高くとも卑を聴き、私なく照らす。去年十二月二十一日の詔『国子博士領長水校尉伏暅は政において廉平である、将養を加えて士風を損なわぬようにすべし、豫章内史とせよ』を得ながら、なぜ魂を失い胆を破り有司に罪を帰し髪を擢き腸を抽くほどの自省もなく、傲然として異色も見せぬのか。暅の見識ならばこの旨を悟れたはずだが寵を貪り辞さぬのは苟得の心である。士流は解体し行路も沸き立つほどの評判となった。事跡と心を照らせば恕すべき余地はない。ひそかに思うに暅は三十余年も落魄していたが、皇運勃興によりすべてが刷新され濯われ、一紀の間に三世にわたって隆顕したにもかかわらず、感激して万分の一も応えることなく、かえって拙謀を巧みに罪と成した。不忠不敬これに極まる。暅を大不敬として論じ、法に照らせば棄市に当たる。刑を科すべく近くの獄に収め、法の定めに従い処断すべし」。
  • さらに具体的に弾劾する上奏文では、「豫章内史臣伏暅は疵を含み悖った行いを行い、語黙ともに敬を欠く。幸いに昌時に登用されながら渓壑(貪欲)は満ちることを知らず、志は無満を欲し、君に叛いて東走することを止足の帰結と言えようか。解巾(出仕)を裏切ることは激越な処し方とは異なり、この脂膏(豊かな任地)に甘んじたことこそ苦しみである。この印綬を帯びることは縲絏(縄目)と何が異なろうか。風憲を明らかにし簡書を粛正すべし。臣ら参議し、現に発覚した事に基づき暅の所居官を免じ、諸々の位任を一切削除すべきことを請う」とし、詔は「治むるに及ばず」として不問に付された。暅はそのまま郡に留まり視事すること3年、給事黄門侍郎・領国子博士に徴されるが赴任前の普通元年、郡にて卒す。享年59。尚書右僕射の徐勉が墓誌を作り、その一章に「東区南服、愛は民胥に結ばれ、相望んで闕に伏し継いで軌を奏書す。あるいは車轍に臥し、あるいは車を扳き、あるいは像を図し、あるいは閭を式す。思いは寇恂(後漢の名臣)を耿む、これをもって何を尚ぶべきか」と記された。
  • もと暅の父曼容は樂安の任瑤とともに斉の太尉王儉に親しくされ、瑤の子の任昉と暅もともに知遇を得たが、まもなく昉の遇は盛んになり、斉末には昉はすでに司徒右長史であったのに暅はなお参軍事に滞っていた。しかしその終わりには名位はほぼ並んだ。暅は性格が儉素で車服も粗悪だったが、内心では退静ではなく心の中で競う気持ちが免れず、時に譏られた。後進を推薦することを常に及ばぬかのように熱心に行ったため、少年士子には慕われることが多かった。