梁書卷五十三 列傳第四十七 孫謙

孫謙

  • 孫謙、字は長遜、東莞莒の人。若くして親類の趙伯符に知られ、伯符が豫州刺史となったとき左軍行参軍に引かれ治績を称された。父憂により去職し歴陽に寓居して自ら耕して弟妹を養い、郷里はその敦睦を称えた。宋の江夏王劉義恭がこれを聞き行参軍に引き、大司馬・太宰の二府を歴仕し、句容令に出た。清慎で記憶力に優れ、県人は「神明」と呼んだ。
  • 泰始初、建安王劉休仁に仕え司徒参軍とされ、明帝は明威将軍・巴東建平二郡太守に抜擢した。郡は三峡に位置し常に威力で鎮められていたが、謙が赴任する際に千人の兵の随行を勧められると「蛮夷が服さないのは待遇を誤ったからに過ぎない、何を煩わせて国費とすることがあろうか」と固辞して受けなかった。郡に至って恩恵の政を布くと蛮獠は懐き、競って金宝を贈ったが謙は慰喩して謝絶し、捕虜となった生口はみな放って家に帰らせ、俸秩を出す吏民の税もすべて免除した。郡境は静謐となり威信が大いに顕れた。3年後、撫軍中兵参軍に還り、元徽初、梁州刺史に遷るが辞して赴かず、越騎校尉・征北司馬府主簿となる。建平王が兵を挙げようとした際、謙は剛直に事を託けて京師に使者を送り乱を防いだ。建平王誅殺後、左軍将軍に遷る。
  • 斉初、寧朔将軍・銭唐令となり、煩雑な事を簡素に処理し獄には囚人なく、去官の際は百姓が謙が在職中贈り物を受けなかったことを知り、絹帛を載せて送ったが謙は辞退した。官を去るたびに私宅を持たず、常に官の空車廐を借りて住んだという。永明初、冠軍長史・江夏太守となるが代任の間に事に坐して尚方に繋がれ、まもなく免ぜられ中散大夫となる。明帝が廃立を企てた際、謙を腹心として衛尉を兼ねさせ甲士百人を配したが、謙はこの際に関わりたくないとして甲士を散じた。帝は罪には問わなかったが以後重用しなかった。
  • 南中郎司馬に出て、東昏侯の永元元年に(欠字二字)大夫に遷る。天監6年、輔国将軍・零陵太守に出る。すでに老衰していたが力を尽くして政を行い吏民は安んじた。以前この郡には虎害が多かったが謙の在任中は姿を消し、去官の夜に虎がまた民を害したという。謙は郡県で常に農桑を勧課し、収穫は隣境より常に多かった。9年、老齢により光禄大夫に徴され、着任すると高祖はその清潔さを嘉し礼遇した。朝見のたびに激務を自ら求め、高祖は笑って「朕は卿の智を用いるのであって力を用いるのではない」と言った。14年、詔して「光禄大夫孫謙は清慎の誉れ高く白髪になっても怠らず、高齢の老臣として優秩を加えるべし。親信二十人と扶けの者を給すべし」とした。
  • 謙は少年から老年まで二県五郡を歴任し、どこでも廉潔で身を持すること儉素であった。牀には蘧蒢の敷物、屏風、冬は布被と莞席のみ、夏は帷帳もなく夜臥しても蚊に悩まされなかったといい、人々は不思議がった。90歳を超えても50歳の壮者のようで、朝会のたびに衆に先んじて公門に到着した。仁義に努め人よりはるかに勝った。兄の靈慶が病んで謙のもとに寄宿していたとき、謙は外出から戻るたびに起居を問い、靈慶が「今飲んだ物の冷熱が調わず今も渇いている」と言うと、謙はその妻を退けた(不注意を戒めた)というほど細やかであった。彭城の劉融という乞食が重病で帰る所がなかったのを友人が謙の家に運んだ際、謙は庁事を開いて迎え入れ、融が死ぬと礼をもって殯葬し、人々はその行義に服した。
  • 天監15年、官にて卒す。享年92。詔して銭三万・布五十匹を賻し、高祖自ら哀を挙げて痛惜した。謙の従子の孫廉は便辟巧宦で斉代からすでに大県を歴任し尚書右丞であった。天監初、沈約・范雲が当朝で権勢を振るうと廉は意を尽くしてこれに仕え、中書舎人黄睦之らにも取り入った。貴要に対しては毎日美食を進め、自ら手ずから煎調して勤労を厭わず、ついに列卿・御史中丞・晋陵吳興太守となった。広陵の高爽という険薄な才人が廉の食客となり、廉は文記を委ねたが、爽が求めた事が意に称わなかった際、屐(下駄)の謎を作って廉を諷し「鼻を刺されても嚔をせず、面を踏まれても瞋らず、歯を齧んで歩数を保つ、これで勝ちを得る」と皮肉った。人々はその恥を計らず名位を求める様を譏った。